第9話:背教の大神官 〜偽善の神殿を焼き捨て、唯一の神へ捧ぐ反逆〜
大聖堂前広場での大爆発から数時間後。
地上ではまだ黒煙がくすぶり、負傷した市民の呻き声と怒号が石畳を揺らしていたが、大聖堂の地下深く――白亜の外壁からは想像もつかぬ豪奢な隠しフロアに位置する『最高司教執務室』の中は、俗悪な熱気と焦燥で充満していた。
部屋を照らすのは、天井から吊り下げられた黄金のシャンデリア。
壁一面には純金で縁取られた歴代教皇の肖像画が並び、足元には諸外国から貢がれた最高級の厚手の絨毯が敷き詰められている。信仰を説き、清貧を謳うはずの神殿の頂点たちが集うその密室は、さながら欲深き大商人の談合部屋であった。
「……あり得ん、このような失態があっていいはずがない!」
長テーブルの最上席で、金糸をふんだんに使った緋色の祭服を着た老人が、机をバンと激しく叩いた。
ガルディニア大聖堂の最高権力者、最高司教ベネディクト。
その肥満した顔は怒りと脂汗でテラテラと光り、醜く波打っていた。
「新聖女マリアベル様のお披露目式典が、あのような無様な爆発事故で終わったなどと……貴族院や諸外国に知られてみろ! 我が神殿の権威は地に堕ち、集まる献金の額は半分以下に落ち込むぞ! 一体どう責任を取るつもりだ!!」
長テーブルを囲む十数名の高級神官たちが、青ざめて縮こまる。
誰もが額に冷や汗を浮かべ、互いに責任を押し付け合おうと視線を泳がせていた。
「し、しかし最高司教猊下、地下水路から噴き出した黒瘴気は、想定の数十倍の濃度に達しておりました。マリアベル様の光魔法に触れた瞬間、引火して爆発したのは物理的な現象でして……」
「黙れッ! それを世間が納得するとでも思うておるのか!」
ベネディクトは唾を撒き散らしながら怒鳴りつけた。
「いいか、マリアベル様が失敗されたなどという事実は、この世のどこにも存在してはならんのだ! あの御方は、第一皇太子ユースティス殿下が直々に選ばれた『光の聖女』なのだぞ! 皇室の面子と神殿の威信が共倒れになれば、我らの首が何本あっても足りんわ!」
「で、では……広場に集まっていた数千の市民たちへは、どのように説明を……?」
一人の司教が恐る恐る口を開くと、ベネディクトは獰猛な豚のような目を細め、冷酷極まる笑みを浮かべた。
「決まっておろう。――すべては、大逆の魔女ヴァレリアの残党による『卑劣なテロ』だ」
部屋の空気が、ピシリと凍りついた。
「魔女のシンパどもが、スラム街の浮浪者たちを金で扇動し、大聖堂の足元に可燃性の呪詛爆弾を仕掛けたのだ。マリアベル様はその毒牙から身を挺して市民をお守りになられた……そういう筋書きに仕立て上げよ。幸い、あの広場にはスラムの貧民どもが多数紛れ込んでいた。適当な者を百人ばかり捕縛し、拷問して自白書に署名させ、広場の焼け跡で公開処刑にせよ」
「……し、しかし猊下、スラム街ではすでに熱病が蔓延し、市民の間で暴動の兆候すら見られます。これ以上民を刺激すれば、神殿への焼き討ちが起きかねません!」
「ならば、壁を築け」
ベネディクトは平然と言い放った。人の命を家畜の頭数程度にしか思っていない冷血な声音。
「熱病の出ているスラム区画の周囲を、近衛兵と神殿騎士団で封鎖しろ。出入り口をすべてレンガで埋め立て、誰一人外へ出すな。……そして、深夜に油を撒いて区画ごと焼き払うのだ。『疫病の蔓延を防ぐためのやむを得ぬ神聖なる焼却』としてな。死人に口なしだ。魔女の残党も、汚らわしい病人も、すべて灰にしてしまえば証拠など残らん」
悪魔の所業。
神の救済を説く聖職者の口から出たとは到底信じられない、数千人の無辜の民を虐殺する隠蔽工作。
