第十章:三首魁の宣言
校庭は惨状を呈していた。
美しい大正ロマン風の庭園は踏み荒らされ、倒れた提灯から細い煙が上がっている。負傷した生徒たちのうめき声や、荒い息遣いがあちこちから聞こえてきた。
珠紀はゆっくりと、周囲を見回した。体中が痛み、首筋の熱と胸の疼きがまだ残っている。目の違和感はようやく戻っていたが、指先はまだ微かに震えていた。
怪異たちは完全に去ったわけではなかった。
校庭の端の闇、校舎の屋根の影、古い森の木々の間——そこに、じっとこちらを窺う無数の視線と気配が残っている。不気味な静けさが、学園全体を包み込んでいた。時折、遠くで狐の遠吠えのような音が響き、背筋を冷たくする。
生徒たちの間には、安堵と不安が複雑に入り混じっていた。
「やった……居なくなった……」
「何だったんだ、あの怪異たち……」
誰かが泣き出し、誰かが肩を落とし、誰かがまだ怪道具を構えたまま周囲を警戒している。興奮と恐怖の余韻が、校庭に重く漂っていた。
珠紀は黒牡丹の寮章を握りしめ、唇を強く噛んだ。
「(まだ……終わっていない。この気配……)」
先ほど聞いた「狐の花嫁」「九尾様」という言葉が、頭の中で繰り返し響く。束の間の静寂の中で、珠紀の心に深い不安が広がっていった。
この静けさは、嵐の前の仮の平穏に過ぎない――そんな予感が、彼女の胸を締めつけた。
「……あの百鬼夜行って、一体何だったのでしょうか」
呟くように、珠紀は冥利に問いかける。彼から明確な答えが返ってくるとは思っていなかった。
「あれは……本当に、何だろうね。明確に『九尾様が』とか言っていたけれど。本当は、あまり関係がないんじゃないか」
どこか、呆れたような声色だ。珠紀は冥利を見上げる。
「なんで、そう言い切れるんですか?」
「だって、九尾様とやらは学園に封印されていたのだろう。どうやって意思疎通を図ったのだろうね、って思ってね」
「それは……何か不思議な力とか?」
言われ、珠紀は首を傾げる。すると、冥利は軽く笑った。
「ああ、そういうのはあるかもね。『九尾様はこう思っているに違いない』みたいな、『信託』や思い込みとかかな」
「先輩、怪異に意外と厳しいんですね」
「いや、普段はそうでもないと思うけれど。まあ、今回は明確に人間、というか学園に迷惑が掛かっているからね。学園の怪異たちだって、迷惑を被っている。これは、怒らざる得ないよ」
「そう……ですね」
やはり、この荒れてしまった学園の光景は面白くない。
そのとき、校庭に残る闇の奥が、再び蠢いた。
「…………!」
三体の強大な影が、ゆっくりと姿を現した。
まず浮かび上がったのは、黄金の毛並みの狐の化身。神々しさすら感じさせるその姿は、学園全体を圧するほどの存在感を放っていた。
次に、地狐。白銀の毛並みの狐の化身。足元で大地が微かに震え、影のように地面を這う気配を纏っている。
そして、人狐。腐った血のような黒い毛並みをした狐の姿。妖しく輝く目と、優雅でありながら残酷な雰囲気を漂わせる。
三体は同時に高く浮かび上がり、校庭の上空から学園全体を見下ろした。
その瞬間、空気が凍りついた。
生徒たちは全員、息を飲んだ。誰もが言葉を失い、ただ圧倒的な威圧感に体を硬直させる。教師たちでさえ、顔を強張らせて上空を見つめている。
提灯の残光が三体の輪郭を照らし出す。その美しさと恐ろしさが、奇妙に混じり合っていた。
「なんて……存在感……」
「これが……百鬼夜行の首魁……」
誰かの掠れた声が、静寂の中でかろうじて響いた。
珠紀は、呆然と三体を見上げていた。胸の疼きが、再び激しく波打つ。
三首魁は、ゆっくりと学園を睥睨した。
その中心で、天狐が最も高らかに声を響かせた。
「我らは九尾様の封印を解き放つために来た。この学園はもはや我らの遊び場だ!」
その宣言は、学園全体に雷鳴のように轟いた。力強く、威厳に満ち、一切の迷いを感じさせない声。宣言と同時に、天狐の周囲から黄金色の狐火が爆発的に広がり、夜空を明るく照らし出す。学園の瓦屋根も、荒れた校庭も、散らばった花弁も、すべてが狐火の光に染め上げられた。
生徒たちはさらに息を飲み、恐怖と畏怖の入り混じった視線を上空に注いでいた。
天狐はゆっくりと首を巡らせ、校庭にいる九条珠紀を真っ直ぐに見つめた。その目が、優しく、しかし底知れぬ不気味さを帯びて細められる。
