第十二章:怪異化への戸惑い
緊急集会が終わった後、珠紀は獬豸殿へと戻った。
古い建物は静まり返り、廊下の埃っぽい空気が重く感じられる。学園長の発表で一気に学園中の注目を浴びた疲労と混乱が、珠紀の体と心を鉛のように重くしていた。足取りはふらつき、肩はがくりと落ちている。
「僕が送り届けられるのはここまでだ。すまないが、寮の中では、君は一人になってしまう」
「いいえ、送ってくださっただけで十分です!」
申し訳なさそうな冥利に、珠紀はぶんぶんと首を振った。
「僕の目で見た限り、獬豸殿の中に怪異はいない。安心したまえ」
そう、過った不安を見透かすように冥利は告げる。
「そうなんですね、良かった」
もし、寮の中にも怪異がいると言われてしまえば、珠紀の居場所がなくなるところだった。
「では、気を付けて」
「先輩も、帰りをお気をつけて」
去っていく冥利の背中を見ながら、「(あれ。これじゃあ冥利先輩、一人行動なんじゃ……?)」と思ったが、彼の背中はもう遠くにある。何とかなるだろうと思考を放棄し、彼にけがが無いことを祈りながら珠紀は寮に入った。
自分の部屋に入り扉を閉めた瞬間、珠紀は大きく息を吐く。
「……はぁ……これから、どうしよう」
部屋の隅に置かれた古い鏡の前に立ち、顔を上げた。
その瞬間――
鏡に映った自分の瞳が、一瞬だけ狐のような鋭く美しい金色に輝いた気がした。
「……!?」
珠紀は息を飲んで鏡に近づいた。慌てて目をこするが、再び見つめると普通の色に戻っている。しかし、確かに見た。自分の目が、ほんの一瞬、怪異のそれに変わっていたのを。
同時に、軽い身体的な違和感が体中を襲ってきた。体が熱っぽく、耳のあたりがじんじんと疼く。まるでそこに何か柔らかいものが生えようとしているような、不気味な圧迫感があった。
「(気のせい……だよね。疲れてるだけ……)」
珠紀は自分に言い聞かせるように小さく呟き、鏡から目を逸らした。両手で顔を覆い、深く息を吸う。
しかし、不安は募る一方だった。
桃華の言葉、怪異たちの呼び声、胸の疼き、首筋の紋様――そして今、鏡に映った金色の瞳。
「私……本当に、大丈夫なの……?」
部屋の窓から差し込む月明かりが、黒牡丹の寮章を淡く照らす。獬豸殿の古い障子が、夜風に小さく揺れた。
珠紀はベッドに腰を下ろしたが、眠れる気が全くしなかった。自分の体が、ゆっくりと何かに変わり始めているような――そんな恐怖が、静かな部屋の中でじわじわと広がっていった。
どれくらい時間が経った頃か、部屋の扉が控えめにノックされた。
「珠紀さん、起きているかしら? 学園長があなたを呼びつけているわ」
そこに居たのは獬豸殿の担当の教員、羽衣だった。珠紀は重い体を起こし、「学園長先生がですか?」と問いかけつつ部屋から出る。
獬豸殿の外へ連れ出された。学園長室へと向かう道中は、いつにも増して暗く感じられた。相変わらず、学園の光景は無残なものだ。冥利と共に歩いた道を、羽衣と一緒にさかのぼって歩いた。
学園中を、怪異たちが走り回っている。所々に猫の姿もあった。補助員たちの姿もある。ただ、生徒や教員の姿はなかった。彼らはきっと、生徒たちの方は寮に居るだろう。教員たちは――そこまで考えて、よく分からなかった。
「夜晒先生。教員の方々は今、どうなさっているんですか?」
そう素直に問いかける。すると羽衣は、
「会議をしているわ。主に、これからの授業のやり方、調査の依頼の内容、結界強化の方法……そういう感じ」
と答えてくれた。学園中に怪異の危険があるなら、今までのように自由行動はできないだろう。それくらいは珠紀にも想像ができた。あとは、授業と調査の関連付けとか、だろうか。教員たちは、生徒達を不用意に傷付けないように計画を練っているのだ。
学園長室に入ると、桃華が待っていた。小柄な体を執務机の向こうに座らせ、いつもの可愛らしい雰囲気は抑え深刻な表情を浮かべている。
「座ってください、珠紀さん。……大変でしたね。どうぞ、座ってください」
来客用のソファを勧められ、それに従って珠紀はそっと座った。
桃華は静かに切り出す。そして、迷うことなく核心に触れた。
「あなたに掛けられた呪いは、単なる呪いではありません。九尾の力が徐々に君の体と魂を侵食し、怪異へと変化させていくものです」
珠紀は言葉を失った。
「……え?」
