第四章:新たな仲間と授業
朝の空気はまだ少し冷たかった。
獬豸殿の窓から差し込む光に照らされながら、珠紀は静かに目を開ける。
しばらくぼんやり天井を見つめた後、ゆっくりと身体を起こした。
昨日までの出来事が夢ではないことを、古びた木造の天井が現実として突きつけてくる。
ここがもう、自分の居場所なのだ。
珠紀は小さく息を吐くと、制服へ着替えた。
鏡の前へ立つ。
映った自分を見て、珠紀は少しだけ目を細めた。
「……なんか、別人みたい」
昨日までの自分とは違う。
ほんの数日で、生活は何もかも変わってしまった。
普通の高校生だったはずなのに、今は“怪異研究学園”の生徒。
しかも新設寮の寮長で、監査役だ。
未だに現実感は薄い。
だが時間は待ってくれない。今日は春休み明けの、授業初日だった。
珠紀は鞄を手に取り、獬豸殿を後にする。
朝の学園はすでに活気に満ちていた。
中庭を歩く生徒たち、談笑する者、怪しげな紙束を抱えて走る者。
朝から訓練をしている生徒たちまでいる。
普通の学校と似ているようで、やはりどこか違う。
珠紀が歩いていると、すれ違う生徒たちの視線が自然と集まった。
「あれが獬豸殿の……」
「監査役って子?」
「記憶操作効かないらしいよ」
「ほんとに?」
「新設寮って廃墟なんだろ?」
囁き声が耳に届く。
珠紀は思わず肩を縮こまらせた。
「……やっぱり目立ってる」
昨日一日でかなり噂が広まったらしい。
監査役。
特異体質。
新設された獬豸殿。
注目されない方がおかしいのかもしれない。だが、こうして実際に視線を向けられると落ち着かない。珠紀はなるべく気にしないよう前を向く。
やがて目的の校舎へ辿り着く。
案内板に書かれた教室番号を確認しながら進み、珠紀は足を止めた。教室の札を見つめる。
「……二年生なんだ」
昨日、桃華から簡単な説明は受けていた。
珠紀は年齢的にも二年生相当。
一年次は一般教養中心で、怪異関連の授業は少ないらしい。
だからこそ、途中編入でも二年生から始めた方が都合が良いと。合理的だが、珠紀にとって急な話だ。
教室の中から話し声が聞こえていた。珠紀は無意識に鞄を握り直す。逃げたい気持ちがないわけじゃない。
深呼吸する。そして、ゆっくりと教室の扉を開いた。
その瞬間。生徒たちの視線が、一斉に彼女へ向けられた。
普通の学校とは明らかに違う空間。
まるで異世界へ踏み込んだような感覚だった。
珠紀はその空気に飲まれそうになりながらも、一歩、教室の中へ足を踏み入れた。
珠紀がどう動けばいいのか迷っていると――
「あ!」
明るい声が教室に響いた。
「君が獬豸殿の寮長?」
勢いよく立ち上がった女子生徒が、こちらへくる。胸元には紫色の藤の花を模した寮章。
「九条珠紀ちゃん、だよね?」
彼女は人懐っこい笑顔を浮かべた。
「私は蘇我千歳! 白澤殿の二年!」
距離を詰められ、珠紀は一歩後ずさった。
「え、あ……はい」
「ね、獬豸殿ってほんとに廃墟なの!? 興味ある!」
千歳の目がきらきらしている。
「泊まりに行っていい!? 幽霊とか出る!?」
「えっ……いや、その、幽霊はまだ見てないけど……」
「まだってことは今後出る可能性ある!?」
「千歳」
落ち着いた声が割って入る。
千歳の後ろにいた少女が、静かに前へ出た。彼女の胸元にも白澤殿の寮章があった。
「初対面で詰め寄りすぎ。珠紀さん、困ってる」
「えー?」
千歳は不満そうに頬を膨らませるも、花露は珠紀へ頭を下げた。
「ごめんなさい。この子、興味を持つとすぐ暴走する」
「ぼ、暴走って!?」
「否定できる?」
千歳が言葉に詰まる。珠紀は思わず小さく笑ってしまった。
「私は椿花露。中国から来た。よろしく、珠紀さん」
「よろしく……」
花露の声音は静かで落ち着いていた。
「監査って役なんでしょ?」
監査役と聞くと立派に思えるが、本人としてはまだ戸惑いの方が大きい。だが千歳は気にした様子もなく、ぐいぐい話を続けた。
「しかも獬豸殿の寮長でしょ!? 新設寮とかロマンあるよねー!」
