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日本帝国立怪異研究学園―九尾の野望―  作者: 月乃宮 夜見
黒牡丹の監査者

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第五章:怪異の気配と寮間の対立

休日の朝。

今日は、学園長に呼び出されていた。学園長室へ向かうと、


「おはようございます、珠紀くん」


いつもと変わらない桃華が待っていた。


「今日は、監査役としてのお勉強の日です!」


「勉強……?」


「はい。言うなれば部活動みたいなものですね。監査は特殊な役職ですから」


珠紀は小さく息をついた。


「初めまして。君が新しい監査役?」


背後から、柔らかな声が響く。

振り返ると、一人の女性が立っていた。


「私は夜晒羽衣。教員よ。獬豸殿二年の担任もやる予定。あなたしか居ないけどね」


羽衣はくすくす笑った。


「ちなみに、一緒には住まないから安心して。職員寮があるもの」


どこか掴みどころのない人だ、と珠紀は思った。


「自己紹介も終わりましたし、では夜晒先生。あとは頼みましたよ」


今日は羽衣と活動するらしい。


外に出る。休日の校舎は静かだった。


「監査役の仕事は、“違反者を捕まえること”ではないわ」


歩きながら羽衣が言う。


「よく見ることが大事」


羽衣は振り返る。


「怪道具は便利よ。だからこそ、人は簡単に依存する」


珠紀は黙って聞いていた。


「監査役は誰かを裁くためではなく、学園を守る役割なの」


やがて二人は、校舎の外れにある古い建物へ辿り着く。


看板には、『怪道具保管棟』と書かれていた。

羽衣が戸を開ける。


内部は薄暗く、無数の棚が並んでいた。ガラスケースの中に、奇妙な道具が整然と収められている。


珠紀は息を呑む。


「今日は、監査役として絶対に覚えておいてほしいことがあるわ。学園の、“使用禁止”に指定された怪道具について」


羽衣がガラスケースを示す。中には、小さな黒い鈴が収められていた。


見た瞬間、ぞわりと悪寒が走る。


――嫌だ。


なぜか、本能的にそう感じた。


「これは『幽鈴』。音を聞いた相手の精神に干渉し、認識を書き換える怪道具。本人は気付かないまま、“都合の良い世界”を見るようになるの」


珠紀は思わずケースから距離を取った。


「怪道具は便利よ。でも、人の心に触れる道具ほど危険性が高い」


「だから封印してるんですか」


「そう。だけど――」


羽衣の笑みが消える。


「この学園には、“封印されているはずの怪道具”を使う者が時々現れる」


「盗まれるってことですか?」


「あるいは、最初から存在しないことになっているか」


羽衣がぽつりと呟いた。振り返るも、もう何も言わず羽衣は歩き出す。


「写真付きのリストを渡すから、ちゃんと覚えていて」


怪異研究学園での生活は、忙しかった。

平日の授業は常識から外れた内容ばかりで、休日になれば監査役としての勉強が待っている。


気が付けば、珠紀は“普通の高校生活”という感覚をほとんど失い始めていた。


その夜。

獬豸殿は、深い静寂に包まれていた。


珠紀は自室の布団に横になり、ぼんやりと天井を見上げる。


広すぎる寮の中には、相変わらず珠紀しか居ない。

その事実が、夜になると妙に現実味を帯びる。


「……静かすぎる」


珠紀は寝返りを打ち、窓の方へ目を向ける。

庭では、黒牡丹が月光を浴びて咲いていた。


昼間に見る時はただ綺麗な花に見えるのに、夜になると印象が変わる。

黒の花弁は、まるで闇そのものだった。

その時。


――ゆら。


牡丹が揺れた。

珠紀は眉をひそめる。


風は吹いていない。

なのに、ゆっくりと揺れている。


「……」


嫌な汗が背中を伝う。

その瞬間。


――ゥゥゥゥ……


低い音が響いた。

獣の唸り声にも似ている。

だがどこか、人間の呻き声のようでもあった。


「……っ」


珠紀は布団を握りしめた。

音は這うように、ゆっくりと廊下を伝ってくる。


古い床板が、みし、と鳴った。

誰かが歩いている。


音は止まらない。


一歩。

また一歩。


湿った足を引きずるような音が、確かに近付いてくる。

珠紀は起き上がることも出来ず、ただ障子を見つめていた。

廊下側の障子の向こうに、ぼんやりと黒い影が映る。

人影のようで、人ではない。