だが、居並ぶ神官たちの顔に浮かんだのは、拒絶ではなく、自らの保身が守られることへの安堵の表情だった。
「おお……さすがは猊下」「その手で行きましょう」「早速、近衛兵団へ連絡を」と、卑屈な賛同の声が執務室を満たしていく。
――その醜悪な茶番を。
部屋の最奥、蝋燭の影が落ちる壁際に立ち、ただ一人、氷のように冷徹な瞳で見つめている男がいた。
白銀の祭服を着崩し、長い足を組んで壁にもたれかかる青年。
端正な顔立ちに、退屈と侮蔑を隠そうともしない冷ややかな笑みを浮かべたその男の名は――マティアス。
弱冠二十代にして大聖堂の筆頭司教の座に就き、かつて十年間、地下牢でヴァレリアの監視役を務めていた男であった。
(……救いようのない、豚どもめ)
マティアスは胸中で、吐き気を催すような侮蔑を吐き捨てた。
彼らの言葉の一つ一つが、泥水のように耳を汚していく。
神殿の権威、莫大な献金、皇太子への媚態、そして罪なき民の虐殺――ここにあるのは、信仰などという高尚なものではない。己の私腹を肥やすことだけに執着する、老いさらばえた寄生虫たちの断末魔の足掻きに過ぎなかった。
マティアスの脳裏に、かつての日々が鮮明に蘇る。
大聖堂の地下最深部、『封呪の石牢』。
外光の届かぬ暗黒の底で、重い鉄の鎖に全身を縛り付けられ、帝国のありとあらゆる穢れを一人で引き受け続けていた少女――ヴァレリア。
マティアスは十年間、彼女の専属監視役として、誰よりも近くでその姿を見続けてきた。
骨を軋ませ、皮膚を爛れさせる黒瘴気の激痛。常人であれば数日で発狂して死に至るはずの地獄の中で、ヴァレリアは十年間、ただの一度たりとも弱音を吐かなかった。
命乞いもせず、神への恨み言すら口にせず、ただ冷徹に、澄み渡る紫紺の瞳で自らの運命を見据えていた。
食事を運んできた下級の侍女が怯えて震えていれば、「寒いわね、風邪を引かないようにね」と静かに気遣うことすらあった。
どちらが、本物の『聖女』であったか。
どちらの魂が、真に神聖であったか。
問うまでもないことだった。
何万何千という祈りの言葉を並べるこの肥満した最高司教どもよりも、薄暗い地下牢の冷たい石畳の上で、泥水を啜りながら国を支え続けていたあの孤独な少女こそが、マティアスにとって唯一無二の「神」そのものだったのだ。
それなのに。
この腐りきった神殿の上層部は、用済みとなった彼女を「魔女」と呼び、名誉のすべてを奪い取り、あのような愛嬌だけの無能な金髪の小娘を祭り上げて、彼女を奈落の底へ突き落とした。
――神など、最初からこの世にいなかった。
マティアスの中で、パリンと何かが完全に砕け散った。
幼少期から叩き込まれてきた神への祈りも、聖書の教えも、神殿への忠誠も、すべてがただの欺瞞であり、唾棄すべき糞土であると理解した。
あの方が地獄の底で血を流している間、天上の神とやらは何一つ奇跡を起こさなかったではないか。
(神などただの妄想だ。……私の信仰は、あの方だけだ)
心の中で静かに誓った瞬間、マティアスの唇に、狂気に濡れた美しい笑みが浮かんだ。
魂の底から湧き上がるのは、神への冒涜に対する恐怖ではない。
敬愛する主を裏切り、死へと追いやったこの偽善の檻を、跡形もなく解体してやれるという、暗く甘美な歓喜だった。
「――おい、マティアス!」
ベネディクトの濁った声が、マティアスの思考を遮った。
最高司教は不機嫌そうに顎をしゃくり、壁際に立つマティアスを睨みつける。
「何をぼんやりと突っ立っておるのだ! 貴様はかつて、あの魔女ヴァレリアの監視役を務めておっただろうが! スラム街のテロリストどもが魔女の残党であるという捏造――ゲフン、正式な告発書を、筆頭司教である貴様の名義で至急作成せよ! 貴様の署名があれば、民衆も信じざるを得まい!」
