腐っても、矜持
夜は、音が少ない。
その分、屋敷の中の小さな気配が際立つ。木が軋む音、遠くで何かが落ちる気配、そして――自分自身の、鈍い存在感。
私は自室に戻っていた。
かつて「お嬢様の部屋」と呼ばれていた場所。豪奢なカーテン、天蓋付きのベッド、装飾過多な鏡台。どれも今では埃を被り、静かに死んでいる。
でも、不思議と嫌いじゃない。
この部屋は、私が「私」であった証拠だから。
鏡台の前に立つ。
鏡に映るのは、やはりゾンビだ。白く濁った肌、感情の読めない瞳、整っているのにどこか歪んだ輪郭。
それでも、背筋を伸ばす。
癖みたいなものだった。誰に見られていなくても、姿勢だけは崩さない。幼い頃から叩き込まれた、無駄で、でも大切な所作。
「……ふふ」
喉が鳴る。
生きていた頃なら、はしたないと注意されただろう笑い方。でも今は、誰も咎めない。
私は引き出しを開けた。
中には古い手袋、レースのハンカチ、色褪せたリボン。どれも使えない。でも捨てなかった。
手袋を取る。
ゆっくりと、指を通す。破れた布が、私の腐りかけの皮膚に引っかかる。それでも、最後まで嵌めた。
――お嬢様は、手を汚してはいけない。
そんな言葉を、思い出す。
今の私は、汚れているどころじゃないのに。それでも、手袋をつけると、少しだけ背筋が伸びる。
「……腐っても」
声に出して、続ける。
「……お嬢様、よね」
おかしくて、可笑しくて。
でも、胸の奥がほんの少し、温かくなる。
ゾンビになって、たくさん失った。
命、未来、選択肢。
それでも、全部を奪われたわけじゃない。
礼儀。
矜持。
自分が自分であるという、しつこい感覚。
それは、まだ腐っていない。
私はベッドに腰を下ろした。
軋む音がする。布が沈む。生きていた頃と同じ動作なのに、感触はまるで違う。
それでも、落ち着く。
ここが、自分の居場所だと、改めて思う。
外で何かが鳴いた。
動物かもしれないし、風かもしれない。もう確かめに行こうとは思わなかった。
私はここにいる。
出ていかない。追いかけない。奪わない。
ただ、存在する。
ゾンビとして。
そして、お嬢様として。
鏡の中の自分に、軽く頭を下げる。
それは挨拶であり、確認であり、少しの誓いだった。
「……おやすみなさい」
眠らない身体で、そう言った。
夜は長い。でも、もう怖くない。
この屋敷と、この静けさと、この不完全な自分。
それだけあれば、十分だった。




