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灯野はるなは、鍵をポケットに入れたまま旅に出た(シリーズ2)  作者: 皆月 優
005_第五章「逃避・孤独・許されなかった記憶」
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#083 「広場の声」

 夕刻。朝から空を覆っていた雲は薄く沈み、灰色の光が町全体を静かに包んでいた。日が傾き始め、広場の端には長い影が伸びている。石畳へ設置された簡易スクリーンは、うっすらと霜をまとっていた。ケーブルは雪を避けるように迂回しながら地面を這い、仮設灯が淡い光を落としている。

 人々は距離を取りながら、円を描くように立っていた。囁き声が、あちこちで生まれては風に千切れて消えていく。子どもの手を引く母親。肩を寄せ合う老人たち。腕を組み、警戒を隠さない若者。誰もが落ち着かない様子だった。だが、それでも帰ろうとはしない。

 六人は機材の傍へ並び、前へ出ることなく、その様子を静かに見守っていた。研究者が最後の確認を終える。代表が短く頷いた。

 そのときだった。人混みの奥から、一人の老女が静かに歩み出る。厚手の外套。小さく曲がった背中。掌には、小さな銀色の鈴。冬の光を受け、その鈴だけが淡く瞬いていた。

 広場の空気が、静かに変わる。老女はスクリーンの手前で足を止めた。誰にも促されない。誰も止めない。彼女はゆっくり鈴を持ち上げ、一度だけ静かに振った。

 ちりん──。澄んだ音が、広場の中心へ落ちる。その瞬間、人々の視線が一斉に集まった。まるで、長い時間止まっていた何かへ、ようやく合図が送られたみたいだった。

 スクリーンへ光が灯る。雪のようなノイズ。ざ、と白い粒子が揺れる。やがて映像が立ち上がった。そこへ映し出されたのは、見慣れた広場だった。けれど、“今”ではない。屋台が並び、紙片が舞い、笑い声が溢れていた頃の広場。人々の間へ、低い息遣いが広がる。


「……あの頃だ」

 誰かが、掠れた声で言った。

 祠の前へ、ともりが立っている。その姿を見た瞬間。老人が胸へ手を当てる。少年は目を見開く。母親は、子どもの肩を抱き寄せた。


『──聞いてください』

 穏やかで、確かな声。記憶の底へ沈んでいた音が、冬の夕暮れへもう一度息を吹き返す。

『この町は、必ずまた繋がります。たとえ今、離れることになっても』


「……離れる?」

 若者が思わず呟く。

 映像の中でも、人々がざわめいていた。戸惑い。不安。理解できないという表情。それは、今この広場へ立っている人々と同じ顔だった。


『便利さや効率を失っても、人の絆は残る』

 ともりの声は静かだった。押しつけない。責めない。ただ、信じている声だった。

『だから私は、あなたたちの選択を尊重します』


 年配の女性が、目元を押さえる。

「……そんなこと、言われたら……」

 その声は、泣き笑いみたいに震えていた。映像の端。鈴を握りしめた小さな少女が、祠へ駆け寄る。ともりは静かに身を屈め、その頭へそっと手を置いた。


『大丈夫。また会える』

 老女の指先が、わずかに震える。鈴を強く握り締めたまま、スクリーンから目を離さない。風が凪いだ。雪の気配が遠のく。画面が揺れる。ノイズが縁から滲み始める。

 そして。強い光が、広場全体を包み込んだ。歓声は上がらない。代わりに、人々は息を詰めていた。

 誰ひとり、目を逸らさない。祠の前へ佇むともりの姿。そこまで映って、画面は暗転した。

 沈黙。重い沈黙だった。けれど同時に、何かが満ちていく沈黙でもあった。


「……ありがとう」

 最初に声を上げたのが誰だったのか、もう分からない。けれど、その一言だけは確かに広場へ落ちた。


「ありがとう……ともり様……」

 老人が震える声で呟く。

「まだ、残ってたんだな……」

 別の老人が、目頭を押さえながら空を見上げる。

「俺、小さい頃に見た覚えがある……祭りの灯り……」

 掠れた声が続いた。


 一方で、若い世代は戸惑いながらスクリーンを見つめていた。

「……祖母が話してた」

 若い女性が、小さく呟く。

「冬になると、広場が明るかったって」

「父さんも言ってたな……鈴の音が聞こえたって」

 青年が、どこか信じられないものを見るように言う。

「昔話だと思ってた」

 その声には、驚きと、少しだけ悔しさが混じっていた。知らなかったことへの悔しさ。途切れていた時間への寂しさ。


「ありがとう」

「ありがとう……」

 言葉が重なっていく。やがて拍手へ変わる。誰かが泣き。誰かが笑い。誰かは、ただ立ち尽くしたまま空を見上げていた。

 ちりん。鈴が、もう一度だけ鳴る。老女はその場へ膝をついた。声を押し殺すように俯く。長い時間、閉じ込めてきたものが、堰を切ったように溢れ出していた。

 誰も駆け寄らない。誰も無理に言葉を掛けない。ただ、近くにいた誰かが、落ちた鈴を拾う。そして静かに、老女の掌へ戻した。


「……戻ってきてくれ」

 若者の声。


「見たろ、あの頃を」

 老人の掠れ声。


「今度は、ちゃんと残さないとな……」

 中年の男性が、静かに呟く。町の声が、町自身を温めていく。研究者がスクリーンの明るさを落とした。映像は、もう終わっている。けれど広場には確かに、“声”が残っていた。

 六人は、その様子を静かに見守っている。誰も前へ出ない。ここは、彼らの場所ではない。これは、この町自身が取り戻す時間だった。


 代表が、一歩だけ前へ出る。

「この記録は、町のものだ」

 短い宣言。その瞬間、再び拍手が広がった。

 老女は顔を上げる。涙に濡れたまま、静かに微笑んだ。

 その笑みを見た時。長く閉ざされていた扉が、ようやく内側から開いた気がした。

 空は曇っている。けれど、西の空だけがわずかに薄く赤みを帯び始めていた。雪はもう降っていない。灯りは、もう十分にある。声は消えていない。ここから、もう一度繋げばいい。広場のざわめきは、静かに、しかし確かに、希望の色を帯び始めていた。

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