頭の中でその言葉が反響する。九尾の力。体と魂の侵食。怪異への変化――。
先ほど鏡で見た金色の目、耳の疼き、胸の熱い疼きが、すべて繋がった気がした。体が冷たくなり、同時に熱くなるような感覚に襲われる。
桃華は穏やかだが真剣な目で珠紀を見つめ、続けた。
「これは進行性の呪いです。時間が経つにつれ、あなたの人間性は薄れ、九尾の眷属に近い存在へと姿を変えていく……」
珠紀の喉が、乾いた音を立てた。
あまりもの衝撃で、言葉が出てこない。
ただ、胸の奥で激しい動揺が渦巻き、指先が冷たくなるのを感じるだけだった。
桃華の説明は、容赦なく続いた。
「具体的には……背中に狐の尾が生え始め、全身に金色の毛が生える可能性があります。耳が尖り、目が恒常的に金色に変わる。つまりは、このままではあなたは狐の怪異になってしまいます。そして最悪の場合、理性が徐々に失われて九尾の影響下で怪異としての本能に支配される……そんな未来が待っています」
珠紀の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「……尾が……生える? 狐の怪異……理性が、失われる……?」
声が震え、唇の色が青白くなる。鏡で見た金色の瞳と、耳の疼きが脳裏に蘇り、吐き気のような恐怖がこみ上げてきた。体が小刻みに震え、両手で自分の腕を抱きしめるようにして耐える。
想像しただけで、背中がぞわぞわと疼くような錯覚に襲われた。自分が人間ではなく、化け物になっていく――そんな残酷な未来が、目前に突きつけられた気がした。
「そんな……私、怪物に……なるの……?」
珠紀の声は掠れ、ほとんど聞き取れないほど小さかった。目が潤み必死に涙を堪えている様子が、桃華の目にも明らかだった。
桃華は少し声を落とし、しかし決して目を逸らさずに珠紀を見つめた。
「まだ、手遅れではないです。だからこそ、早急に対策を取らなければならないのですよ」
珠紀はただ、青ざめた顔で机の縁を強く握りしめていた。言葉を失ったまま、絶望の淵に立たされていた。
「まずは――これです」
そう言われて差し出されたものは、鈴の付いたブレスレットのようなものだ。赤と白の組み紐に、紙垂のようなギザギザした飾りがついている。
「これは、あなたの呪いの進行をでき得る限り遅らせる代物。要は封印関連の品物です」
「封印……」
そういえば冥利も言っていた。『外部からの干渉によって、薄めることはできるかもしれない』『「花嫁」としての素質を封印する……あるいは弱める』と。
「これは、一体誰が……」
「ああ、作成者ですか? 封印学の教員である、御厨ノア先生と櫛葉ミヲリ先生ですよ。あの二人は優れた封印の力を持っています。安心して良いですよ」
珠紀が問えば、にこやかに桃華は答えた。思いのほか細く、「封印するもの」としてはどこか頼りないような気がしたのだ。だが、作成者を聞けばそんな不安は吹き飛んでしまった。
「本来は作成者である二人のどちらかに着けて頂いたほうが良いのですが……今は忙しいですからね。特別に、ぼくが着けてあげます」
そう告げ、桃華はブレスレットを手に持つ。
桃華の説明が一段落し、珠紀にブレスレットを着けようとした直後だった。
「……っ……!」
珠紀の身体に、激しい異変が襲ってきた。
首筋と背中に、熱い疼きが走る。思わず首元に手を当てると、皮膚の下で何かかが蠢いているような感覚があった。学園長室にあった鏡に映る自分の姿を見て、珠紀は息を飲んだ。
うっすらと金色がかった花の模様のような紋様が、首筋から鎖骨にかけて浮かび上がっている。背中にも、熱を帯びた線が幾筋も広がっていくのが感じられた。
身体中が、びりびりと痺れる。身体が作り替わっていくような、痛みと違和感。視界が一瞬ゆがみ、強い吐き気が込み上げてきた。幻痛のように、全身の骨が軋むような感覚が波のように襲う。
「う……あっ……!」
珠紀は椅子から滑り落ちるように膝をつき、床に両手をついた。痛みと恐怖に耐えきれず、掠れた声で呟いた。
「止めて……お願い……止めて……」
体が自分のものではなくなっていく感覚。怪物へと変わっていく実感が、容赦なく彼女を襲っていた。額に冷たい汗が浮かび、息が荒く乱れる。金色の瞳が再び一瞬だけ輝き、耳の疼きが激しくなっていく。
桃華が慌てて近寄り、珠紀の肩に手を置いた。