「花嫁よ、待っていろ……。すぐに迎えに来る」
その言葉は、珠紀だけに届くように甘く響いた。優しい囁きのように聞こえながらも、背後には圧倒的な力と執着が隠されている。
珠紀の体が、びくりと震えた。
先ほどの胸の疼きが、再び激しく波打ち、首筋の紋様が熱を持つ。
「(待ってる……? 私を……?)」
天狐の宣言は、単なる脅しではなかった。
これは宣戦布告であり、珠紀に対する明確な「約束」でもあった。
地狐と人狐も、低く含み笑うようにその宣言に追従する気配を見せ、学園全体を支配するような沈黙が再び訪れた。
地狐が、低く含み笑うような声で口を開いた。
「ふふ……封印など、もう長くは持たぬ。九尾様の力は目覚めつつある……この学園ごと、すべて飲み込んでくれるだろう」
その声は大地を震わせるような重低音で、地面に残る狐火を揺らした。狡猾な笑みが、白銀の毛並みの顔に浮かんでいる。
すると、人狐が妖しく微笑みながら、甘く溶けるような声で言葉を重ねた。
「花嫁を我らの元へ連れ帰るのも、楽しみだわ……。九尾様の花嫁として、たっぷりと愛してあげましょうね」
人狐の赤い毛並みが狐火に照らされ、血のように艶やかに輝く。微笑みの奥に潜む執着と欲望が、珠紀の肌を粟立たせた。
三首魁の宣言が揃った瞬間、学園全体にその目的がはっきりと伝わった。
――九尾の封印を解く。
百鬼夜行の真の狙いは、学園の奥深くに封じられた強大な九尾の力を解放すること。そして、その鍵となる「狐の花嫁」の珠紀を手中に収めること。
生徒たちの顔から血の気が引いていく。
「九尾……?」「封印を解くって……」「この学園が、危ない……」
ざわめきが広がり、恐怖が再び波のように押し寄せる。教師たちも表情を硬くし、珠紀に視線が集中した。
珠紀は上空の三体を呆然と見上げながら、胸の奥で激しい震えを抑えきれなかった。
「(九尾の封印を……解く? 私が、その鍵……?)」
天狐、地狐、人狐。三首魁は満足げに学園を一瞥すると、ゆっくりと姿を薄れさせ始めた。その威圧感と不気味な笑い声は、校庭に深く刻み込まれたままだった。
その直後。
「散れ」
天狐の最後の短い号令が響いた瞬間、校庭に残っていた百鬼夜行の怪異たちが一斉に動き出した。
狐火を纏った狐の群れ、影のような亡者、異形の妖怪たちが、蜘蛛の子を散らすように四方八方へ飛び散っていく。
学園の各所――生徒たちの寮、瓦屋根の校舎、古い森の奥、庭園の奥に佇む古い社、果ては廃墟同然の獬豸殿の周辺へと、素早く逃げ込んでいった。
「追い払え! 逃がすな!」
「結界を張れ!」
生徒たちや教師たちが慌てて怪道具を構え、攻撃を放つ。
しかし、怪異たちは驚くほど素早かった。攻撃が届く寸前で闇に溶け込み、影の中に潜り込む。笑い声や甘い囁きを残しながら、次々と学園の暗部へと姿を消していく。
学園は、一気に空気が変わった。
至る所に怪異の気配が残り、遠くから聞こえる足音や狐の鳴き声が、常に生徒たちを脅かしていた。提灯の光が揺れるたび、壁や木々の影が不気味に蠢くように見える。
「もう……どこにでもいる……」
「寮に戻ったらどうなるんだ……」
生徒たちの顔に、明確な不安と疲労が広がっていく。華やかだった寮対抗戦の朝は、完全に悪夢のような夜へと変わっていた。
珠紀は荒れた校庭の中央に立ち、ゆっくりと周囲を見回した。各寮の寮章が、埃と焦げにまみれている。学園の美しい風景は失われ、今や至る所に潜む怪異たちの脅威だけが色濃く残っていた。
「(これから……どうなるの……?)」
不穏な静寂が、学園全体を包み込んでいる。学園内に散らばっていった怪異たちは、いつどこで生徒たちに危害を加えるかも分からない。
教員や補助員たちはともかく、生徒たちは怪異の対応の専門家ではないのだ。異能持ちなら対処できるかもしれないが、そうでない生徒たちはきっと、怪異がとても恐ろしいだろう。
「……なるほど。首謀者は、彼らか」
静寂の中、冥利は呟いた。納得がいった、と言わんばかりの態度だ。
「ど、どうしましょう……」
珠紀は震えた手で、冥利の服を掴む。だが彼は、普段のような飄々とした態度のまま、彼女を振り返った。
「心配することはない。学園長が、何とかしてくれるはずだよ」
「そうなんですか?」