影はぴたりと止まった。

珠紀の部屋の前で。


心臓の音だけがうるさい。


――コン、コン。


まるで中に入れてほしいと訴えるような、小さな音。

珠紀は声を出せなかった。


空気が異様に冷たい。

障子の隙間から、黒い何かが覗いている気がする。


――ギィ……


障子が、ゆっくり開き始めた。

珠紀は反射的に布団を頭まで被る。

心臓が壊れそうだった。


見てはいけない。

本能がそう告げている。

耳元で、何かが擦れる音がした。

床を這うような音。


ゆっくり。

ゆっくり。


布団のすぐ傍まで来る。

珠紀は息を止めた。

その時だった。


――チリン。


どこか遠くで、鈴の音が鳴る。


途端に、気配が消えた。

さっきまで感ていた寒気も唸り声も、何もかもが嘘のように消失する。


珠紀は恐る恐る布団から顔を出した。


障子は閉まっていた。

廊下にも誰も居ない。

ただ、月明かりだけが静かに差し込んでいる。


「……何だったの……」


掠れた声が漏れる。


その時。

庭の黒牡丹が、再びゆらりと揺れた。


翌朝。

珠紀はほとんど眠れないまま朝を迎えていた。

鏡を見ると、目の下には薄く隈が出来ている。


昨夜の出来事を思い出すだけで、胃の奥が重くなる。

夢だった、と片付けるにはあまりにも生々しかった。

だが、誰に話せばいいのか分からない。


桃華に言えば「面白いですね!」と笑われそうな気がするし、千歳に話せば必要以上に騒ぎそうだ。


結局、珠紀は授業前の時間を使って、冥利を探すことにした。


白澤殿の庭園は、朝露の匂いに満ちていた。

藤棚の下に置かれた長椅子に、冥利は一人で座っている。


片手には湯呑み。

もう片方には分厚い本。

朝から妙に絵になる人だ、と珠紀はぼんやり思った。


「冥利先輩」


声を掛けると、冥利は顔を上げる。


「おや、珠紀くん。珍しいね。こんな朝早くに」


「少し……相談したいことがあって」


その言葉に、冥利は本を閉じた。


「へえ。監査役殿から相談とは」


軽い調子で言いながらも、その目は珠紀の顔色を観察している。冥利は隣を軽く叩いた。


「座りなよ」


珠紀は小さく頷き、長椅子へ腰掛ける。

少し迷った後、珠紀は昨夜のことを話し始める。


話しているうちに、昨夜の恐怖がじわじわ蘇ってきた。

すべてを話し終えると、庭園に沈黙が落ちる。


「……なるほどね」


その声は、いつもの飄々とした軽さが薄かった。


「この学園には、表に出ない怪異がいくつもある。授業で扱う怪異なんて、ほんの一部さ」


珠紀は息を呑む。


「獬豸殿が新設されたのも、ただの偶然じゃないかもしれないな」


その言葉に、背筋が冷えた。


「どういう意味ですか」


冥利はすぐには答えない。


「昔の獬豸殿は、今とは役割が違ったらしい」


「違った……?」


「詳しい記録は残ってない。でも、“監査”だけのためにあんな場所を使う必要があると思う?」


確かに獬豸殿は妙だった。

隔離されたような立地。

広すぎる建物。

そして、夜になると漂う異様な空気。


冥利はぽつりと呟く。


「何かを閉じ込めるには、都合が良さそうだ」


冥利は珠紀を見る。


「気をつけろよ、珠紀くん。学園長は間違いなく、君を利用しようとしている」


自分は、まだどこかで“普通の学校生活”の延長だと思っていたのかもしれない。


「まあ、あまり一人で抱え込むな。何かあったら僕を呼びなよ」


「……先輩、来てくれるんですか?」


「善処する」


「来ないやつだそれ」


思わず返すと、冥利は楽しそうに笑った。

その笑い声を聞いて、珠紀は少しだけ肩の力を抜く。


その頃、学園の空気は徐々に険悪さを増していた。


「最近、空気悪いよねぇ……」


昼休み。

珠紀は食堂の隅で小さく息を吐いた。


周囲では寮ごとに席が分かれ、普段より明らかに視線が刺々しい。互いに睨み合う空気は、見ているだけで胃が痛くなる。


「おっ、珠紀ちゃん発見!」


突然、明るい声が響く。

顔を上げると、千歳が手を振っていた。後ろには花露の姿もある。


「ここ座っていい?」


千歳は返事を待たず珠紀の隣へ座り込む。花露も向かい側へ腰掛けた。


「いやーもう最近ピリピリしすぎ! 昨日なんて朱雀殿の人が鳳凰殿に火符投げかけて大騒ぎだったんだよ!」


「盛らないで。……でも、確かにエスカレートしているわね」


