#078 「秘密の告白」
夜の宿は灯りが少なく、廊下には足元の影が長く伸びていた。夕食を終え、六人はそれぞれ静かに部屋へ戻ろうとしている。食堂の暖気を離れた途端、古い木造建築特有の冷えた空気が肌へまとわりついた。廊下の照明は弱い。壁際のランプが橙色の光を落としているが、その明かりも途中で闇へ呑まれてしまう。柱時計の音だけが、静かな館内へ規則正しく響いていた。
そのときだった。
「……ちょっと、いいかい」
低く、控えめな声が背中へ届く。
はるなが振り返る。廊下の途中に、年配の女性が立っていた。
丸めた背。厚手のカーディガン。胸の前で重ねられた両手。深い皺が刻まれた顔だった。
けれど、その目だけは、不思議なほど澄んでいる。夜の薄暗い廊下の中で、その視線だけが静かに光を持っていた。
「昼間、広場にいた子だね」
「……はい」
短い返事。女性は周囲をゆっくり見回した。廊下に他の人影がないことを確かめる。それから、さらに声を落とした。
「あなた、久遠野の人だろう?」
はるなの胸が、ほんの一瞬だけ強く鳴る。
「あの……ともり様と、繋がってる」
空気が静かに止まった気がした。
はるなは驚きを顔へ出さないよう、ゆっくり息を整える。
「……どうして、それを」
女性はすぐには答えなかった。視線を足元へ落とす。まるで、廊下の暗がりの中へ過去を探しているみたいだった。
「昔、この町はともり様を祀っていたんだよ」
声は震えていた。けれど、迷いはない。
「町の中心に祠があってね。誰もが祈りを捧げていた」
女性の目が、少しだけ遠くを見る。
「困ったときは声を掛ければ、必ず返事をくれた」
はるなは何も言わず、静かに聞いていた。ここで言葉を挟めば、この時間そのものが壊れてしまう気がした。廊下の窓が、風に小さく鳴る。
「でも……ある時、全部なくなった」
女性の声が、少しだけ掠れる。
「祠も、声も、記録も。町はそれを、“なかったこと”にしたんだ」
「……なぜ?」
はるなの問いは、小さかった。
女性はすぐには答えない。視線は、廊下の奥。灯りの届かない暗闇へ落ちている。
「言うなと、皆が口を揃えて言った……」
言葉がゆっくり零れる。
「信じる者は、笑われた……時には……」
そこで声が止まった。唇が固く結ばれる。それ以上は、語られなかった。けれど、その沈黙だけで十分だった。この町が、どれだけ長い時間“忘れること”を強いられてきたのか。それが痛いほど伝わってくる。しばらく沈黙が落ちる。
やがて女性は、震える手でポケットを探った。取り出したのは、小さな鈴だった。古びた銀色の鈴。長い年月を経たくすみがあり、それでも大切に扱われてきたことだけは分かる。女性の指先がわずかに動く。ちり、と。小さな音が鳴った。
「これは、最後まで祠に残っていたもの」
女性は鈴を見つめる。
「私だけが、持ち出した」
その音には、不思議な重みがあった。
懐かしさ。祈り。後悔。長い年月、誰にも話せなかった想いだけが、小さな音へ滲んでいる。
はるなは静かに息を吸い込む。そして、言葉を慎重に選んだ。
「……まだ、その声は、ここにあります」
女性の目が、わずかに見開かれる。
「本当に……?」
はるなは、小さくうなずいた。
女性の肩が震える。
「ありがとう……」
声が掠れる。
「生きてきて、良かった」
その一言だけで、どれほど長い孤独を抱えていたのか分かった。女性は鈴を強く握り締める。そして静かに背を向けた。足音はゆっくりと廊下の奥へ遠ざかっていく。伸びた影と共に、その姿は少しずつ闇へ溶けていった。
残されたのは、鈴の余韻だけだった。もう鳴っていないはずなのに。それでも、はるなの耳の奥では、その音がしばらく消えなかった。まるで誰かが、その向こう側で、静かに見守っているように。