「珠紀さん、深呼吸を……! 今はまだ、抑えられるはずです」
しかし珠紀の耳には、その声も遠く聞こえるだけだった。
痛みと恐怖の中で、彼女はただ「これは現実だ」という残酷な事実を、痛いほど思い知らされていた。
「抵抗をしているのかもしれませんね」
そう、桃華が至極冷静に告げる。
「つまり、この封印はかなり効果的だということです。良かった、少しだけですが希望が見えてきましたよ」
桃華の冷静な声に、やっぱり珠紀の症状よりも効果の方に重点を持っているのが分かった。
そのとき、精神面にも異変が忍び寄った。
さっきまで恐怖の対象だった怪異たちに対して、奇妙な親近感が湧き上がる。
「彼らは敵ではないのかもしれない……」という、ぞっとする考えが一瞬よぎった。
さらに、突然の獣のような衝動――走り出したい、牙を剥き出したい、夜の闇に身を委ねたい――そんな野性的な欲求が、胸の奥から噴き上がってきた気がした。
「いや……!」
珠紀は頭を抱えて激しく首を振った。激しい恐怖と自己嫌悪が、一気に彼女を襲う。
「(このままじゃ……自分が自分じゃなくなってしまう……! 私の心まで、怪物に……!)」
焦燥感が胸を焼き、息が荒くなる。涙が溢れ、床にぽたぽたと落ちた。
「私は人間なのに……まだ、人間なのに……どうして……」
自己嫌悪の念が強くなる。珠紀は床にうずくまり、体を小さく丸めて耐えた。
体も、心も、ゆっくりと自分のものではなくなりつつある――その現実が、彼女を絶望の底に突き落としていた。
桃華は静かに珠紀の背中をさすりながら、しかし厳しい声で言った。
「まだ時間はある。だが、急がなければ……」
珠紀の焦りは、頂点に達しようとしていた。
「珠紀さん、腕を失礼しますね」
桃華の声と共に、右腕を取られる。それと同時に腕に何か――恐らくはあのブレスレットだ――が、腕に着けられた。ちりん、と鈴の音が鳴る。
何か、文言を桃華は唱えていた。清め、祓う言葉。神々に許しを請う言葉。そして、封印を施す言葉。
きん、と何か硬質な音が聞こえた気がした。
「……っ!」
途端に、身体中を襲っていた熱と痛みが引いていく。
珠紀は荒い息をどうにか吐いて、息を深くする。ゆっくりと呼吸をすると、段々と気持ちが落ち着いてくる。
桃華は、珠紀の肩に置いた手に少し力を込め、静かに告げた。
「珠紀さん……正直に伝えます。あなたが完全に怪異化するまで、残り一年だそうです」
その言葉は、部屋の空気を凍りつかせた。
「一年……?」
珠紀は顔を上げ、桃華を呆然と見つめた。目が大きく見開かれ、唇が震える。
「期限内に九尾の影響を十分に薄れさせなければ、手遅れになります。体も心も、取り返しがつかなくなるのです。あなたはもう、『九尾の花嫁』として徐々に変わり始めている……時間は、思ったより少ないようです」
桃華の声は穏やかだったが、容赦なかった。残り一年という具体的な数字が、珠紀の胸に重く突き刺さる。
たったの、一年。
それが自身の人間としての寿命のようなものだと、珠紀は直感的に理解した。尾が生え、姿が変わり、理性が失われ、狐の怪異になるまでのカウントダウン。
「そんな……一年なんて……」
珠紀の声が、完全に掠れた。
胸の奥が引き裂かれるような痛みとともに、目の前が真っ暗になる。涙が止まらず、床に落ちる。体が冷たくなる一方で、首筋や背中の紋様は熱を持ち続けるような気がした。
「(一年後には……私はもう、私じゃなくなってる……? 家族にも、友達にも……会えなくなる……?)」
珠紀は両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
これまで耐えてきた恐怖と焦燥が、一気に決壊した。
学園長の前で、彼女はただ小さく縮こまり、震えることしかできなかった。
桃華は静かにその姿を見つめながら、しかし希望を失わない声で続けた。
「だからこそ、七不思議が必要なんです……」
珠紀の絶望は、まだ底知れなかった。
「……七不思議……ですか?」
唐突な言葉に、珠紀は顔を上げる。桃花の表情は至極真剣で、それしかないと語っている様だった。
「恐らく、珠紀さんが以前通っていた学校にもあったでしょう? その学校にある、正体が定かでも無い噂話」
そう、当然知っているだろうと言わんばかりの声色で桃華は告げる。
