影など踏まで
ルカは応接間を出た。目から涙が溢れそうになる。
(あのよちよち歩きもできない幼児を見るような眼差し……父上、お気づきでしょうか。あなたのそれは優しさでも愛情でもない、別の何かだ。無関心も行くところまで行くと優しさに転じるものなのか……)
身体に怪我はないかと気遣った直後、権利放棄の書類を机上に置きサインするように求める。家を出る、すなわち絶縁の宣言に対してアッサリその場で追加の書類を用意する。
父は決して心なき怪物ではないが、家族に向ける感情よりも遥かに大きな比重を、貴族としての責務が占めている。
愚かさに対する叱責は父としての側面であるが、それは決して、ルカが行動を改めることを期待してのものではない。
(それも当然か。分家という穏当な道を蹴り、相続権を賭けて大会に出たと思ったら、今度は卒業までの支援すら断る。あまつさえ家を出て縁まで切るというのだからな……)
家を出た以上、父はもう二度とルカに会いに来たりはしないだろう。予想ではない。確信である。
大聖堂に侵入すると決めた時点で、家を出ることは決めていた。聖教会との対立に家族を巻き込むことはできないからだ。
結果、貴族という肩書きと財を失った。
既にルカに与えられた剣や衣服、学園の自室に置いてある文房具まで取り上げられなかったが、邸宅の中にある物は、一切持ち出すことが許されなかった。自室の家具は寮備え付けの物なので、ほぼ無一文である。
(やはり児童向けの御伽話と違って、現実の人助けは高くつく。下手をすれば今頃死んでいたかもしれない。助けたこと自体は後悔してないが、もっと別のやり方があれば……)
――――――
応接間から出たルカがふと顔を上げると、そこには兄がいた。見慣れた堂々たる立ち姿を目にして、潤んだ瞳から溢れかけた涙が引いていく。
ルカは息を吸い込んで歩み寄った。
「終わったか」
「ええ。終わりましたよ、兄上」
「そうか。ようやく、ようやくこの時が来たか……」
兄はしばし天を仰いだ。そして、万感を込めてルカを見つめた。やがて出てきたのは、まったく予想外の一言だった。
「感謝するぞ、ルカ。これでやっと、お前から解放される」
虚をつかれたルカは激しく動揺した。兄に敵意と蔑み以外の感情を向けられたことはない。理由も分からないまま嫌われ、追いつこうにも超えられない壁。それが、感謝?解放?ルカの頭は疑問符に埋め尽くされた。
「ど、どういうことですか、兄上。」
兄はルカの肩に手を置いた。
「思えば……お前には辛く当たり過ぎた」
「えっ?」
ルカは目を白黒させた。
「お前が家と縁を切り、すべての権利を失った今だから言えることだがな。家督を継ぐ継承権はもちろん長男が優先されるが、当主である父の意向次第でお前が後継になる可能性もあった」
兄の言わんとしていることが頭の中で像をなすにつれて、ルカの胸に冷たいものが広がっていった。
「お前は能力に恵まれないまま、それでもなお、ずっと私の背をピタリと追ってきた。家を継ぐべき長男として、弟に劣ることなど決してあってはいけないというのに引き離せず、さりとて超えられることもない絶妙な距離でな」
兄は遠い目をして語り続けた。
「ある日父上は言った。兄か弟か、どちらに家督を継がせるのが領民のためになるか、国のためになるか迷っていると。見え見えの発破をかけられたと思ったが、同時に、お前に追いつかれたら、お前の方が相応しいと父に思われてしまったらどうしようかと、心底震え上がったものだ」
ルカにもようやく全体像が見えてきた。父は、背を追う弟に厳しく接することで成長を促し、追われる兄に焦燥を植え付けた。
企みは奏功し、兄は大陸随一の知力と戦闘力を備えた後継に相応しい存在となり、弟はその座を常に脅かして成長を促す当て馬として完成し、かつ、万が一兄を超えた時には家を継がせる第二の選択肢として機能した。
「今日会場で、父上は何と言ったと思う?お前に勝って欲しいと思ったそうだ。私はその時ヒヤリとした。今日お前が勝っていれば、父上はお前への評価を改めていたやもしれぬ。そうなっていたら、私は今も、お前に継承権を脅かされる恐怖に晒されていただろう」
ルカは額に青筋を浮かべた。兄がきつく当たったのは、弟に対する恐怖を見抜かれまいとした虚勢であったのだ。
(そんな……そんなことのために俺は……!俺は……!ずっと尊敬する兄上に認めて欲しかったのに。それが、俺を恐れていただと?やめろ、ダメだ。憧れが、目標が崩れる。そんな現実を見せないでくれ!)
それは、継承権を脅かす弟という属性が警戒されていたということである。ルカという人間そのものは眼中にも入っていなかったということである。これに勝る屈辱はない。
(いっそ俺のことを心底嫌ってくれていたら、どんなにか良かっただろう……)
少なくとも、好き嫌いはルカの人間性をどう評価するかという問題である。
兄にとって、自分という人間は嫌いという感情を向けるに値しない記号であった。今更ながら、自分を過大評価していたことを突きつけられたのである。
ルカは、自分で思っていた以上に道化であった。ずっと父の掌の上で転がされていたのである。
(父上……!何が達者で、だ。抜け抜けと!許せん!目的のために息子を苦しめても何とも思わぬ……いや、違う。私は父のそういうところを尊敬してきたのだ。ただあなたは、私が思う以上に、骨の髄まで貴族だった。それだけのこと……)
兄は慰めるようにルカの肩を摩った。
「お前は私の影だけを踏んで生きてきた。私はずっと、私を超えそうで超えられないお前の足掻きに、腑が煮えくりかえりそうなほどの苛立ちを感じながら生きてきた。背中を追うお前から逃げ続ける苦しみに耐えかね、いっそ超えるならさっさと超えてくれと願った時すらあった……」
兄は安らぎに満ちた微笑を浮かべた。
「だが、もう良いんだ。お互いこれで、ようやく解放される。これからは、自分の人生を楽に生きるがいい」
(俺の人生をずっと覆ってきた苦しみなど、正体が見えればまったく大したことではないではないか!こんなことで!俺はずっと、ずっと悩み続けていたというのか!)
怒髪天を突いたルカは、兄の手を払いのけた。
「二度とあなたの影など踏まぬ!自分の人生を生きろだと?言われるまでもないわ!」
兄の顔も見ず、足音荒く邸宅を出る。振り返りはしなかった。二度と。




