メイドの手帳より
私が屋敷を去らなかった理由を、誰かに説明するつもりはない。
逃げろと言われれば逃げられたし、生き延びろと言われればそうすべきだったのだと思う。
それでも、私は残った。
理由は簡単だ。
お嬢様が、ここにいらっしゃるから。
朝になると、私はいつものようにカーテンを半分だけ開ける。
全部開けないのは、昔からの癖だ。強い光は、お嬢様がお嫌いだった。
「おはようございます」
返事はない。
それでも、部屋の空気が、ほんのわずかに揺れるのを私は知っている。
お嬢様は、変わられた。
肌は冷たく、言葉数も少なくなった。
けれど、姿勢だけは崩れない。背筋を伸ばして立つその姿は、生きていた頃よりも、ずっと静かで美しい。
世間は言う。
ゾンビだと。
怪物だと。
でも、私は知っている。
夜中、廊下で物音がすると、必ず私の部屋の前を避けて通ってくださること。
食堂の椅子を、誰もいないのに丁寧に引いてから座られること。
お嬢様は、奪わない。
壊さない。
ただ、在る。
私は今日も床を磨き、埃を払う。
この屋敷が崩れないように。
お嬢様の世界が、少しでも穏やかであるように。
「お嬢様」
声に出すだけで、胸が温かくなる。
返事がなくても、それでいい。
私は、最後のメイドでいられれば、それで幸せなのだから。