「ロマン……かなぁ」
昨夜の埃っぽい部屋を思い出し、珠紀は遠い目になる。
「めちゃくちゃ古かったけど」
「やっぱり廃墟なんだ!」
「そこ食いつくんだ……」
珠紀が呆れ気味に返すと、千歳は楽しそうに笑った。
花露はそんな二人のやり取りを見ながら、小さく微笑む。
「でも安心した」
「え?」
「監査役って聞いて、もっと近寄り難い人かと思ってたから」
珠紀は目を瞬かせた。
「そう見えてたんですか?」
「噂は大袈裟になる。“怪道具を無効化する冷徹な監査者”とか、“学園長直属の特別な存在”とか」
「何それ……」
珠紀は顔を引きつらせた。千歳が吹き出す。
「めっちゃ強キャラ扱いされてる!」
「やめて……」
だがその反応が面白かったのか、千歳はさらに笑う。
珠紀はそんな空気の中で、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
こうして話しかけてくれる人がいるだけで、昨日より少し心が軽くなっている自分に気付いていた。
始業を告げる鐘の音が、校舎全体へ静かに響き渡った。
ざわついていた教室の空気が、少しずつ落ち着いていく。
生徒たちはそれぞれ席へ戻り、教科書や筆記具を取り出し始めた。珠紀も千歳と花露に促されるまま席へ座る。
「最初の授業、“退魔学”だって」
千歳が教科書をぱらぱらとめくりながら言う。
「名前からして難しそう〜」
「あなた、授業前から諦めないで」
花露が小さくため息をつく。
そんなやり取りをしているうちに、教室前方の扉が開いた。瞬間、空気が少し引き締まる。
入ってきたのは、二人の教師だった。
一人は、短くまとめた髪が印象的な女性教師。
無駄のない立ち姿で、凛とした空気を纏っている。
彼女は教壇へ立つと、出席簿を机へ置いた。
「静かに」
よく通る声だった。
ざわついていた教室がぴたりと静まる。
「本日から退魔学基礎を担当する、清華天舞音だ」
その声音は淡々としている。
だが不思議と威圧感があった。
珠紀は思わず姿勢を正す。
その隣には、もう一人。
背の高い男性教師が立っていた。
長身で落ち着いた雰囲気を持ち、にこにこと笑顔だ。
「補助講師の五百雀恭だよー」
明るい声。
だが、教室全体を見渡す眼差しには独特の迫力があった。
教師というより、どこか現場経験豊富な退魔師のような空気だ。
「では始めようか」
清華が黒板へ手を向ける。
淡い光と共に、複雑な図表や文字が浮かび上がったのだ。
怪異分類図。
出現地域。
危険度。
過去の発生記録。
まるで映写機のように次々と情報が表示されていく。
「うわ……」
珠紀は呟く。普通の授業じゃない。本当に怪異を専門に扱っているのだと、実感する。
「怪異とは、人間の認識・感情・土地の記憶により発生する異常現象の総称」
清華の説明は簡潔で分かりやすい。だが内容はかなり専門的だった。
「大別すると、怪異は自然発生型、憑依型、概念型、呪物型の四分類に分けられる」
黒板に複雑な分類図が浮かび上がる。珠紀は慌ててノートを取り始めた。知らない単語ばかりだ。
「概念型って何だっけ」
隣で千歳が小声で呟く。
その時、五百雀が教室をゆっくり見回した。
「怪異に関わる以上、“見ること”を怠らないようにね」
声が教室へ響く。空気が引き締まる。
「見落としたら死んじゃうよー」
その言葉には、ただの脅しではない重みがあった。
怪異研究学園は、本当に危険と隣り合わせの場所なのだ。
けれど今は少しだけ、この世界を知りたいと思い始めていた。
退魔学の授業が終わると、すぐに移動教室となった。
「次は封印学だって。実物見れるやつじゃん!」
千歳が興奮気味に言う。
ガラスケースが並ぶ教室に入った瞬間、珠紀は息を呑んだ。中に並ぶのは、明らかに普通の道具ではない物ばかりだった。
扉が開き、二人の女性教師が入ってきた。
「封印学担当の御厨ノアだ」
気怠げな長髪の女性が、鋭い瞳で教室を見渡す。
「今日は怪道具の基礎を教える」
