第十一章:桃華の宣言
百鬼夜行が散開した直後、学園は混乱の極みに陥っていた。
校庭では負傷者対応が急ピッチで進められ、教師たちが怪道具を使った応急処置を施している。倒れた生徒を支える声、痛みを堪えるうめき声、焦げた地面や散らばった花弁の残骸——華やかだった朝の光景は完全に失われていた。
珠紀はまだ震えが止まらず、呆然としながらも中央講堂への道を進む。
「……これは、酷い有様だ」
冥利が呟いた。この惨状に、胸を痛めているようだ。珠紀も、見ていて苦しくなる。
「動ける者の大半は、中央講堂に向かっているだろうね。あとの動けない者たちは、学園内の補助員の方々や怪異たちがなんとかしてくれるだろう……医務室と白虎殿はこれから大変だろう」
確かに、小さな怪異や補助員らしき大人たちが生徒の世話をしている姿があった。小さな怪異たちが担ぐ担架に乗せられ運ばれる生徒の姿もある。
「大丈夫……ですかね」
不安に耐えきれず、珠紀は零した。いくら対怪異関連の治療が優れていると言われても、後遺症は残るだろうか。
「大丈夫さ。学園や研究機関の技術を信じると良い」
そう冥利に言われ、小さく息を吐く。この学園や研究機関は、怪異について長らく研究している。それなら、技術を信じない方が失礼だろう。
そこへ、白澤殿の千歳と花露が駆け寄ってきた。
「珠紀ちゃん! 大丈夫!?」
「怪我はない? さっきの怪異たち、明らかに珠紀さんを狙って……」
千歳の心配そうな声と、花露の不安な視線が珠紀を包む。しかし珠紀は言葉を返すこともできず、ただ小さく頷くのが精一杯だった。
「君たちも無事で良かった。学園長の放送は聞いたね?」
「もちろんです! 中央講堂に行くんですよね」
「はい」
冥利が二人に問うと、千歳と花露は頷く。そのまま、二人も珠紀たちと一緒に向かうことになった。
中央講堂に近付くと生徒の数が増えていった。
生徒たちは不安と疲労を顔に浮かべながらも、互いに支え合い、急いで移動を開始している。負傷者を抱える者、怯えた表情で周囲を警戒しながら歩く者――皆が一様に深刻な面持ちだった。
珠紀たちも、ゆっくりと中央講堂へと足を進めた。
珠紀はまだ体が自分のものではないような違和感と、「九尾の花嫁」という言葉の残響が、頭の中で消えずに残っていた。
「(学園長は……何を言うつもりなんだろう……)」
学園全体が、重い不安に包まれながらも、一つの場所へと向かっていく。束の間の平穏は、もう訪れない予感がした。
生徒たちが中央講堂に集まる様子は、痛々しいほどだった。
破壊された校舎を横切りながら、皆が足を止めては周囲の惨状を眺めていた。
踏み荒らされた花壇、倒れた石灯籠、地面に残る狐火の跡――提灯の炎が消えた後も、ところどころで青白い火がゆらゆらと燃え続け、不気味に学園を照らしている。空気には焦げ臭さと血の匂いが混じり、歩くたびに疲労と恐怖が全身に染み渡っていくようだった。
「ひどい……朝まであんなに綺麗だったのに……」
「怪異がまだ近くにいる気がして……怖いよ」
生徒たちの間に、重いため息と小さな泣き声が漏れる。負傷者を支える手が震え、足取りも重い。華やかだった寮対抗戦の準備は、わずか数時間の間に地獄絵図へと変わっていた。
そんな中を、珠紀たちはゆっくりと歩く。人数が多いので、事故を起こさないよう声をかける大人たちの姿があった。
しかし、彼女は周囲の視線を強く感じていた。
好奇の目、憐憫の目、疑念を帯びた目――先ほどまで一緒に笑っていた生徒たちの一部が、珠紀を見るたびに視線を逸らしたり、ひそひそと囁き合ったりしている。
「さっきの……珠紀さんだけ狙われてたよね?」
「九尾の花嫁、って呼ばれてたって……」
「まさか、珠紀さんが原因なんじゃ……」
噂はすでに、驚くほど早く広がり始めていた。
珠紀は唇を強く噛み、視線を地面に落とした。胸の奥が締めつけられる。自分が特別視され、恐れられ、場合によっては敵視され始めている現実が、痛いほど実感できた。
「(みんな……私を、怖がってる……)」
獬豸殿の単独寮長であり監査役である自分が、今や学園全体の混乱の中心に立たされている。そんな自覚が、疲労と恐怖の上にさらに重くのしかかっていた。
「大丈だよ、珠紀ちゃん」
千歳の声は、優しい。胸の奥がツンと痛み、涙が溢れそうになる。それを堪えて「うん」と頷いた。