「彼は学園を預かる、学園長だからね。何とかしなければならない身分だ」
「確かに、言われてみればそう、ですね……」
だからって、何でもできる人みたいに期待するのは違うような。そう思いつつ、責任ある立場なのだから、相応の対応は否が応でもやることになるのだろう。
「学園内に残っているであろう怪異たちは、学園の怪異たちが対応してくれるだろう。補助員の方や教員方も居るのだから、生徒たちが犠牲になることも多くないはずさ」
「多くない……って」
「全くない、とは言い切れない。重体も擦り傷も負うかもしれない。怪異とはそういうものだ」
ごく冷静な言葉だった。
「だが、行方不明者や死者はそう出ないはずだ。この学園内に居る限りは。それなら、必ず回復できるだろう。購買部で売っている薬や、教員方の持つものは強い回復作用を持っている。呪いに蝕まれたとしても、進行を遅らせることもできるはずさ」
冥利の言葉に、珠紀は安堵する。
「それでも……やっぱり怪異たちは、学園内に居るんですよね」
「そうだね。もしかすると、学園内の色々と混ざって変質している怪異も居るかもしれない」
「変質……ですか?」
「あくまでも想像の範疇の話さ。怪異は外部からの影響に弱いからね。噂話もだけど」
怪異たちの大部分が学園の各所へ散らばっていく中、数体が珠紀の近くに残っていた。
女怪異が、優雅に着物の裾を翻しながらゆっくりと近づいてくる。妖艶な微笑みを浮かべ、甘い声で囁いた。
「花嫁様、怖がらないで。私が優しくしてあげる……。九尾様より先に、たっぷりと可愛がってあげましょうか?」
その声は耳に絡みつくように甘く、視線は珠紀の首筋や胸元を這うように動く。性的な含みを持った言葉に、珠紀の背筋が凍った。
「……それは承諾しかねるね」
短く言い、女怪異の首が飛んだ。
「あ、がっ?!」
黒い体液を傷口から吹き出すが、冥利の唐傘で珠紀に掛かることはなかった。ぼと、と鈍い音を立てて首が地面に落ちる。
「せ、先輩?!」
戸惑う珠紀をそのままに、冥利は何か文言を唱えた。すると怪異の胴体が痙攣したように震える。
のたうち回る怪異を退魔の札で消滅させた後、彼は珠紀を振り返った。
「いや、あまりにも不愉快だったからね。……これはしまったな」
驚く珠紀に構わず、冥利は軽い調子で返した。
「何がですか?」
「君が『花嫁』なら、怪異を惹きつける力もそれはあるなと。今気づいた」
「今ですか!?」
彼の呟きを聞き返せば、そんな返答がある。どこか天然じみた言葉に、少し肩の力が抜けた。
「うーむ」と顎に手を遣り、冥利は考え込む。本当に困っている様子だ。
「これは君の生まれ持った素質だろうから……変えるのは難しい。君は怪異たちから、そういう目で見られることが増えるだろう」
「そんな……」
冥利の残酷な言葉に、珠紀は呆然とする。これから、先ほどのような目に遭う可能性が増えるなんて。
「ただし。外部からの干渉によって、薄めることはできるかもしれない」
「本当、ですか?」
その言葉に、希望が見えた気がした。ずっと、あんな目に晒されるなんて真っ平ごめんだ。
「いわゆる、封印だよ。君のその『花嫁』としての素質を封印する……あるいは弱める」
「そんなこと……できるんですか」
「強い力を持つ者ならできる。例えば、天才の僕とかね」
冗談めかして言われたら言葉に、珠紀は小さく笑った。冥利なら、確かにやってくれそうな気がしたからだ。
「それはともかく。怪異たちが減った今なら、君も校舎に行く気はできたかな?」
「ええと……はい」
冥利に問われ、珠紀は少し考えて頷いた。襲撃される恐れが減った今なら、後者に向かっても大丈夫だろう。そう珠紀は判断した。
二人は校舎へと向かう。
その道中。
今度は逞しい男怪異が、低い笑い声を上げながら一歩踏み出した。荒々しい息遣いと共に、熱い視線を向けてくる。
「とても美味そうな匂いがする……この甘い香り、たまらないな。早く抱きしめて、味わいたい……」
男怪異は舌なめずりをし、指を曲げて珠紀の体を想像するような仕草を見せた。野性的で露骨な執着が、その言葉と仕草から溢れ出している。
他にも数体の怪異が珠紀の周囲を囲むように現れ、甘く、ねっとりと彼女を呼ぶ声が重なった。
珠紀は全身を硬直させ、恐怖と強い嫌悪感に襲われた。
「(気持ち悪い……! 近寄らないで……!)」