ベネディクトは、マティアスを都合のいい身代わりの道具として使う気満々だった。
だが、マティアスは動かなかった。
壁にもたれたまま、冷淡な眼差しでベネディクトの豚のような顔をじっと見つめ返す。
「……マティアス? 聞いておるのか、無礼者め! 最高司教であるこの私の命令が聞けんのか!」
「ええ、聞こえていますよ。ベネディクト猊下」
マティアスは静かに壁から身体を離した。
その足取りには、先ほどまでの鬱屈とした気配は微塵もなかった。
彼は白銀の法衣の胸元に手をかけると――ビリリッ、と音を立てて、胸に縫い付けられていた神殿の紋章を乱暴に引きちぎった。
バサリ、と純白の祭服が床に脱ぎ捨てられる。
現れたのは、動きやすさを重視した漆黒のシャツと革のトラウザー。
聖職者としての仮面を脱ぎ捨てた青年の双眸には、凍りつくような殺意と嘲笑が宿っていた。
「な、何を……貴様、正気か!? 神聖なる祭服を床に捨てるなど――」
「神聖? 反吐が出ますね」
マティアスは冷たく言い放つと、懐から手のひらサイズの黒い金属球を取り出した。
古代の軍事遺物――超高圧縮された爆破魔導具『震天球』。
それを指先で弄びながら、執務室の奥――神殿が数百年もの間、決して侵すべからざる聖域として封印してきた『最高機密保管庫』の重厚な魔導扉目掛けて、何のためらいもなく放り投げた。
「貴様、何をして――ッ!?」
――カチリ。
ドゴォォォォォォンッ!!!!
執務室が激震した。
閃光と爆風が吹き荒れ、純金のシャンデリアが無残に落下して砕け散る。神官たちが悲鳴を上げて床を転がり回る中、数重の防御結界が施されていたはずの保管庫の鋼鉄扉が、ひしゃげた鉄くずとなって吹き飛んだ。
煙が立ち込める保管庫の中へ、マティアスは迷うことなく足を踏み入れた。
彼が腰から引き抜いたのは、空間を拡張した最高級の『異空間鞄』。
保管庫の棚に並んでいたのは、神殿が「神への寄進」という名目で民衆と貴族から巻き上げ、隠匿し続けてきた天文学的な財宝の山だった。
眩い輝きを放つ純金の延べ棒の山、諸外国の王室から裏取引で得た神話級の宝石、そして――。
「あったぞ……これだ」
マティアスの口角が吊り上がる。
棚の最奥に厳重に鍵をかけられていた、黒革の分厚い手帳の束。
神殿が数百年かけて国内外の貴族や要人を買収し、汚職と不正を記録してきた『最高機密の裏帳簿』。
誰にいくら賄賂を渡し、誰の弱みを握っているのか、神殿の権力の源泉である「暗部」のすべてが克明に記された、まさに国家を破滅させる爆弾そのもの。
さらにその隣には、初代教皇がその危険性ゆえに封印したとされる禁忌の古代魔導書――【因果反跳の術式原典】。
「金塊、宝石、裏帳簿、禁忌の魔導書……すべて回収させてもらいますよ」
マティアスは機械的な手際の良さで、棚の貴重品を次々と異空間鞄の中へ放り込んでいく。
容量の限界など知らぬ鞄が、神殿の富と機密を丸ごと胃袋の中へと呑み込んでいく。
「き、貴様ぁぁぁっ! 何をしているのだ、泥棒め!!」
煤まみれになったベネディクトが、短剣を抜いた神殿護衛兵たちを引き連れて保管庫の入り口へと駆けつけてきた。
最高司教の顔は怒りと恐怖で引き攣り、額の血管が破裂せんばかりに浮き上がっている。
「我が神殿の至宝を盗み出すなど、万死に値する大罪だ! 神への冒涜だぞ! 者ども、その裏切り者を八つ裂きにせよ! 殺せ、今すぐ殺せぇぇっ!!」
護衛兵たちが槍を構え、マティアス目掛けて殺到する。
だが、マティアスは振り返りすらしなかった。
鞄の紐をキュッと結び直すと、身を翻すコンマ数秒の動作で、腰の長剣を一閃させた。
――ヒュンッ!
