大掃除
アイリーニと共に荷物を旧寮に運んできたルカは愕然とした。
(な、なんという見すぼらしい建物だ!)
『既に放棄されているとはいえ、まるまる一棟を貸し切るとはやるな……』
あの言葉は撤回せねばなるまい。なるほど掃除を継続していると言うだけあって不潔というほどではない。だが建物自体の色味が暗いせいか、全体的な雰囲気が小汚いのである。
(定期的に掃除が入っているとはいえ、しばらく人の住んでいない建物などこんなものか……)
ルカは頭の中で、エルマを賞賛した過去の自分を張り倒した。
(これから、こんなところで過ごすのか……)
立ち止まったルカの横を通り過ぎ、アイリーニはさっさと玄関に入って行った。
「どうかしましたの?」
「いや、何でもない」
(貴族だというのに、この有り様に何も思わんのか?落ちぶれたとは聞いていたが、実際ベルナルディ男爵家はかなりの貧乏貴族と見た)
アイリーニは額に青筋を浮かべた。
「何かとてつもなく馬鹿にされている気がしますわ。気のせいかしら?」
「お前を下に見る奴?いったいどこにそんな馬鹿が……見かけたらこの俺がとっちめておこう」
ルカは全力で惚けた。両手を振り上げて大袈裟に肩をすくめる。
アイリーニは怒らせると怖いと聞く。無駄に煽るのは得策ではない。しばらくその様を見つめていたアイリーニは、やがて深いため息を吐いた。
「ハァ…………まぁいいですわ。早く行きましょう」
どうにか誤魔化せたか。ルカは会心の笑みを浮かべた。
(クックック、勝った。困った時は恥も外聞もなく全身全霊でしらばっくれる、これこそ俺最強の処世術だ)
――――――
数十分後、安っぽい紺色の服に身を包んだルカは、憮然とした表情で丸椅子に座っていた。場の全員が同じ服装である。
エルマに声をかけられ集まったのは旧寮一階、食堂であった。
「さて、皆荷物は運び込めたね?まずは掃除からだ。建物を利用するにあたって学園から提示された条件の一つに、手入れを行うことも含まれているんだ。さて、さっそく場所の振り分けを……」
場の全員が静かに話を聞いていた。貴族のアイリーニすら、当然のように掃除の段取りに参加している。不満げな顔をしているのは、ルカ一人である。
(掃除など冗談じゃない!俺は元貴族だぞ?)
「待て待て、待ってくれ!俺は掃除のやり方など知らないぞ。箒も手にしたことがない。どうしてもと言うなら……」
(教えを乞う形で誰かとペアを組めば、実質的には労力を半分以下にできるはず……だが同級生に指導を受けるなど我慢ならん!)
導き出される結論は一つ。ルカはエルマを指差した。
「会長と同じ場所を担当させてもらおうか!」
「良いよ。私はトイレとお風呂をやるから、後で一緒に行こうね」
「は?」
ルカは唖然とした。だが、自分から言い出しておいて撤回できるはずもない。ルカが呆けている間に、エルマは他のメンバーにてきぱきと指示を出していった。
ベルタには、寮内全体の廊下からモップを使って埃を取り、雑巾がけをして床の黒ずみを取るよう指示。
アイリーニには、音波を用いて害虫を追い払った後、廊下と玄関の窓拭きを。
クロードには、寮の外に積もった落ち葉を藁箒で集め、ゴミ袋にまとめるように。また、各階のゴミ捨て場と建物外のゴミ出し場の整理を。
カタリナには、食堂の調理器具をすぐにでも使える段階まで磨いた上で、各階の洗面台及び鏡の拭き上げを。
以上を、建物全体を換気しながら行うよう言い渡したのである。すべての指示を出し終え、振り向いたエルマはニッコリと笑った。
「助かったよ、水回りは大変だからね。女子用のは私がやるから、まずは男子用の浴場に行こうか」
掃除開始前にアイリーニが寮全体に放った音波により、害虫はあらかた追い払われた。これにより、ルカ達は比較的気楽に作業をすることが可能となった。
