ここに在る
朝が来たのかどうか、分からなかった。
屋敷の中では、時間は意味を持たない。光が差し込めば「朝のよう」で、闇が濃くなれば「夜のよう」になる。それだけだ。
私は窓辺に立っていた。
カーテンは半分だけ開けている。全部開く勇気は、もうない。外を拒んでいるわけじゃない。ただ、これ以上近づく必要がなかった。
庭は静かだった。
踏み荒らされた痕跡も、昨日までの気配も、霧に溶けていく。人間は来ない。もう、来ない。あの境界線は、ちゃんと守られている。
私は自分の手を見る。
皮膚は相変わらず冷たく、色も戻らない。指の関節は少しずつ動きが悪くなっている。それでも、完全に止まってはいない。
――まだ、ここにいる。
それで十分だった。
屋敷を歩く。
廊下、階段、食堂、誰もいない客間。
どこも壊れかけで、どこも私を拒まない。
床板が鳴っても、気にしない。
影が揺れても、驚かない。
この音、この暗さ、この匂いは、全部、私のものだ。
「……ただいま」
誰に言うでもなく、そう呟く。
返事はない。でも、否定もされない。
私はゾンビだ。
もう人間じゃない。
でも、怪物にもなりきれなかった。
それを不幸だとは思わない。
中途半端だからこそ、ここにいられる。
お嬢様として教えられたこと。
静かに座ること。
言葉を選ぶこと。
自分を粗末に扱わないこと。
それらは、死んでも、腐っても、残っていた。
私は屋敷の中央で立ち止まり、深く息を吸う。
肺はうまく動かない。それでも、空気は入る。
吐き出すと、世界が少しだけ落ち着く。
ここから先、何も変わらないかもしれない。
体は少しずつ朽ちて、記憶も薄れていくだろう。
それでもいい。
「……私は、ここに在る」
言葉にすると、揺るがなくなる。
誰に証明するわけでもない。ただ、自分のために。
屋敷は静かだ。
でも、空っぽじゃない。
私がいる。
それだけで、この場所は完成している。
ゾンビだけど。
お嬢様のままで。