この二人が来ると、空気が少し軽くなる。

千歳は珠紀の顔を覗き込む。


「珠紀ちゃん、大丈夫? 疲れた顔してる」


図星だった。


「めっちゃややこしいよね!」


千歳はぱっと笑う。


「でも私たちがついてるよ!」


その笑顔は太陽みたいだった。

あまりにも真っ直ぐで、珠紀は少し瞠目する。


「監査役は、どの寮にも偏らない立場。今の学園で、それはとても重要なこと」


花露が珠紀を見る。


「あなたの体質なら、公平に判断できる」


“公平”。

最近、何度も聞く言葉だ。

獬豸殿の象徴で、監査役の役割。


千歳は箸をぶんぶん振る。


「ていうかさ、みんなちょっと極端なんだよね! 朱雀殿は正義感強すぎるし、鳳凰殿は突っ走るし!」


「麒麟殿はその混乱を利用してる、という噂もあるね」


花露が付け加える。


「最近、“規律強化”を主張してるの、麒麟殿の人が多いから」


千歳は声を潜めた。


「しかもね、対立が起きるタイミング、妙に出来すぎてるんだよ」


「偶然じゃないってこと?」


「分かんない。でも、誰かが煽ってる感じはする」


花露は静かに言う。


「対立が続けば、監査役への圧力も強くなる」


珠紀は息を呑んだ。


「どちら側につくのか、必ず見られる」


千歳が慌てたように笑った。


「あーもう、花露ちゃん脅かしすぎ!」


「事実を言っただけよ」


二人のやり取りに、珠紀は思わず吹き出した。


だがその瞬間。

珠紀の脳裏に、昨夜の獬豸殿が蘇る。


千歳たちと居る間は忘れられる。

けれど夜になれば、またあの静寂が待っている。


花露が珠紀の表情に気付いた。


「……まだ、何かあるの?」


珠紀は一瞬迷う。

昨夜のことを話すか。


「……ううん。大丈夫」


そう答えながらも、珠紀の視線は無意識に窓の外へ向いていた。


監査役としての正式な巡回任務が始まったのは、その数日後だった。


放課後。


珠紀は監査記録帳を抱えながら、夕暮れの校舎を歩いていた。空は茜色に染まり、建物が影を落としている。

昼間は賑やかな学園も、この時間になると空気が変わる。


桃華にも何度も言われていた。

『黄昏時は気を付けてくださいね。怪異は“隙間”から入り込みますから』


珠紀は、息を吐く。


巡回中、すれ違う生徒たちは皆、珠紀の胸元にある獬豸殿の寮章を見る。


向けられる感情は様々だった。


「……やっぱり見られてるなぁ」


独り言を漏らした時だった。


――ジャラ。


どこかで、鎖の擦れる音がした。


音は校舎裏から聞こえてくる。

音のする方へ向かうと、黒い霧が見えた。


霧は地面を這うように広がり、その中心に一人の男子生徒が立っていた。


朱雀殿の紅色の寮章。


そして、その手には――黒い鎖。


禍々しい怪気を纏った鎖だった。


珠紀はすぐに気付いた。以前見た禁忌怪道具一覧に載っていたものだと。


「……『影縛りの鎖』」


珠紀の声に、男子生徒がゆっくり振り返る。


「誰だ」


低い声。

珠紀は反射的に身構える。


「紅林先輩……ですよね」


朱雀殿三年、紅林悠真。過激な人物として知られている。

悠真は珠紀の寮章を見る。


「……獬豸殿か。新入りの監査役だな」


珠紀は唾を飲み込みながらも、一歩前へ出る。


「その怪道具は禁止されているはずです!」


言った瞬間、空気が凍った。


「だから何だ」


低い声。感情の熱がない。


「使用禁止怪道具の無断使用は校則違反です。監査役として、見逃すわけには――」


「校則?」


悠真が鼻で笑う。

鎖が、ジャラリと鳴った。


「そんなもの、平和な時だけ守っていればいい」


珠紀は思わず後退った。

悠真は静かに言う。


「鳳凰殿の連中は禁忌怪道具を使い始めている。こちらが手を汚さなければ、被害が出るだけだ」


「だからって……!」


「朱雀殿は学園を守る。正義のためだ。余計な口出しはするな」


正義が、禁忌怪道具の使用を許すのか。


「……監査役は、どの寮にも偏りません」


悠真の眉が僅かに動く。


「朱雀殿でも、鳳凰殿でも、禁止されたものは禁止です」


言い切った瞬間、影縛りの鎖が大きく脈動した。


――ジャァァァ……


黒い霧が珠紀へ向かって広がる。

冷気が肌を刺した。


「面白い。なら、監査役殿。その“公平”がどこまで通じるか試してみるか?」


次の瞬間。

黒い鎖が、生き物のように珠紀へ襲い掛かった。


――ジャァァァッ!