七不思議。それくらいは珠紀も知っていた。七つ全部知ってしまうと良くないとか、トイレに居るとか、階段がどうだとか。そんな、生徒たちの娯楽のような噂話。
それと珠紀に、一体何の関係があるのだろう。
桃華は静かに珠紀の背中をさすりながら、穏やかだが力強い声で続けた。
「呪いを解くためには、九尾の影響力を学園内の封印によって薄れさせるしかないです。それが、七不思議を活用する理由です。七不思議は古くからこの学園の封印システムの要所となっている。それらに関わり、現象を解決や安定化させることで、九尾の力を弱め、あなたの呪いの進行を遅らせることができるはずなんです」
珠紀は、涙に濡れた目で桃華を見つめた。
「……七不思議……」
恐怖と焦りが胸の中で渦巻く中、彼女は弱々しく、かろうじて声を絞り出した。
「……やるしかない。私、やるしかないよね」
言葉にすると、少しだけ現実味が増した気がした。やるしかない。このまま何もしなければ、一年後には自分が人間でなくなってしまう。家族や友達、学園内の仲間たちに顔向けできなくなる。
珠紀は震える手で涙を拭い、弱々しく頷いた。
しかし心の奥底では、深い諦めと拭いきれない恐怖が澱のように残っていた。
「(本当に……間に合うの? 私なんかが、七不思議なんて……本当に変われるの……?)」
桃華の説明を聞きながらも、珠紀の胸には希望より不安の方が大きく残っていた。それでも、彼女はゆっくりと立ち上がり、拳を弱く握った。
これが自分に残された唯一の道であることを、珠紀は痛いほど理解していた。
「決心してくれたようで、良かった。本当はこれ以外にも手があるはずなんです。それを、ぼくたち教員、補助員たちで何とか探してみせます。七不思議への対処は、異能持ちの生徒たちに任せます」
桃華は安心した様子だった。七不思議の解決だけでなく、他の方法も探してくれる。その言葉も、今の珠紀にとって心強かった。
「七不思議の調査については、こちらの方で各寮長、副寮長へ通達しておきます。他異能持ちの方々にも通達するよう、手配もしておきます。だから珠紀さんは何も、気にすることはありませんからね」
「……はい」
なんだか妙に手際が良いな、とは思いつつも桃華の言葉に珠紀は頷いた。
「ひとまずは、夜晒先生。あなたの方から、七不思議について詳しい話をしてもらえませんか」
そう桃華が告げ、珠紀はこの場に羽衣が居たことを思い出す。羽衣の方も、自身の方に話が飛ぶとは思っていなかったのか、少し驚いた様子を見せた。
「わたしが、ですか。……承知いたしました」
静かに、ゆったりと羽衣は頷く。羽衣と話をするのは久しぶりの様な気がした。担任としてそれはどうかと思うが、本当に彼女と関わるタイミングが少ないのだ。休み時間に姿を見ることもないし、職員室にも滅多にいない。羽衣は獬豸殿の担任ではあるが、教員としては補助教員だからだ。授業で話すこともない。
「話は長くなりますから、獬豸殿の方に戻ってもらって良いですか? ぼくはこれから、色々とやらないといけないことがあるので、失礼しますね。学園中を見て回らなきゃならないんです。あー忙しい忙しい」
用事は済んだ、とばかりに桃華は立ち上がり学園長室から去っていった。あまりもの切り替えの早さに、珠紀は目を白黒させる。だが、こんなに忙しい中でも珠紀のために時間を割いてくれたのは感謝すべきことだろう。
ちら、と珠紀は羽衣のほうを見た。相変わらず、何を考えているのか分からない顔だ。ふと羽衣と視線が合い、珠紀は思わず息を呑む。
「では改めて、七不思議の話をしましょう。学園長の言う通り、獬豸殿の方に移動してからね。道中だと百鬼夜行の怪異たちが聞いているかもしれないから、危ないのよね」
「わ、分かりました」
羽衣に促され、珠紀は学園長室を出た。
窓から見えた外は、相変わらず惨状だ。学園中が百鬼夜行の怪異たちに荒らされているし、今は学園を復旧させようとする怪異たちが忙しそうに走り回っていた。生徒たちの姿は、やはり見えない。
学園中は騒がしいが、以前のような人間の声や気配は全く感じられなかった。聞こえるのは、人間でない不思議な音ばかり。学園の怪異たちが何かしゃべているのだろうか。
全く人の気配がなく、今、所属している寮の外に出ているのは珠紀だけなのかもしれない。そんな考えが過るほどだった。
珠紀は羽衣の後を歩き、獬豸殿の方へ向かう。