「補助担当の櫛葉ミヲリです。よろしくお願いしますね」
もう一人の穏やかな女性、ミヲリが柔らかく微笑んだ。
ノアはケースからいくつかの道具を取り出し、説明を始めた。ノアはケースを順に見せながら説明を始めた。
「怪道具は、怪異の力を利用・制御・封印するための媒体だ」
彼女が一つの小瓶を持ち上げる。中には青白い光が漂っていた。
「これは簡易封印瓶。低級霊体を一時的に閉じ込める」
次に、小さな鈴。
「こっちは結界鈴。音によって境界を固定する」
教室から感嘆の声が漏れる。珠紀も自然と引き込まれていた。不思議で少し怖いが、それを制御する技術にはどこか神秘的な魅力がある。
ミヲリが、ある道具を取り出す。それを見て、珠紀の心臓が小さく跳ねた。
花の蕾の形をした、小さな怪道具。
「これは忘却系怪道具、“記憶の蕾”」
確か、冥利があの境界の狭間で使った怪道具だ。
「使用対象へ軽度の記憶操作を施し、怪異関連の認識を曖昧にします」
ミヲリは説明を続ける。
「一般人保護のため、現場で頻繁に使われる基本道具ですね」
珠紀は無意識に手を握りしめた。
やはり、普通なら効く怪道具なのだ。
「ただし」
ミヲリの声音が、少し変わる。
「精神耐性や特殊体質によっては、効果が著しく薄れる場合があります」
珠紀の心臓が大きく跳ねた。
教室の視線が一斉に珠紀に集まるのを感じた。
「完全に珠紀ちゃんの話じゃん……」
と千歳が小声で囁く。珠紀は唇を強く結んだ。
ノアはそんな空気を気にした様子もなく続ける。
「怪道具は便利だ。だが万能ではない」
記憶の蕾はケースへ戻される。
「扱いを誤れば、使用者にも危険が及ぶ」
珠紀は必死にノートを書いた。
自分の体質について知りたい。
なぜ怪道具が効かないのか。
なぜ自分だけが“例外”なのか。
その答えへ少しでも近づきたかった。
珠紀は再び、記憶の蕾を見る。
淡く光る、小さな蕾。
あの時、自分には何も起きなかった。
その事実だけが、今も胸の奥へ静かに残り続けていた。
次の怪道具学は、実技形式だった。
教室の机が下げられ、代わりに小型の術式台が並べられていく。
生徒たちは二人一組へ分かれ、それぞれ指定された怪道具を扱うらしい。
「よしっ、珠紀ちゃん組もー!」
千歳が元気よく手を挙げる。珠紀は彼女と組むことになった。花露は別の組へ移動している。
教室前方では、独特の存在感を持つ男性教師が立っていた。
「実技担当の椛鹿鐘です」
優しそうな声だった。
「はいはーい、補助の青椛鹿恋でーす」
もう一人は女性教師。ひらひら、と手を振るその姿には緊張感がない。
「今回は怪道具への感応確認。暴走させないでくださいね」
珠紀は少し緊張しながら、机の上の道具を見る。そこに置かれていたのは、小さな球体だった。硝子にも宝石にも見える、不思議な質感。
「これ、“感応珠”っていうんだって!」
千歳が目を輝かせる。
珠紀はそっと球体を見つめる。
「珠紀ちゃん、試してみて!」
千歳が球体を差し出してくる。
「え、私?」
「だって絶対気になるじゃん!」
確かに気になる。珠紀は少し迷った後、感応珠を手に取った。
周囲では既に実験が始まっている。
だが、珠紀には何も起きなかった。
「……あれ?」
千歳が目を丸くする。
「ほんとに何も?」
珠紀はゆっくり頷いた。
「うん……全然」
その時、近くにいた鐘が足を止めた。
「貸してくれます?」
珠紀から感応珠を受け取ると、鐘は軽く動作確認をする。
「不調……ではないようですね」
鐘は感応珠を見つめた後、低く呟いた。
「九条さん、やはり本当に干渉を弾いてるみたいですね」
その声には、驚きと興味が混じっていた。珠紀は居心地悪そうに視線を逸らす。
「やっぱり……普通じゃないんですね」
「そうですね」
椛鹿は即答した。
「かなり珍しい」
その言葉が胸へ残る。
その時――
「ぎゃっ!?」
突然、教室の端で、ぱちんっ!! と火花が散る。
珠紀が振り向くと、千歳の感応珠から白煙が上がっていた。