しかし、かつて百人ほどの寮生が暮らしていたというだけあって旧寮の浴場は広い。壁に備え付けられた脱衣棚も埃で薄汚れている。
「まず、棚の埃をはたきや雑巾を使って払い落とす。次に、床に積もった埃と棚から落とした汚れをまとめて塵取りと箒で集める。片付いたら、水道の蛇口をホースで繋いで、黒ずみを洗い流しながら床全体にモップがけをしよう」
エルマは壁を指差した。
「備え付けの鏡も雑巾で拭きあげてね。最初の汚していい雑巾と、吹き上げ用の綺麗な雑巾を分けて使うと良いよ」
「どうしてこの俺がこんな……」
「さっき皆の前でも説明したけど、この寮は私達を守る城。自分たちで管理すれば、誰も内部から攻撃を仕掛けることはできない」
納得がいかない様子のルカを見て、エルマはふっと笑った。
「それに……君はもう貴族じゃない。この同好会の一員として、役目を果たすんだ」
脱衣所の掃除だけでも大仕事である。一通り手本を見せてから、エルマは出て行った。女子浴場を掃除しに行ったのだろう。
ルカは歯噛みしたが、それも数秒で収まった。
(アイラも頑張っているのに、俺だけ怠けて良いわけがない!磨き上げられた床で示してやろう、元貴族のプライドをな!)
「身体強化!」
雑巾やはたきを使って、棚の埃落としを開始する。
……二時間後、ルカは大浴場内部の掃除に移っていた。湯を流しながら床のぬめりをブラシで取っていく。石鹸を潰して熱湯と混ぜた洗剤をぶち撒け、腰を入れて全身で磨く。
考える余裕はすでに失われ、目の前のタイルだけが世界となっていた。
しかし、ふと痛む腰を伸ばして一息ついた時、心の底から思いが溢れ出した。
「この俺が……こんな……俺はここで何を?こんなものが、俺の人生?」
不意に、両目から涙がこぼれ落ちた。ここに来て芯から理解したのである。
「俺は平民になったのか……これが、普通の生活というやつか……」
(分かったつもりで何も理解していなかった。俺は今後もずっと、こういう現実と向き合っていかねばならんのだ)
同時にルカは、心底恥じ入った。
(俺がずっと見下してきた平民達は、日々掃除をして……いやそれだけではない。料理や洗濯、それに加えて労働までして生計を立てていたのだな。……あの頃の俺は、尊敬すべき人々の営みに唾を吐き、自分の生活を誰が支えているか考えもしなかった……)
「俺は今や平民だ」
その言葉を噛み締め、笑う。ずっと視界に入っていながら知らなかった、新たな世界を知る喜びに。
なぜかは分からないが、かつて汚れ一つない高価な洋服に身を包み平民を見下していた頃の自分より、今必死に汚れに塗れてブラシを握る自分の方が誇りに思える。
ルカは一心不乱に掃除に励んだ。風呂掃除が終わった後はトイレに向かう。
エルマの指示に従い、蛇口に繋いだホースから水を出して掃除に励む。躊躇なく膝をついて便器に手を突っ込み、石鹸を泡立て、磨き上げる。トイレと同様、黒ずんだ床が白みを帯びるまで、作業は終わらない。
深夜。やがて作業が終わった時、ルカは心の底から平民になっていた。そして、旧寮の住人になっていたのである。
「よぉ、お疲れ様」
廊下で、ルカとすれ違ったクロードは手を挙げた。ルカも爽やかな笑顔で返した。
「ああ、お疲れ様」
浴場で汚れを洗い流し、食堂に再び集合した時、場の全員が同じ表情を浮かべていた。濃い疲労と晴れやかさである。
「疲れた顔をしてますわね」
「鏡を見たらどうだ?」
ルカとアイリーニのやり取りに、他の四人は吹き出した。
「さて、今日は学園の食堂から残りを分けてもらってるから、それを食べたら寝るとしようか。詳しいことはまた明日だね」
和やかな食卓は、全員がとてつもない眠気に襲われたため速やかに解散となった。
その夜、寮内はしんと静まり返った。誰もが、泥のように眠った。