黒い鎖が唸りを上げる。

それと同時に、濃密な黒霧が珠紀へ襲い掛かった。


珠紀は反射的に息を止める。

視界が黒める。


本能が警鐘を鳴らしている。

危険だ。

触れてはいけない。


あれは、人が扱っていいものじゃない。


だが、黒霧が珠紀の身体へ触れた途端――。


――ジュゥ……


異様な音と共に、霧が崩れた。


まるで熱湯を掛けられた氷のように、黒い怪気が溶けていく。


「……え?」


珠紀自身が最初に呆然とした。


黒霧は珠紀を包み込めない。

触れた部分から次々と霧散していく。

まるで、存在そのものを拒絶しているかのようだった。


悠真の目が見開かれる。


「何……? なぜ効かない?」


黒霧は完全に消え失せていた。


珠紀は自分の手を見る。

傷一つない。

恐怖は残っている。

それでも怪道具の力だけが、珠紀には届いていなかった。


「これが……」


学園長が言っていた、精神干渉を受けない特異体質。


珠紀は今、初めてそれを実感していた。


悠真が低く舌打ちする。


「獬豸殿の監査役……本当に厄介な存在らしいな」


黒い鎖が再び蠢く。

だが先ほどまでの余裕は消えていた。

珠紀は震える足を踏み締める。


相手は三年生だ。

しかも、禁忌怪道具を扱っている。


それでも珠紀は一歩、前へ出た。


「私は監査役として、ルールを守ります」


声は震えていた。


「禁忌の道具は使えません!」


その言葉に、悠真の表情が僅かに歪む。


「……綺麗事だ。鳳凰殿は既に一線を越えている」


「だからって、同じことをしていい理由にはならない!」


珠紀は叫ぶ。


「禁忌怪道具を使えば、もっと状況が悪くなるだけです!」


「理想論だ」


「それでも!」


珠紀は息を荒げながら言う。


「誰かが止めなきゃいけないんです!」


沈黙が落ちた。

やがて悠真は、静かに珠紀を見つめた。


「……なるほど」


悠真がぽつりと呟く。


「お前が監査役に選ばれた理由が少し分かった」


鎖がゆっくりと霧へ溶けていく。

黒い怪気が薄れていくと同時に、校舎裏の圧迫感も消えていった。


悠真は背を向けた。


「今日のことは、忘れろ」


「先輩――」


「だが覚えておけ」


夕陽の中で、悠真は振り返らないまま言う。


「正義だけじゃ、この学園は守れない」


敵意が消え、静寂が戻る。


珠紀はようやく、全身から力を抜いた。

膝が震えている。

怖かった。


けれど同時に、珠紀は理解し始めていた。

怪異研究学園で起きている争いは、単なる生徒同士の喧嘩ではないと。


悠真の姿が夕闇の奥へ消えようとした、その時だった。


「珠紀くん、よくやった」


聞き慣れた声が、静かに響く。


珠紀が振り返る。

校舎裏の薄暗い通路の入口に、冥利が立っていた。

その姿は、妙に静かだ。

細められた目だけが、鋭く悠真を見据えている。


「……鳴星」


「紅林。禁忌の怪道具を使うなんて、朱雀殿の正義も落ちたものだな」


冥利は冷えた声で言い、珠紀の前に立つ。庇うようなその仕草に、悠真の表情が険しくなった。


「白澤殿が口を出すことじゃない」


「監査役が関わってる時点で、どの寮も無関係じゃないさ」


張り詰めた空気が流れる。

やがて悠真は舌打ちし、珠紀に向かって言った。


「お前は甘い。だが……その甘さが、いつまで壊れないか見ものだな」


そう言い残して去っていく。

足音が消えると、珠紀は大きく息を吐き、膝の力が抜けそうになった。


「……大丈夫か?」


冥利の声が柔らかく戻る。


「だ、大丈夫……です」


声が震えていた。冥利は苦笑する。


「初めて禁忌怪道具と正面から向き合ったんだ。逃げなかっただけでも上出来だよ」


珠紀は俯く。

怖かった。

怪道具も。そして、自分自身も。


霧が消えた瞬間。

悠真が驚いた顔をした瞬間。


珠紀は理解してしまった。

自分の体質は、本当に“普通じゃない”。