「千歳……」
花露が呆れた声を出す。千歳は煤だらけになりながら咳き込んでいた。
「げほっ……いやー、ちょっと出力上げすぎたべ!」
「どうしたら練習用怪道具で爆発するの」
「えへへ……」
全然反省していない。鐘が深いため息をついた。
「蘇我さん。あなたはまず説明書を読んでください」
「ちゃんと読んだもん!」
「三行しか読んでないでしょう」
図星らしく、千歳が目を逸らす。その空気が、珠紀の緊張を和らげた。
昼休みを告げる鐘が鳴ると同時に、教室の空気が一気に緩んだ。
張り詰めていた授業の時間が終わり、生徒たちは思い思いに席を立つ。
「お昼だー!」
千歳が勢いよく立ち上がった。
「珠紀ちゃん、食堂行こ!」
「う、うん」
珠紀もノートを片付けながら立ち上がる。花露は静かに教科書を閉じた。
「今日は混む前に行った方が良さそうね」
三人はそのまま廊下へ出る。
昼休みの校舎は朝よりずっと賑やかだ。
「白虎殿監修の健康メニューとかあるよ!」
「あなたはいつも甘味ばかり頼むでしょう」
「バレてた?」
そんな会話を聞きながら進んでいくと、食堂が見えてきた。厨房からは美味しそうな匂いが漂ってくる。
「わぁ……」
珠紀が感嘆の声を漏らしたその時。
「やあ」
聞き慣れた声がした。
振り向くと、冥利が手を挙げていた。
「あ、副寮長」
千歳がひらひら手を振る。花露も軽く会釈した。
珠紀は少しほっとする。この学園で、数少ない知っている相手だからだ。
「せっかくだし一緒に食べようか」
冥利に促され、四人は空いている席へ向かった。食堂の料理は意外にも普通だった。
ただし時々、“回復用”“精神安定作用あり”など妙な説明が混ざっている。
珠紀は少し悩んだ末、無難そうな和定食を選んだ。
「珠紀ちゃん、初日で疲れてない?」
千歳が唐揚げを頬張りながら聞く。
「疲れてると思うわよ、普通は」
花露が呆れたように返した。
「うーん……正直、情報量が多すぎて」
「最初はそんなものだ。退魔学と封印学、怪道具学だったんだろう?」
「はい」
「どうだった?」
「怪異も怪道具も、思ってたよりずっと危ないんだなって……」
「実際、危ないからね」
すると、千歳が勢いよく口を挟む。
「でも珠紀ちゃんすごかったよ! 感応珠ぜんっぜん効かなかった!」
「あー、やはりそうか」
冥利は意外そうでもなく、珠紀を見る。
「だけどその体質のおかげで、監査役が成立している」
珠紀は小さく頷いた。
食事を終える頃には、珠紀も少し肩の力が抜けていた。その様子を見て、冥利が席を立つ。
「僕は午後、上級生の実習あるから先に行くよ」
「えー、副寮長もう行くの?」
冥利は、千歳と花露へ視線を向けた。
「二人とも、彼女に学園案内の続きを頼めるかな」
二人は頷く。
「図書館とか購買部くらいでいい。変な場所に連れて行かないように」
「変なとこってどこですかー」
「じゃ、頼んだよ」
そう言い残し、冥利は食堂を後にする。
食堂を出た後、千歳は勢いよく腕を上げた。
「それじゃ、学園探検スタート!」
「探検って……」
珠紀は少し苦笑する。花露は呆れ半分で肩をすくめた。
昼休みの校舎は活気に満ちている。
廊下には談笑する生徒たちの姿があり、窓の外では生徒たちが訓練場で騒いでいた。
「まずは購買部ね」
花露が言った。
「実用品はだいたい揃うし、お菓子もいっぱいあるよ!」
千歳が付け加える。
数分ほど歩くと、購買部が見えてきた。
引き戸を開けた瞬間――
「いらっしゃいませー!」
珠紀がびくっと肩を震わせる。
カウンターの奥にいたのは、大きな男性だった。軽く二メートルはある。
鋭い目つきに派手な笑顔を浮かべ、妙な圧を放っている。
「新入生ですか? よく来ましたねぇ」
男は身を乗り出した。珠紀は思わず後退る。
「え、あ……」
「ビビらなくていいよ。購買部の鬼柳迅さん!」
千歳は笑った。
「鬼柳さんですよー。はじめまして!」
テンションが高い。
花露が静かに補足した。
「こう見えていい人だから安心して」