空気を裂く鋭利な銀の閃光。
神官でありながら、かつてヴァレリアの監視役としてあらゆる暗殺者や魔獣を退けてきた男の剣技は、神殿の軟弱な護衛兵たちの追随を許すものではなかった。
「ぎゃっ――!?」
先頭を走っていた護衛兵二名の槍の穂先が両断され、胸当てごと皮膚を浅く切り裂かれて床へ吹き飛ぶ。
マティアスはそのまま影のように踏み込むと、最後尾にいたベネディクトの眼前へと一瞬で肉薄した。
「ひっ……!?」
息を呑む間すらなかった。
マティアスの手袋を嵌めた左手が、蛇のような正確さで伸び、ベネディクトの贅肉に埋もれた太い首を鷲掴みにした。
メリメリ、と骨が軋む音が響く。
百キロ近い巨体が、片手一本で軽々と床から吊り上げられた。
「がっ……ゲホッ、ぐ、ぐるじい……っ! は、離せ……マティアス……っ!」
足をバタつかせ、必死にマティアスの腕を引っ掻くベネディクト。
だが、マティアスの鉄の如き握力は微塵も揺るがない。
青年司教は、苦悶に白目を剥きかける最高司教の顔を至近距離から見つめ、氷よりも冷たい笑みを投げかけた。
「神への冒涜、ですか? ……滑稽ですね」
マティアスの指先が、さらに深く喉仏へと食い込む。
「十年間、あの冷たい地下牢で、泥水を啜りながら国中の穢れを引き受けてくださっていたあの方を切り捨てたお前たちが……どの口で『神』を語るのですか? マリアベルなどという薄っぺらい金髪のメッキ女を神輿に担ぎ、失態を犯せば罪なき市民を焼き殺そうとする……。お前たちこそが、世界で最も醜悪な汚物だ」
「ぐ、あ……許、じで……っ!」
「安心なさい、今すぐここで殺しはしませんよ」
マティアスはベネディクトをゴミのように床へ投げ捨てた。
ドサリと巨体が叩きつけられ、ベネディクトは激しく咳き込んで咽び泣く。
マティアスは足元に転がる最高司教を見下ろし、残酷な宣告を下した。
「あの方の教えです。――『泥棒や詐欺師の首を力任せに切り落とすなど、何の娯楽にもならない』。……ええ、まったくその通りだ。お前たちの命は、あの方が用意される最高の特等席の舞台の上で、もっと無様に、もっと惨めに使い果たされるべきだ」
マティアスは背を向け、煙に包まれた執務室の出口へと歩み出す。
去り際、彼は懐からもう一つの火炎魔導具を取り出すと、背後の保管庫の書類棚目掛けて無造作に放り投げた。
ボッ――!!
瞬く間に紅蓮の炎が燃え上がり、神殿の残された帳簿や贅沢な調度品を呑み込んでいく。
「ひ、火事だぁぁっ! 消火しろ、誰か火を消せぇぇっ!!」
喚き散らす神官たちを尻目に、マティアスは一度も振り返ることなく、煙の立ち込める廊下を駆け抜けた。
大聖堂の地下迷宮を熟知している彼にとって、追手を撒くことなど造作もなかった。
普段は固く閉ざされている秘密の通用門を蹴破り、マティアスは大聖堂の裏手に広がる深い森の闇へと躍り出る。
夜の冷気が、煤で汚れた頬を冷やす。
振り返れば、大聖堂の地下換気口から濛々と黒煙が噴き上がり、夜空を赤く染め始めていた。
金庫は破られ、数百年分の蓄財と最高機密は奪われ、火の手が上がった神殿。
明日の朝には、ガルディニア帝国全土を揺るがす大スキャンダルとして発覚するだろう。
マティアスは肩に担いだ異空間鞄をトントンと叩き、北西の空――覇権国家カイザーライヒが広がる方角を見上げた。
その端正な顔立ちに、狂気と陶酔に満ちた、極上の笑みが広がる。
「待っていてください、ヴァレリア様」
彼は胸元に手を当て、地獄の底から這い上がった我が神へ向けて、背徳の祈りを捧げた。
「貴女に仇なしたこの偽善の檻を、私がすべて解体して差し上げます。――貴女の踏み台となるために、この命の最後の一滴まで使い果たしてみせましょう」
銀の髪を夜風になびかせ、背教の大神官は闇の中へと疾走していった。