「でも、逃げなかったな」


珠紀は顔を上げる。


「監査役としては上出来だよ」


その言葉に、胸の奥が少し熱くなる。

だが、冥利が来ていなかったら自分はどうなっていたのだろう。


「……私、まだ全然駄目です」


冥利は首を傾げた。


「何が?」


「監査役として、ちゃんと止めなきゃって思ったのに……怖くて」


言葉が詰まる。


「冥利先輩が来てくれて、助かったって思ってしまいました」


冥利は数秒黙っていた。やがて、小さく笑う。


「それでいいんだよ」


冥利は空を見上げる。

夕焼けは既に群青へ変わり始めていた。


「珠紀くん。君は“公平”であろうとしてる。それだけで十分すごいことなんだ」


珠紀はその言葉を黙って聞く。


遠くで鐘の音が鳴る。

放課後の終わりを告げる音だった。

冥利は珠紀を見る。


「……ただし」


少しだけ、表情が真剣になる。


「今後、こういうことは増えると思った方がいい。しかも、禁忌怪道具まで出てきた」


冥利の目が細まる。


「誰かが、裏で動いてる可能性が高い」


珠紀は静かに息を吸う。

恐怖は、消えていない。


「……逃げません」


冥利は一瞬目を丸くし、それから柔らかく笑った。


夜。

獬豸殿は、今日も静かだった。

珠紀は縁側に腰を下ろし、庭を見つめていた。

月明かりに照らされた黒牡丹が、闇の中で静かに咲いている。


あの日のような唸り声は聞こえない。

障子の外に立つ影も現れない。

それでも、この寮には常に“何か”が潜んでいる気がした。


珠紀は膝の上で指を組む。

夕暮れの出来事が、何度も脳裏を過っていた。


紅林悠真。

禁忌怪道具――『影縛りの鎖』。

黒い霧。

そして、自分の体質。


霧が触れた瞬間、溶けるように消えた感覚を、珠紀はまだ鮮明に覚えている。


あれは偶然じゃない。


自分は本当に、怪道具の力を拒絶していた。


「……変な体質」


小さく呟く。


以前なら、不気味だと思っただろう。

どうして自分だけが違うのか、と。


けれど今は少しだけ考え方が変わっていた。

この学園では、普通であることの方が難しい。


怪異。

怪道具。

異能。


それぞれが秘密と危うさを抱えている。

その中で珠紀に与えられた役割は、“影響されないこと”だった。


誰かに操られない。

記憶を書き換えられない。

怪道具に左右されない。


だからこそ、監査役として選ばれた。


「公平でいるため……」


その言葉を、珠紀は静かに繰り返す。

風が吹き、黒牡丹が静かに揺れる。


怖いものはまだたくさんある。

寮同士の対立も。

禁忌怪道具も。

この学園に潜む闇も。


それでも、珠紀はそっと胸元の獬豸殿の寮章に触れた。


千歳の明るい笑顔。

花露の静かな眼差し。

そして、冥利の穏やかな声。


「……一人じゃないんだよね」


自然とこぼれた言葉に、小さく笑う。

珠紀は静かに拳を握った。


「私は獬豸殿の寮長として、どの寮にも偏らず、ルールを守る。それが私の役割だから」


月明かりが横顔を照らす。


まだ未熟だ。

監査役としても、獬豸殿の寮長としても。


今日だって冥利に助けられた。

怖くて震えた。

それでも、逃げなかった。

その事実だけは、珠紀の中に残っている。


「……でも、私の体質ってどこから来たんだろう?」


通常、異能を持つ者は家系に異能を持つ者が居るそうだ。


ごく稀に、血筋に関係なく、異能を持った者が生まれる。だが、それでも怪異研究学園に入る前までには異能が発現しているそうだ。


珠紀のような年齢で、異能が突如発現して編入する例など今までになかったらしい。


「もし、私の異能が『偶然』じゃなかったら……」


呟くも、分からない。


遠くで、夜の鐘が鳴る。

学園の静けさの裏で、何かが確実に動き始めている。

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