42.咲、病院へ
元の世界に帰還した翌日、登校すると、隣の席の毛利さんは、筋肉痛が椅子に座るだけでも辛そうだった。熊谷君は平気なようだが、武田さんが重症で、欠席していた。「なんで私だけ筋肉痛酷いの!」と電話で嘆いていたらしい。武田光和さんにしか引けないという鉄の弓を、武田さんの細腕で引いていたわけだから、筋肉もさぞ悲鳴を上げていることだろう。
狐さんは、いつものように休眠中だ。
僕は、筋肉痛には、もう、慣れっこなので平気だった。だけど、一晩経った今も、向こうでの出来事が、すべて、夢だったんじゃないかという感覚に囚われていた。夢といえば、まぁ、住吉さんの夢の中の世界という事なわけだが……。
そして、その夢が、今現在も終わっていない気がして…………
放課後、僕は住吉さんと待ち合わせ、隣町のスイーツ店にいた。テーブルを挟み向かい合って座る姿は、客観的に見ればデートそのものだろう。だが、これは決してデートではない。なぜなら…………彼女の隣には、半分透けた、半透明の女性が座っているからだ。
「あ、あの……隣に座ってる女性って、向こうの世界から帰還するときに、ゲートの前で住吉さんが話してた人だよね?」
「うん。咲ちゃんは、私のお母さんなんだよ」
住吉さんのその言葉に、僕は持っていたフォークを危うく落としそうになった。
向かいの席、住吉さんのすぐ隣に座るその女性――咲さんは、穏やかな笑みを浮かべて僕を見つめている。輪郭が少しだけぼやけて、背後のカフェのメニュー表が透けて見えていた。
咲さんは、あの世界に十年間も囚われていたのだという。
僕たちが帰還する際、ゲートを開いたので、彼女の魂がこちらの世界へ戻ってこれたらしい。あれっ? あの世界は確か、住吉さんの夢の中のの世界って聞いていたんだけど……まぁいい。咲さんの方が色々詳しそうだし、また日を改めて聞くとしよう。
「驚かせてごめんなさいね。……でも、八恵を助けてくれて、本当にありがとう」
透き通るような声が、直接脳内に響く。耳で聴くというより、テレパシーような不思議な響きだった。
咲さんの本体は、この十年間、ずっと病院のベッドで眠り続けている。原因不明の昏睡状態。医学的には「いつ目が覚めてもおかしくないが、その兆候は全くない」と言われ続けてきたらしい。
しかし、今ここに魂があるのなら、やるべきことは一つだ。
「行きましょう。咲さんの……お母さんの体がある場所へ」
僕がそう言うと、住吉さんは強く頷いた。
病院までの道のり、咲さんは浮遊するように僕たちの後を付いてきた。道行く人々は、僕と住吉さんが並んで歩く姿にしか目がいかない。彼女の姿が見えているのは、僕たちだけのようだった。
白く、消毒液の匂いが鼻を突く長い廊下を行くと、その突き当たりに近い個室が咲さんの部屋だった。
重い扉を静かに開けると、そこには人工呼吸器の規則的な音だけが響いていた。
ベッドに横たわる女性は、驚くほど若々しかった。十年前から時が止まったままなのだから当然かもしれない。だが、頬は痩せこけ、肌の色は血の気を失い、まるで精巧な蝋人形のようにも見えた。
「……あ、私だ。ちょっと老けたかな?」
半透明の咲さんが、ベッドの横に立ち、自分自身の顔を覗き込んで苦笑いする。
住吉さんは、ベッドに横たわる「動かない母」の手をぎゅっと握りしめた。
「お母さん、帰ろう。……ちゃんと、中に入って」
住吉さんの声が震えている。
咲さんは優しく娘の頭を撫でた。その手は髪を通り抜けてしまったけれど、確かにそこには親子の絆が漂っていた。
「ええ。八恵、ただいま」
咲さんの魂が、ゆっくりと横たわる体へと重なって半透明の姿が実体と同化していった。
、
一分、二分。沈黙が流れる。
変化は劇的だった。
心電図の音がわずかに速くなる。
白かった頬に、じわじわと赤みが差し始めた。
そして――。
「……っ、……はぁっ!」
肺に溜まっていた古い空気を吐き出すような、深い呼吸。
閉ざされていた瞼が、震えながらゆっくりと持ち上がった。
視界が定まらない様子で宙を彷徨っていた瞳が、やがて目の前で泣きそうな顔をしている住吉さんを捉える。
「……や……え……?」
十年間、一度も使われなかった声帯から、掠れた声が漏れた。
「お母さん! お母さん!」
住吉さんが叫びながら縋り付く。
直後、室内の異常を察知した病院スタッフが、廊下からバタバタと足音をさせて近づいてきた。
「どうしました!? ……えっ、患者さんの意識が……!? 先生! 呼吸器外してください! 住吉さんが目を覚ましました!」
看護師たちの絶叫に近い声に駆けつける医師たち。
十年間眠り続けていた「奇跡の患者」の覚醒に、病室は一瞬にして騒然とした空気に包まれた。
検査、処置、状況確認。
慌ただしく動く白衣の影に隠れて、僕はそっと壁際に身を寄せた。
その混乱の渦中で、咲さんは医師の問いかけに弱々しく応えながらも、ずっと住吉さんの手を離さなかった。住吉さんもまた、涙を流しながら、何度も何度も母親の名前を呼び続けていた。
その光景を見て、僕は確信した。
これは夢なんかじゃない。僕たちが必死で勝ち取った現実なんだ。
……さてと。
これ以上、僕がここにいる必要はないだろう。
ここからは、失われた十年間を埋めるための、親子二人だけの長い対話だ。部外者の僕がその貴重な時間を邪魔するわけにはいかない。
僕は住吉さんに声をかけようとしたが、彼女は今、母親以外の何も目に入っていないようだった。
僕は音を立てないように、そっと病室を抜け出した。
背後からは、まだ病院スタッフのどよめきと、泣き笑いのような親子の声が聞こえてくる。
病院を出ると、夕暮れ時の冷たい風が頬を撫でた。
空を見上げると、グラデーションの美しい夕焼けが広がっている。
僕はポケットに手を突っ込み、一人、帰路についた。
明日、学校で彼女に会ったら、なんて声をかけようか、などと考えながら……。