「“こう見えて”って何ですか?」
店内は、一見すると普通の購買部だった。
棚にはパンや飲み物、お菓子、文房具が並んでいる。
雑誌や新聞まで置かれていた。
だがよく見ると、普通ではないものも混ざっている。
“怪復薬”“簡易結界札”。
「外部実習じゃ怪異対策用品が必須ですからねぇ」
普通の学校の購買部とは全然違う。
「新入りさん」
迅がカウンター越しに身を乗り出してきた。
「困ったらいつでも来てくださいねー。怪異対策用品は命綱ですから!」
「は、はい……!」
圧がすごいが、悪い人ではなさそうだった。
「次は図書館ね」
花露の案内で、三人は校舎奥へ向かう。
やがて辿り着いた図書館は、驚くほど静かな場所だった。
大きな木製扉、高い天井、整然と並ぶ本棚。
「普通の図書館でしょ?」
花露が言う。確かにその通りだ。
怪異研究学園の図書館と聞いて、珠紀はもっと奇妙な場所を想像していた。
「変な本とかないんだ……」
珠紀が呟くと千歳が笑った。
誰も騒がず、紙をめくる音だけが静かに響く。
珠紀は本棚へ視線を向ける。
「珠紀ちゃん、本好き?」
千歳が小声で聞く。
「うん、結構好き」
「そっか。じゃあ、いっぱい行かなきゃだね……んー、そろそろ戻るか」
千歳が伸びをする。
珠紀は図書館を振り返った。
怪異だらけの学園。
けれど、その中にも普通の日常がある。
そのことが、少し嬉しかった。
午後の授業を終えた頃には、窓の外は茜色に染まり始めていた。
長い一日だった。
珠紀は教科書を鞄へしまいながら、小さく息を吐く。
怪異研究学園へ来てから、まだ二日も経っていない。
それなのに、まるで何週間も過ごしたような濃密さだった。
頭の中はまだ整理しきれていない。
だが、不思議と昨日ほどの不安はなかった。
「んーーっ、疲れたぁ!」
千歳が大きく伸びをし、椅子がぎしっと音を立てた。
「千歳、行儀悪い」
花露が呆れたように注意する。
「だって座学多いんだもん!」
「その割に実技で爆発させてたでしょう」
「うっ」
完全に言い返せなくなっている。珠紀は笑ってしまった。
千歳は鞄を肩へ引っ掛けながら、にっと笑う。
「珠紀ちゃん!」
「え?」
「今度、獬豸殿遊びに行くね!」
「えぇ……」
珠紀は少し困った顔になる。
脳裏へ浮かぶのは、あの埃っぽい廊下と薄暗い部屋だ。
「ほんとに何もないよ?」
「だから気になるんじゃん!」
千歳はまったく気にしていない。
「絶対楽しいって!」
「肝試し扱いしてない?」
「してないしてない!」
たぶん少しはしている。花露が静かにため息をついた。
「ほどほどにしなさいよ」
その後、花露は改めて珠紀へ向き直る。夕陽を受けたその横顔は、どこか穏やかだった。
「珠紀さん」
「うん?」
「無理しないでね。監査役って、きっと大変な立場だと思うから」
珠紀は少し目を瞬かせる。花露の視線は真っ直ぐだった。
「困ったら、私たちに相談して」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。珠紀は小さく頷いた。
「……ありがとう」
本心だった。
昨日まで、この学園には知り合いが一人もいなかった。
知らない場所に、知らない人たち。
怪異という未知の存在。
怖くないと言えば嘘になる。
教室の窓から夕陽が差し込む。
寮章の色が、橙色の光を受けて淡く輝いていた。
怪道具が効かない理由も、
自分がここへ来た意味も。
何一つ答えは見えていない。
だが珠紀は思う。
逃げずに向き合ってみよう、と。
食堂で夕食を食べた後、珠紀は千歳と花露と別れる。寮まで送ると言われたが、珠紀は断った。一人になりたかったのだ。
「じゃあまた明日ね!」
千歳が元気よく手を振る。花露も小さく微笑んだ。珠紀は二人へ手を振り返す。
「うん。また明日」
その言葉が自然に出たことに、少し驚いた。
“また明日”。
その一言を交わせる相手ができた。
怪異研究学園での生活は、まだ始まったばかりだ。




