残り2割
(家を出る、か。貴族という立場を失えば、俺という人間は八割方終わったと言ってもまったく過言ではない)
ルカは邸宅の応接間に通された。
木製の椅子に腰掛ける。父が来るまで、じっと待つ。
プライベートな書斎ではなく、外部からの客を出迎える応接間に通された意味が、ルカにはよく分かっていた。
父としての説諭ではなく、客として決定を通達するという、これ以上ないほど明白なメッセージである。
(やはり父上は、厳しいようでどこか甘い)
ルカは苦笑した。わざわざ応接間を手配してまで、無駄な期待を絶ってくれている。
(まったくお優しいことだ)
父は明確に優先順位を付ける人物である。貴族としての責務に忠実であり、領民の生活を第一に考えている。ルカの母である第二夫人と政略結婚したのも、感情以上にそのメリットを重視しているからだ。
決してルカを嫌っているわけではない。領民の生活を支えるにあたり、ルカは頼れる器ではないと見ているだけである。
父の守るべきものは多く、そのため相対的にルカの優先度が下がる。自明である。
待っている間に、ルカの心はざわつき出した。
(早く来てくれ!じっくり考える時間ができると、試合での醜態を思い出してしまう!いや、過去など振り返るな!振り返って何が変わるというのだ!)
非生産的な後悔をやめ、前を向く。先を見る。
(そう、大事なのは未来だ!……で、この先は?伯爵家の人間でなくなったら何が残る?コネがあれば仕事の心配などしなくて済んだ。結婚も容易い。入試は一つの試練だったが、乗り越えて仕舞えば、その後は貴族という社会的信用が今まで以上に強力な追い風として機能し始める、そのはずだった)
考えたくもない暗い予想ばかりが頭を過ぎる。否、予想ではない。間違いなく訪れる未来である。向き合わねばならない試練である。
(社会的信用がパーになったらどうなる?自力で就職活動をして、恋愛をして結婚相手を探す?冗談じゃない!私の将来性を買って雇ってください?私という人間を好きになってください?)
ルカは頭を抱えた。
(不可能だ!間違いなく、俺は人に評価される人間ではない!その証拠に、これまでの人生で一人も友達などいなかった!学園に来てはじめて、アイラという可能性が芽生えたくらいだ。身悶えしたくなるほど恥ずかしい失敗と迷走ばかりの人生を送ってきたのに、急に真っ当な人間になれるわけがないッ!)
こんなはずじゃなかった、を繰り返すばかりの人生だった。これからもそれは変わらないだろうが、後ろ盾を失えばリカバーが効かなくなる。跡継ぎとなる長男がいる状況で次男が家を出るというのは、分家などの穏当な道とは異なり、すべてを兄に譲り、爵位も捨てて平民となることを意味する。
貴族としての立場を捨てて家を出る。それは、ルカに自力で正当に努力することを強要する。
決勝戦でルカの前に立ちはだかったベルタは、感覚拡張により、小細工を許さなかった。本人の技量もあわさり、ルカは完全な実力勝負を要求された。
そして、地力勝負に持ち込まれた瞬間、ルカは大敗を喫した。
(自力で道を切り拓く道……事業を始めようにも、何ら実績のない捻くれたガキなど誰も相手にしない!信用がないから、そもそも融資を期待できない……)
ルカの目の前が真っ暗になったその時、応接間の扉が開き、父が姿を現した。
「父上……」
立ち上がろうとするルカを、父は手で制した。
「あの後、試合の場で酷い騒ぎがあったそうだが、怪我はないか?」
「はい……私は無傷ですので、ご心配には及びません」
父は、手に持っていた書類をそっと机の上に置いた。
「では、問題ないな。相続権を含め、あらゆる特権を放棄すると言ったな?約束通り、まずサインしろ。話はその後だ」
いつものように、父は端的に要件を述べた。
「はい……」
ルカは震える手でペンを握った。書類にサインしている間、脳裏を父の言葉が過った。
『一度口にしてしまった言葉は、二度と取り消すことはできない。その重みを知るがいい』
ルカは答えた。
『肝に銘じます』
サインを終えたルカは、父に書類を手渡した。父は一枚一枚目を通し、サインを確認した。
しばらくして、父はベルを鳴らして執事を呼び、書類を手渡した。執事が退出した後、父は口を開いた。
「こうなると思っていた」
「……」
「こういう、だから言っただろうと言わんばかりの物言いは、他人の失敗を嘲る下劣な人間のそれだ。好き好んで使うべき言葉ではない。それを承知の上で、敢えて言っている。その意味が分かるな?」
「はい……誠に申し訳ございません」
「謝る必要はない。この件で損失を被ったのはお前だけだからな。学園を卒業するまでの間、約束通り最低限の支援はしよう。その後は自力でやっていくのだ」
ルカは顔を上げた。
「お気遣い痛み入ります。しかし……しかしながら結構。これ以上の支援は無用にございます」
「何か、支援を受けたくない理由でもあるのか」
父はルカを見つめた。ルカは、目を逸さなかった。
「父上もご存知なのではないですか。私は聖教会に目をつけられているらしいのです」
父の目が見開かれた。
「……知っていたのか」
「ええ。突然分家の話が出てきたのは、枢機卿に睨まれるリスクを下げるためだと、私はそう考えております。最低限暮らしていける財を与えつつ、家とは直接関係のない立場を与えようとしてくださったのですね」
「……どうだろうな。明言はしかねるが」
「しかし、私の置かれている状況は父上が思うよりも遥かに……その、芳しくないのです。たった一つでも手に余る問題が山積し、手が付けられないのです。今すぐ、家との関係を断たねばならない。私はそう考えております」
「……その山積した問題とやらの中身については、知らない方が良いのだろうな」
「ええ。間違いなく」
大聖堂を吹き飛ばした件も、暗殺も、怪物もすべて知るべきでない事柄だ。父もある程度の輪郭は捉えているのだろうが、敢えて明言しないことが肝心だ。知りませんという体を取っておくこと、実際詳細は知らないこと、これに勝る処世術はない。
「そうか。今すぐ家を出るか。では書類を追加せねばならないな。すぐに書類を手配しよう」
「感謝します」
その後、執事が用意した追加の書類にサインを済ませたルカは立ち上がった。使用人より母からの、顔も見たくないとの言伝を聞かされている。これ以上すべきことは何もない。
「長らくお世話になりました。心から感謝しております。母上にも、ご自愛くださいとお伝えしていただきたく」
「しばらく見ない内に、お前もずいぶん大きくなったな。……達者でな」
――――――
応接間を出てしばらく歩くと、廊下の隅に、兄、ジョバンニ・バルトリーニが寄りかかるように立っていた。
ルカは立ち止まったが、息を吸い込むと、再び兄に向けて歩を進めた。




