俺には何も分からん
話し合いが終わった後も、アイリーニは座り込んだまま動こうとしなかった。
「学園と交渉して放棄が決まった旧寮の一棟を使わせてもらえることになったから、これからはそこで生活するように。まだ水道とかは繋がってるし、最低限の掃除は継続されてるから心配しなくていいよ」
エルマはそう言って席を立った。
(既に放棄されているとはいえ、まるまる一棟を貸し切るとはやるな……予知?だか何だかの能力を利用したのだろうが……)
既にベルタ、クロード、カタリナの三人は荷物を回収するため寮に向かっている。
元貴族のルカと、アイリーニは荷物が多い。念動力が運搬に適していることもあって、二人で行動することが決まったのである。
(しかし、いつまでこうしているつもりなんだ?そろそろ荷物を取りに行きたいのだが……)
「分かりませんわ。……何も分かりませんの」
アイリーニは下を向いたままボソボソと呟いた。
「分からないというのは……」
「どうしたら良いのか……わたくしが標的になっているのなら、あなたのように家族と縁を切るべきなのかもしれません。でも、そうしたくありませんわ。……仮にそうしたとしてその後どうしたら良いのか、何も分からないのです」
はっと胸を突かれた。聖教会の標的になるとはそういうことだ。聖教会との対立に思い悩む段階をとっくに通り過ぎ、大聖堂を吹き飛ばすに至ったルカの感覚は正常ではない。危機感が麻痺していたのである。
彼女はルカのような責任感や義務から家を出ようとしているのではない。家族を愛しているからこそ、より真剣に思い悩んでいるのだろう。
(気の毒なことだ。……俺は何を?菓子がどうのとどうでも良いことを考えるばかりで、他人の直面している問題の深刻さに対し、あまりに鈍感だった)
ルカは自分を恥じた。何か言おうとするが、口がパクパクと動くばかりで意味のある声にならない。
(ダメだ。嘲る言葉ならいくらでも出てくるが、寄り添う言葉など持ち合わせていない。俺には人の気持ちなど分からない。分かったふりはできるが、そもそも悩みの根にある愛情などというものを知らないせいだ)
それでも、分からずとも何か言ってやりたい。その思いがルカの口を自ずと動かした。出てきた言葉は、ルカ自身の偽らざる本音であった。
「俺には……俺には何も分からん」
「えっ?」
「お前と同じだ。家と縁を切った今、何がしたいか分からない。これまで下してきた決断が正しかったかも、これから何をすべきかも……何一つとして分からん」
目標としてきた完璧な兄という幻想は崩れ去り、自分という存在を対峙する拠り所……貴族という地位すら失った。信者達に生きることを押し付けたが、それで彼らが幸せになれるかも判然としない。
「だが分からなくても、行動することはできる」
自分でも何が言いたいか明確には分からないまま、ルカは続けた。
「そうだな、例えば……お前が心から愛し、信頼する家族と一度話し合ってみたらどうだ?どうなろうとも、お互い納得ずくでの決断ならば最低限悔いだけは残るまい」
アイリーニは顔を上げ、ルカを見つめた。ルカも見つめ返した。
「家族のために決断を下そうとしているお前は良い人間だ。だからこそ、一人ですべてを背負う必要はない」
ルカには、アイリーニの苦しみを背負うことができない。家族間の問題に赤の他人が踏み込んでも、話がこじれるだけだろう。
既にあの地下で、偉そうな説教をして失敗している。積み重ねのない、求められてもいない口出しは余計なお世話なのだと分かっている。
知った上でなお、もし家族と健全な関係を築けていたら『本当はこうしたかった』というルカ自身の後悔が溢れ出すのは止められない。
「そうですわね。……危うく一人で、勝手に突っ走ってしまうところでしたわ。心から、感謝いたします」
「礼には及ばない。お前には何度も助けられた。これで貸し借りなし……いや、まだ借りの方が大きいくらいだ」
「あら。でしたら、あなたに恩を売った過去の自分に、礼でも言っておきましょうか」
「ククッ、それで良い。そろそろ行くぞ、荷物は俺が運んでやる」
ルカ達が立ち上がったその時、部室の扉が開き、パイプを咥えたエルマが姿を現した。
「話し合いは終わったね?」
「はい、ちょうど今から荷物を取りに向かうところです。……先輩は何を?」
「まだ片付けなきゃいけないお仕事があるんだ。すぐ行くから、先に荷物を運び込んでおきたまえ」
「お先に失礼いたします」
ルカは部屋を出る直前、声をかけた。
「煙草を嗜まれるとは意外でしたが……実に良いパイプをお持ちですね」
エルマはケホケホと咳き込みながら答えた。
「ありがとう。煙を胸いっぱいに吸い込むなんて不健康の極みだけど、このデザインだけは私も気に入ってるんだ。気になるなら、また今度見せてあげよう」
「?是非とも」
学生会館を出た二人は、黙って茜差す寮への道を歩いていった。二人は、沈黙をまったく苦にしなかった。




