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灯野はるなは、鍵をポケットに入れたまま旅に出た(シリーズ2)  作者: 皆月 優
005_第五章「逃避・孤独・許されなかった記憶」
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#082 「交渉の席」

 翌朝、町役場の会議室には、必要最小限の人間だけが集まっていた。窓の外には薄い朝靄が漂っている。雪は止んでいたが、白く冷えた空気はまだ町全体へ残っていた。長い机の両端に、町の代表と要が座っている。議論は短かった。言葉も少ない。すでに、反対意見も慎重論も出尽くしている。何を怖れているのかも、何を避けたいのかも、全員が理解していた。だからこそ、ここで必要なのは説得ではなく、“決めること”だけだった。


「……条件付きで、承認する」

 代表が静かに言った。それだけで、話は終わる。拍手はない。安堵の声もない。ただ、“決まった”という事実だけが、会議室へ静かに置かれた。役員たちは互いに顔を見合わせ、小さく息を吐く。その空気は、前進というより、“覚悟”に近かった。

 会議室を出る。廊下の空気はひんやりとしていた。窓の外では、朝靄が広場を薄く包み込んでいる。


「……あっさりだったな」

 隼人が小さく言った。


「決まる時は、あんなもんだ」

 要は足を止めずに答える。

「反対しない、っていうのも合意だから」

 その言葉には、行政の現場を知る人間特有の現実感があった。


 後ろから、役員の一人が声を掛けてくる。

「昼過ぎから、広場へ人を入れる。機材は倉庫にあるが……古いぞ」


「大丈夫です」

 美弥が即座に答えた。

「古くても、映せます。足りないところは工夫します」


 役員は少し意外そうな顔で美弥を見る。

「……若いのに、詳しいな」


「好きなだけです」

 美弥は肩をすくめた。

 その軽い返答に、役員の表情がほんの少しだけ緩む。役場を出ると、広場の空気は昨日までと違っていた。まだ人は少ない。けれど、“集まろうとしている気配”がある。白い息が幾重にも重なり、静かだった場所へ少しずつ人の気配が流れ込んでいた。

 やがて、軽トラックが到着する。荷台から木箱が降ろされ、古びたケーブルが雪の上へ引きずられていく。誰かが工具箱を開く音。金具の触れ合う音。雪を踏む音。今まで聞こえなかった種類の“動く音”が、広場へ増え始めていた。


「スクリーン、ここで立てる?」

 隼人が地面を踏み、安定を確かめる。


「少しずらした方がいい」

 想太が空を見上げながら言った。

「夕方、西日が目に入る」


「じゃあ、あっち向きだね」

 いちかが通りを指差す。

「人の流れも自然だと思う」

 会話が増えていく。作業が進むたび、広場は少しずつ“使われる場所”へ戻り始めていた。要は代表と並び、電源位置や警備線の引き方を確認している。


 役員の一人が、ぽつりと呟いた。

「人、集まりますかね」


「来ます」

 要は即答した。

「来ない町なら、ここまで何も残らなかった」

 その言葉に、役員は何も返さない。ただ一度だけ、広場中央の台座へ視線を向けた。作業の合間、近所の住民たちが足を止め始める。


「何が始まるんだ?」

「祭りか?」

「……久しぶりだな」

 どの声も、半分は警戒。半分は好奇心だった。


 いちかが自然に声を掛ける。

「夕方、ちょっと集まってください。見るだけでいいから」

 それだけだった。

 無理に説明しない。説得もしない。その距離感が、この町には合っていた。住民たちは互いに顔を見合わせ、小さく頷きながら散っていく。

 はるなは、広場の中央へ立っていた。ポケットの中で、鍵の重みを確かめる。誰にも見せない。けれど、誰かへ隠しているわけでもない。ただ、“まだその時ではない”気がしていた。

 その時だった。ちりん。どこかで鈴の音が鳴った気がした。

 はるなが振り返る。広場の端。あの年配の女性が、静かにこちらを見ていた。厚手の上着。少し曲がった背中。けれど、その表情だけは穏やかだった。目が合う。女性は何も言わない。ただ、小さく頷いた。まるで、“ここまで来たね”と伝えるように。

 夕刻。

 仄暗い空の下、スクリーンが立ち上がる。灯りがひとつ、またひとつと点っていった。ケーブルが雪の上を這い、古びた広場へ新しい線を繋いでいく。白かっただけの空間が、少しずつ“場”へ変わっていく。


 誰かが、小さく言った。

「……動き出したな」

 その言葉を、誰も否定しなかった。

 はるなはポケットの中の鍵を握りしめる。冷たい金属の感触。けれど、その奥には微かな熱が残っている。この光景を。この町の動き出した時間を。途中で止める理由は、もうどこにもなかった。

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