「あんな数の怪異なんて、人がどうこうできるものじゃない。考えれば分かること。少なくとも、異能持ちの生徒や教員たちは分かってる」
花露は呟く。
「何度も言っているが、今回のことは君のせいじゃない。きっかけではあったが、根本原因でない。それだけはちゃんと、周囲に理解させないといけないな」
冥利も、そう零した。
少なくとも、千歳と花露、冥利は分かってくれている。それだけで、珠紀は十分に思えた。
中央講堂の大きな扉が近づくにつれ、生徒たちの足音が講堂内に響き始め、緊張した空気が一層濃くなっていった。
講堂はすぐに満員になった。負傷した生徒を座らせるスペースを優先し、立ったままの者も大勢いる。普段は活気ある集会スペースが、今は重苦しい空気に包まれていた。
珠紀は講堂の前方、監査役として指定された席に座った。周囲には、各寮の寮長たちの姿がある。そのそばに、副寮長たちの姿もあった。
見知った人たちが一人も欠けていないことに、珠紀は内心で安堵する。寮長や副寮長、異能持ちの人たちは、重大な怪我を負っていないようだ。
それと同時に、『見知っていない人なら、その場に居なくても良いのか、怪我をしていても良いのか』と、そんな考えが浮かんだ。恐ろしい考えだ。だけれど。
「(良い、なんて微塵も思ってない。そんなことない)」
よく知らない生徒でも、怪我を負うなんてあって良いことなんかじゃない。ただ、珠紀の一存でどうこうできる距離にはいないのだ。
見知っている相手だったらきっと、その怪我に心を痛めていただろう。だが見知らぬ相手だったとしても、怪我をしている姿を見れば悲しくなる。罪悪感を、抱く。
小さく息を吐いて顔を上げ、講堂内を見回した。
――やはり、心なしか、今朝見たよりは人数が少ないようだ。多くの生徒たちが、負傷してしまったらしい。
恐らく生徒たちの後ろ――講堂の後方には、教員たちが立っている。姿のない者も居るが、恐らく生徒の世話をしている。
今回は、補助員たちや学園の怪異たちの姿はなかったようだ。流石に入りきらないと判断されたのかもしれない。
やがて、壇上の奥の扉が静かに開く。
学園長の梅鶯桃華が姿を現した。
小柄で中性的な容姿、普段なら可愛らしく胸を張って歩く桃華だったが、今日の表情は硬く、唇を引き結び、目には強い緊張と威厳が宿っている。
いつものふわふわとした笑顔は完全に消え、背筋を伸ばしたその姿は、まるで小さな将帥のように見えた。
生徒たちのざわめきが、徐々に静まっていく。
「…………」
誰かが息を飲み、誰かが咳き込む音すら遠慮がちになる。講堂全体に、重苦しい沈黙がゆっくりと広がった。数百人の生徒が一斉に壇上を見つめる中、ただ学園長の足音だけが、静かに響いていた。
珠紀は、息を詰めて桃華を見つめていた。緊張で、手のひらが汗で湿っている。
桃華は壇上の中央に立ち、ゆっくりと生徒たちを見渡した。その視線は一瞬、珠紀のところで止まり、わずかに深みを増したように感じられた。
桃華はマイクを手に取り、静かだが全校に届く声で口を開いた。
「本日より、寮対抗戦を無期限で中止とします」
開口一番の宣言に、講堂全体がどよめいた。
「え……!?」
「中止!? 急に何で……」
「待って、準備してきたのに……」
生徒たちから失望と驚きの声が一気に上がった。朝まであれほど盛り上がっていた期待が、わずか数時間で打ち砕かれる。疲労と恐怖の残る中でも、イベントを楽しみにしていた者たちの落胆が、ざわめきとなって広がっていく。
桃華は表情を一切緩めず、片手を挙げて静粛を求めた。講堂が再び静まるのを待って、彼は重い口調で続けた。
「先ほど皆さんが目の当たりにした通り、百鬼夜行が本学園を襲撃しました。大量の怪異が校庭に雪崩れ込み、多くの負傷者が出ています。この危機的状況下で、祭りのような対抗戦を続けることなど到底できません。学園の安全と生徒たちの命を最優先とします」
桃華の声は小さくとも、よく通った。百鬼夜行の首魁たちが残した「九尾の封印を解く」という脅威についても、簡潔に触れる。
「これは単なる偶然の怪異発生ではありません。学園の根幹に関わる重大な脅威です。対抗戦を強行すれば、さらに被害が拡大する可能性が高い。皆さんにも理解してほしいです」
