小話3 戻りゆく日常
青年は眠い目を擦り上げた。
普段はワックスでセットしているウルフカットはペタリと落ち着いている。
『耀、今日は大掃除しますよ』
空中にひらひらと漂いながら青年に話しかけたのは、黒い蝶をモチーフにしたベネチアンマスク。その無機質な声を聞き、青年は、あぁと生返事をした。
仮面に耀と呼ばれた青年は、大きなあくびをしながら家の中を片付けていく。自分のではない歯ブラシを捨てているところで、耀は手を止めた。
「なぁ、ベマ。俺、なんで片付けなんかしてるんだっけ?」
ベマは小さくため息をついた。
『ったく、現実逃避もいい加減にしてください。あの性悪女の私物を片付けるんだったでしょう?サークルの先輩に寝返った女の。いつまでも残しておくなんて未練たらしいですよ』
「あぁ、、、そうだったな。やっぱり、ちゃんと好きな人と付き合わないといけないよな。あはは」
『そうです。いつか出会えますよ、貴方のことを心から愛してくれる、そんな人に』
「そうだよな。あれ、俺」
耀は歪む視界を腕で拭った。
「なんで泣いてるんだろうな。こんな泣くほど好きだったわけじゃないのに」
『さぁ、捨ててしまいましょう。全部、まっさらにして、また一緒にヒーローをやりましょう』
「あぁ。一人でも多く救わないとな。もらったチャンスを逃すわけにはいかない」
『、、、ええ、そうですね』
こうして、耀は片付けを進めていった。
◇
「耀!どうしたんだ、その目は」
その日の夕刻過ぎ、耀はスノードロップを訪れた。
信頼を寄せている鋼治に失恋の話を聞いてもらおうとしたのだ。
鋼治は腫れ上がった耀の目を見て、慌てて冷やしたタオルを持ってきた。
耀はそれを目に当てながら、ポツリと話し始めた。
「聞いてください、彼女に振られたんですよ!」
「、、、彼女?」
鋼治は顔をしかめた。
「ほら、前に話したじゃないですか!新歓で成り行きで付き合い始めた彼女。あいつ、サークルの先輩に乗り換えたんです」
鋼治は首を傾げながら、それとなく話を振った。
「、、、そうか。その後、ちゃんと好きな人と付き合ったんじゃないのか?」
「何言ってるんです?そんな人いるわけないですよ」
「じゃあ、今日は友達は一緒じゃないのか?いきなり辞めたから心配してたんだ」
「もう、何言ってるんです?鉄平は関西に行っちゃったじゃないですか。ってか、自分の弟でしょう?いきなり辞めたってなんのことですか?」
これはマズいと思った鋼治は、耀に明日の朝店に来るように伝えた。
◇◆◇
次の日、鋼治は定休日を利用して、耀を車に乗せて出掛けた。
「急にどうしたんです?」
「お前疲れてるみたいだからさ、知り合いのとこいくぞ」
鋼治の話によると、昨夜医者の友人に連絡し耀の症状を伝えたところ、深刻かもしれないということで彼が診察の合間を使って診てくれることになったのだ。
耀は久しぶりの鋼治とのドライブに能天気にニコニコとしている。
耀は隣県の緑豊かな場所にある小さな診療所についた。
「いらっしゃい、耀くんだね。鋼治も久しぶり」
診療所の中で待っていたのはミルクティー色の長髪を後ろに束ねた、少し西洋の血が混じったような男だった。鋼治と同じくらいの長身で、白衣姿が様になっている。
"うわ、すげぇイケメン"
鋼治も美丈夫であるので、二人が並んでいるのは眼福以外の何物でもないな、と耀はほうけていた。
「僕は瀬川佳人。ここの診療所の副院長だ。君のこと診させてもらうよ」
MRIや心理検査、血液検査などを終え、検査結果を待つことになった。休診日ということで、全て瀬川が担当した。
すべての検査を終え、耀は鋼治とともに待合室で時間を潰していた。
「なぁ、鋼治さん。俺、変なところあった?慌ててこんな遠い病院に連れてきてさ。おまけに心療内科なんて」
「変なところしかない。とりあえず、検査結果を待とう」
「意味分かんないんだけど」
そして、耀が診察室に呼ばれた。
「耀くん、鋼治の話と総合すると、君の記憶の一部に"齟齬"が生じている」
「齟齬?どういうことです?」
「抜け落ちてる部分がある、という方が正しいかもしれない」
「ほんとに?」
「何か、すごくショックな出来事はなかったかい?」
「ん、、、え、彼女に振られたこと?え、そんなことで?!俺、どんだけ繊細なの?!」
耀は顔を青くした。
「初恋というものは、そういうものさ。まぁ、大学も忙しかったみたいだし、慢性的な疲労もあるのかもしれない」
いやー甘酸っぱいねぇ、と瀬川が遠い目をした。耀は納得がいかない顔をしていた。
「えぇ、、、自分のことなのにドン引きです」
「とりあえず、しばらく安静にして、無理に思い出そうとしないこと。定期的にここにおいで」
「わかりました」
「耀くんは少し待合室にいてくれ。鋼治と久しぶりに話をしたくてね」
◇
瀬川と鋼治は病院の屋上にて落ち合った。
「脳にも身体にも異常はなかったが、よっぽどトラウマになるような出来事があったみたいだ」
「そうか。やっぱりアイツか?」
「だろうな。まぁ、人間の体は謎が多いからな。大学が忙しいとも言っていたし、疲れとかその恋人とのいざこざとかで起こってしまったのかもしれない。とりあえず、半年に一度くらいのペースで俺のところで様子を見る」
「ありがとな、佳人。恩に着る」
「よせよ。タダで診る代わりに彼の臨床データを使わせてもらうさ」
「相変わらずだな」
「変な刺激は避けたほうがいい。"トオル"という名前は出さないほうが彼の精神の混乱を避けられるはずだ」
「周りにもうまく伝えるさ。ありがとな」
「俺らの仲だろ?」
鋼治は待合室で待つ耀の元へ急いだ。
「トオルくん、耀を置いてどこに行ってしまったんだ?」
その呟きは誰にも拾われることなく病院の廊下に消えていった。
◇
"ベマ、俺の記憶の齟齬って、、、"
耀は心の中でポケットの中のベマに声をかけた。
《おそらく、ヒーロー業と学業の疲労によるものでしょう》
"お前、何か知ってるな?"
《貴方の負担になるようなことは言えません。幸いにも、忘れていても日常生活には影響のない範囲です。ゆっくり思い出していきましょう》
"表向きは勉強と恋愛で記憶喪失とか、、、繊細系男子か"
《ププ》
"このクソマスクが"
耀は内心でため息をついた。
この心に空いた大きな穴は何なんだろうと思いながら。




