#075 「孤独の声」
その夜、宿の廊下はひどく静かだった。客室の扉はすべて閉ざされ、床板のきしみも、階下の食器の音も聞こえない。館内を満たしているのは、古い柱時計の秒針が刻む乾いた音だけだった。かち、かち、と一定の間隔で響くその音が、逆に静寂を際立たせている。廊下の照明は薄暗く、壁に掛けられた古い絵の影が長く伸びていた。窓の外には、白く沈んだ通りが広がっている。街灯の下で雪が絶え間なく降り続き、人影はない。吹き溜まりだけが、時間の経過を淡々と物語っていた。風は弱い。それなのに、町全体が深く息を潜めているようだった。
はるなは部屋の小さな机に腰掛け、湯呑みに手を伸ばす。古い宿特有の匂いがあった。乾いた木材。少し湿った畳。遠くで焚かれている薪の匂い。湯気の立つ茶だけが、この部屋にかろうじて温度を残している。
そのときだった。ふっと、背中に気配を感じる。はるなの指先が止まった。振り返っても、誰もいない。障子も閉じたまま。窓の外にも、人影は見えない。
だが次の瞬間、胸の奥へ冷たいものがすっと流れ込み、指先までわずかな震えが走った。息を吸う。耳を澄ます。
『……まだ、ここにいるよ』
かすかな声だった。ともりの声に似ている。けれど、いつもの柔らかな響きとは違っていた。もっと遠い。もっと静かで、どこか懐かしさを帯びている。
「……誰?」
思わず口にした瞬間、声は途切れた。湯呑みの中の茶が小さく揺れる。湯気が細くほどけ、白い空気へ溶けていく。部屋に残ったのは、自分の鼓動だけだった。
どくん。
どくん、と。
心臓の音だけが、妙に大きく耳へ響く。そのとき、ドアをノックする音がした。
はるなが肩を揺らす。
「……はい」
扉が少し開き、想太が顔を覗かせた。
「起きてた? 明日の予定の確認しようと思って」
「あ……うん」
返事をした声は、少しだけ上ずっていた。心臓の音が、さっきより強く響いている。
想太は部屋へ入り、机の上に資料を置く。そして地図を広げ、指でなぞりながら言った。
「明日は午前中に町役場で打ち合わせ、午後は自由行動らしい」
紙の擦れる音だけが、小さく部屋に響く。
想太は少し言葉を選ぶようにしてから続けた。
「……でも気をつけて。外を歩くと、さっきより視線がきつい」
「……分かってる」
短い返答。そのあと、沈黙が落ちる。部屋の静けさが、さっきより近く感じられた。
想太はどこか居心地の悪そうな笑みを浮かべる。
「それにしても、この宿……静かすぎて落ち着かないな。隣の部屋の音すら聞こえない」
「……そうだね」
はるなは視線を地図へ向けたまま答える。けれど耳の奥では、先ほどの声の余韻がまだ消えずに残っていた。
誰かが呼んでいる。この町のどこかから。理由も分からない。正体も分からない。それでも、その声だけが、静かに胸へ沈んでいく。
想太は資料をまとめると、小さく息を吐いた。
「まあ、明日も早いし。無理するなよ」
「うん」
扉が閉まる。廊下へ出ていく足音が遠ざかり、やがて完全に消えた。再び静寂が訪れる。雪の音すら聞こえない。外は深く、白い闇に包まれている。はるなは、しばらく動かなかった。柱時計の秒針だけが、静かに夜を刻み続けている。
そして──
『……待ってる』
今度は、はっきりと聞こえた。はるなの胸の奥が、熱を帯びる。
立ち上がり、窓辺へ歩み寄る。窓ガラスの向こうには、雪に覆われた町が広がっていた。街灯の灯り。積もった雪。深い夜。町全体が、まるで眠りの底へ沈んでいるみたいだった。
声の主の姿は、どこにも見えない。それでも──確かに、そこに“誰か”がいる。その確信だけが、夜の静けさの中で、はるなを立ち尽くさせていた。