講堂内に再び重い沈黙が落ちた。失望の声は徐々に収まり、代わりに現実の危機を突きつけられた生徒たちの不安と緊張が、濃く空気を満たしていく。
珠紀は自分の膝の上で拳を握りしめていた。学園長の視線が、時折自分の方に向けられるのを感じながら、唇を強く噛む。
「(やっぱり……私のことが関係している……)」
珠紀は俯き、ぎゅ、と手を握った。
桃華は壇上で小さく息を吸い、次の言葉を続けた。
「しかし、ただ危機を避けるだけでは解決しないのです」
桃華の声が一段と張りつめ、講堂全体に響いた。
「代わりに、九条珠紀さんに掛けられた呪いを解くことを、この学園全体の最優先事項とします」
その瞬間、しんと講堂が静まり返った。
「珠紀……?」「九条さんが呪われてたの……?」
生徒たちの視線が、一斉に珠紀のいる前方へと集中した。好奇、驚き、恐怖、憐憫――様々な感情が混じった視線が突き刺さる。
桃華はさらに続けた。
「先ほどの百鬼夜行の襲撃で明らかになった通り、珠紀さんは『九尾の花嫁』と呼ばれ、学園の奥深くに封じられた九尾の狐の力と深く結びついています。この呪いは放置するには、あまりにも危険です。我々は学園総力でこの呪いを解き、九尾の封印を強化しなければならないのです」
事態の深刻さが、簡潔かつ重い言葉で全生徒に伝えられた。講堂内に衝撃の波が広がっていく。
珠紀本人は、壇上近くの指定席でその言葉を直接聞いていた。
「……っ」
胸に強烈な衝撃が走り、顔が一瞬で熱くなった。恥ずかしさと恐怖が同時に襲ってくる。
「九尾の花嫁」という呼び名が、公の場で堂々と宣言された。学園中の生徒に、自分の異常が知れ渡った瞬間だった。
「(やめて……そんな風に言わないで……みんなの前で……私を、特別な存在みたいに……)」
珠紀は唇を強く噛み、膝の上で拳を握りしめた。視線が痛い。体が小さく震え、首筋の紋様がまた熱を持ち始めた気がした。恐怖で息が苦しくなり、頭がくらくらする。
桃華の視線が、優しくも真剣に珠紀に向けられた。
「これは珠紀さん一人の問題ではありません。学園全体の危機です」
珠紀は俯いたまま、歯を食いしばった。
さらなる衝撃と、逃げ場のない恥ずかしさ、そしてこれから自分が学園の中心に立たされるという恐怖が、彼女の心を激しく揺さぶっていた。
桃華は、そこで少し声を和らげた。
「しかし、ただ救済を求めるだけでは、我々は前に進めません。そこで皆に提案があります」
桃華は壇上で小さく胸を張り、力強い視線を生徒たちに送った。
「学園内で発注された調査と封印強化活動において、最も活躍した寮には、特別な表彰と多大な特典を与えます」
講堂内に、ざわめきが広がり始めた。
「具体的には、優先施設利用権の大幅拡大、特別奨学金の支給、卒業後の進路推薦枠の優先確保……さらに、学園長権限による特別怪道具の貸与権も検討しますよ」
生徒たちの目が、次第に輝きを取り戻していく。疲労と恐怖で沈んでいた空気に、再び競争心とやる気が混じった活気が戻ってきた。
「マジで……?」「推薦枠って……本気かよ」「これは、絶対にうちの寮が取る……!」
失望していた声が、徐々に意欲的な囁きや決意のつぶやきに変わる。ある生徒はやる気に満ちて拳を握り、ある生徒は目を輝かせ、千歳も「やる気出てきた!」と隣の花露に小声で話しかけている様子が見えた。
桃華は満足げに頷きながら続けた。
「これは珠紀さんを救うための戦いであり、同時に学園を守るための戦いです。どうか、皆さんの力を見せてもらいたい。よろしいですか」
講堂内に、再び活気とやる気が混じったざわめきが広がった。恐怖はまだ残っているものの、学園長の提示した明確な報酬が、生徒たちの競争心を上手く刺激していた。
珠紀は壇上近くでその様子を眺めながら、複雑な思いを抱いていた。
「(……利用されてる……? でも、これしかないんだ……)」
桃華の小さな背中が、今日に限ってとても大きく見えた。
桃華は、最後に柔らかい笑みを浮かべて締めくくった。
「これは九条珠紀さんを救うための、学園総力戦です。皆さんで力を合わせ、この危機を乗り越えましょう。獬豸殿の寮長であり、監査役である彼女のために——我々は一丸となって戦うのです」
温かく、力強い言葉だった。講堂内に「連帯」「救済」「総力戦」という前向きな雰囲気が広がり、生徒たちの表情にもわずかな希望の色が戻る。誰かが小さく拍手を始め、徐々にそれが講堂全体に波及した。