心の中で激しく拒絶する一方で、わずかな戸惑いも芽生えていた。
怪異たちの反応は、その怪異本来の気質なのかと。
本当は違うが、珠紀の体質のせいでそうなってしまっているのだとしたら。そう考えると、珠紀の体質に影響されてしまう怪異たちのことが、少し哀れに思えてきたのだ。
「君が気にすること、ではないだろう」
そう言い、冥利は唐傘で男怪異を切り伏せる。周囲に居た怪異たちは、いつのまにか散っていった。
「なんで、そう言い切れるんですか?」
退魔の札で消滅させる、その背中に問う。すると、作業を終えた冥利は立ち上がり、真っ直ぐに珠紀の目を見た。
「僕の異能が『対象の正体を観測すること』だからだ」
「対象の……正体?」
「そう。本質、構成成分、その他何でも。観測できる。だから、断言できる」
言われてみれば、冥利は異能持ちなのだ。だから、異能を持っている。彼が言い出すまで、すっかり頭から抜け落ちていた。
「君に引き寄せられる怪異は、そもそもが碌なものでない。君に引き寄せられる怪異は、元からそういう素質だったということだ。君が罪悪感を持つ必要はない」
「そう……なんですね」
「そして、君が落ち込むこともない。君の体質は、君の落ち度ではないからだ」
「それは……」
「君が両親から生まれたこと、性別が女であること、血液型が何型かであること。それに君が罪悪感を持つことはあるかな」
「えっと……それは」
「君がどの学校へ行き、誰と友達になったとか、何を食べたとか、どんな病気になったとか。それに君が罪悪感を持つことは?」
「……つまり」
「君の体質が先天的であれ、後天的であれ。君が悪い訳じゃないってことさ。強いて言えば運が悪かった」
自分が悪い訳でない。自分に落ち度はない。そう明確に言われ、珠紀はなんだか心が軽くなった気がした。
やがて上空に残っていた三首魁が、最後にゆっくりと声を揃えた。
「楽しませてもらおうか、学園の者どもよ……」
天狐の荘厳な笑い声、地狐の低く響く嘲笑、人狐の甘く妖しいくすくす笑い――三つの笑い声が重なり合い、学園全体に不気味に響き渡った。
その瞬間、三首魁の姿は闇に溶けるように完全に消え去った。
百鬼夜行の怪異たちも完全に散開した後、学園はようやく静まり返った。
しかし、その静けさは決して安らかなものではなかった。
生徒たちは互いに顔を見合わせ、負傷者を支えながらも、誰もが言葉少なだった。華やかだった寮対抗戦の朝は、完全に悪夢へと変わっていた。
珠紀は荒れた校庭を振り返り、ゆっくりと息を吐いた。
「(これが……始まりなんだ……)」
今後の長期的な脅威、そして自分が特別に狙われている現実が、胸に重くのしかかっていた。「九尾様の花嫁」という呼び名と、九尾の封印を解くという目的――それらがこれからの学園生活を、根底から変えてしまう予感がした。
一体これから、何が起きるのだろうか。
珠紀が学園中に散らばった怪異たちの脅威に晒されることは、分かりきっている。
怪異から身を守るために、何をすれば良いのか。
学園は、珠紀をどうするのだろうか。
獬豸殿に隔離されてしまうのだろうか。
せっかく友達もできたのに。
食事はどうなるのだろう。
様々な心配事が、胸を過ぎる。
だけど何より、この学園に通う生徒たち、教員や補助員のことが心配だった。
「(私のせいで……ごめんなさい)」
冥利は『落ち度はない』『君は悪くない』と何度も言ってくれた。けれど、やはり罪悪感は募るばかりだ。
珠紀が「九尾の花嫁」だったから、百鬼夜行が現れて、学園を荒らしてしまった。これは、紛れもない事実だからだ。
「……今度はちゃんと、消えてくれたようだね」
静かな、冥利の声が聞こえた。どうやら、周囲にある怪異の気配を探っていたらしい。
「しばらくは安全そうだ。安心して良いよ」
「分かりました」
冥利が魂鳴具の唐傘を仕舞う。本当に、今のところは脅威は無いらしい。
束の間の静寂の中、遠くから学園長の声が響き始めた。
「全生徒、ただちに中央講堂に緊急集合せよ!」
きっと、これからのことについて話すのだろう。
「行こうか、珠紀くん」
「はい」
冥利に促され、珠紀は頷いた。これから自分がどうなるかなんて、全く分からないけれど。
珠紀は黒牡丹の寮章を握りしめ、震える足を一歩踏み出した。