表向きは、皆が一致団結して珠紀を救おうとする美しいムードが演出されていた。
しかし、珠紀は壇上の桃華の眼差しを真正面から受け止め、胸の奥に冷たい棘のようなものを感じていた。
桃華の笑顔の奥に、隠しきれない計算高さと深い思惑が見えた気がした。小柄な体躯の奥に潜む、冷徹な判断力と「学園を守るためなら何でも利用する」という覚悟。温かい言葉とは裏腹に、珠紀は自分が「救済の象徴」として、巧みに利用されていることを直感的に悟っていた。
「(……本当に、私を救いたいと思ってるの? それとも……学園を守るための道具として……?)」
珠紀は唇を強く結び、視線を落とした。不安が胸の奥に残ったまま、温かい拍手と励ましの声が講堂を包んでいた。
盛大な拍手に包まれる講堂は、異様な熱気に包まれている。「あいつに今のこと、伝えとかなきゃ」と、恐らく医務室などに運ばれている友人に、今回のことを伝えようとしている生徒の姿もあった。
生徒たちの大半は桃華の言葉に浮かされ、希望を取り戻した表情をしている。ただし、寮長や副寮長、数名の生徒――特に異能持ちの生徒たちは、神妙など表情をしたものの方が多かった。
恐らく、これから起こる学園内の調査や封印強化活動の要を担うのは、異能持ちの者たちになるだろう。それを理解しているようだ。
寮長と副寮長で、何か会話をしている寮が多くあった。恐らくは、今後の方針について話し合っているのだろう。寮の設備は強化したい、恩恵を受けたい。だけれど、寮生たちを危険に晒しすぎるのは良くない――そんな会話だ。
教員たちはどう思っているのだろう。珠紀の位置からは、確認できない。
希望と緊張、連帯と疑念——両方の感情が混在する中、桃華の緊急宣言は終了した。
ぞろぞろと生徒たちが中央講堂を出ていく。ざわざわと話しながら歩いており、その会話の内容の大半は先ほどの百鬼夜行の襲来か桃華の話についてだろう。
寮ごとに順序よく出ていっているようで、意外とスムーズに人が減っていった。
珠紀はまだ座っていて、生徒たちが出ていく様子をぼんやりと眺めている。時折、ちらっと珠紀を振り返る生徒の姿があった。きっと好奇心だろう、と思う。
嫌悪でなければ良いが、きっと友人を傷付けられた生徒や傷付いた生徒たちからは良い目では見られない。
「うまい感じに、学園長に利用されたみたいだね」
掛けられた声に顔を上げると、冥利が立っていた。
「あれ、先輩。白澤殿の皆さんと一緒じゃないんですか?」
珠紀は周囲を見回すが、白澤殿の寮生たちは丁度出ていくところだ。
「ああ、柊くんに頼んで残らせてもらったんだ」
遠くで白澤殿寮長の柊がぺこり、と一礼した。つられて珠紀も頭を下げた。
その後ろで千歳がぶんぶんと珠紀に手を振り、花露に止められている姿も見えた。珠紀が小さく手を振り返すと、ぱっと笑顔になる。そのまま、花露に背中を押されて講堂を出ていった。
「え、なんでですか?」
「君を無事に寮まで送り届けるため、かな。役得だね」
問えば、そう返答がある。
「わ、私だって一人で寮まで戻れますよ」
慌てて言い返すも、冥利は緩く首を振った。
「今はいつどこで怪異が現れるかも分からないからね。単独行動は厳禁だ」
「で、でも。だからって、先輩がする必要あります……?」
彼の言葉は一理ある。だが、相手が冥利である必要はあっただろうか。それを問うと、冥利は自信たっぷりな笑みを浮かべる。
「君を学園に連れてきたのは僕。よって、君の身の責任は僕が負うことになる。簡単な話だろう?」
「そうなんですかね?」
「そうなんだよ。同級生の方がきっと、やりやすいだろうけれどね。だが、君の同級生は二年生だ。だから、まだ怪異との戦闘の体験が浅い。なら、三年生が請け負う必要があるだろう。それで、一番暇な僕がね」
「副寮長じゃないですか」
「まあ、うん。それはそれで良いだろう。箔がつく」
「何の箔ですか……」
呆れるも、なんだか元気が出てきた。
それに冥利なら他の三年生よりも知っているし、気まずくない。きっと、そういう気遣いも含まれているだろうと珠紀は思った。
「じゃあ、獬豸殿に行こうか。そろそろ講堂も閉めたいだろうし」
「分かりました」
珠紀は席を立った。




