↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/34

第10話:覇王の千里眼 〜黒鉄の要塞に座す覇王と、至高なる国賓の誓約〜

ガルディニア帝国の北西境を画する『竜骨山脈』。

万年雪を戴く険峻な連峰と、人を寄せ付けぬ深い霧が立ち込めるその峡谷は、自然が作り出した絶対の国境線であった。

かつて数多の隊商や逃亡者がこの山道で凍死し、魔獣の餌となってきた不毛の険路。だが、その凍てつく岩肌を踏みしめて進む三つの人影にとって、猛吹雪などただの心地よい夜風に過ぎなかった。


先頭を歩くのは、漆黒と黄金の豪奢なドレスを纏ったヴァレリア。

足首まで届くドレープを優美に揺らし、薄氷の張る急斜面を、まるで王宮の赤い絨毯の上を進むかのように滑らかな足取りで越えていく。彼女の身体からは微細な神聖の熱気が絶え間なく立ち上り、周囲数メートルの冷気と雪片を瞬時に蒸発させていた。


その背後、左右を固めるのは二頭の怪物。

右側には、黒銀の長髪を冷風になびかせ、金色の瞳で周囲の気配を舐め回す原初の魔王ヴォルフラム。彼はヴァレリアの足元に小石一つ転がることすら許さぬとばかりに、視線一つで前方の巨岩を粉塵へと砕きながら歩いている。

左側には、雪よりも白い銀髪を揺らす暗殺ギルドの頭領キリアン。少年は外套の下に隠した二本の波刃ダガーの柄に指をかけ、山脈の影に潜む魔獣の息遣いを感知するたび、音もなく投擲して眉間を穿ち、主の視界に醜悪な怪異が入るのを徹底的に排除していた。


「我が主、寒くはございませんか? 我が黒炎でこの山脈ごと温めて差し上げましょうか」

「ヴァレリア様、喉が渇いていませんか? 水筒の温かい白樺茶、淹れ直しましょうか?」


隙あらばヴァレリアの視界に入り、己の忠誠をアピールしようと競い合う男たち。

二人の神話級のオーラが火花を散らし、山脈の木々がビリビリと激しく震える。


「静かになさい、二人とも。息が白くなるわ」


ヴァレリアが冷ややかな視線を一瞥向けると、魔王と暗殺者は示し合わせたようにピタリと口を噤み、寸分の隙もない直立歩行へと戻った。

手綱の締まった狂犬たちを引き連れ、ヴァレリアは峡谷の出口――霧の切れ目へと足を運んだ。


視界が一気に開ける。

眼下に広がっていたのは、ガルディニアの軟弱で華美な田園風景とはまるで異なる、鉄と血の匂いが染み付いた冷徹な軍事要塞都市の偉容であった。


大陸最強の軍事覇権国家――カイザーライヒ帝国。

その南東国境を守護する最前線の巨塞『黒鉄の門(アイゼン・ゲート)』。

切り立った黒曜石の断崖をくり抜いて築かれた外壁は高さ四十メートルに達し、天を睨む数百門の魔導重カノン砲が威圧的な砲口を並べている。敷き詰められた石畳は軍靴の鉄鋲で削り取られ、掲げられた無数の軍旗には、双頭の黒鷲が誇り高く羽ばたいていた。


本来であれば、国境を不法に越えてきた密入国者など、要塞の上からの無差別斉射によって一瞬でミンチに変えられるのがカイザーライヒの鉄則である。

だが――要塞の大門は、地響きのような重低音を立てて全開に開け放たれていた。


「……おや?」


ヴァレリアが小さく唇を綻ばせる。

門の前、幅五十メートルに及ぶ軍用大通りを埋め尽くしていたのは、迎撃のための戦闘隊形ではなかった。


ジャ、と一糸乱れぬ金属音が谷間に木霊する。

漆黒のフルプレートアーマーを着込み、巨大なハルバードを構えた兵士たち――カイザーライヒ帝国が大陸全土にその武名を轟かせる近衛精鋭部隊『黒甲重装歩兵連隊』三千名が、道の両脇に寸分の狂いもなく二列に整列し、最敬礼の姿勢で不動の姿勢を取っていたのだ。


威圧。規律。そして、絶対の敬意。

国境を越えてきた身元不明の三人に対し、彼らはまるで、戦勝を遂げた最高司令官を迎えるかのような礼式を整えていた。


「ちっ……鼻の利く人間どもだ」

ヴォルフラムが舌打ちをし、黒銀の長髪を苛立たしげに揺らした。

「我が主の御神気に気づき、慌てて出迎えたか。……我が主、邪魔な鉄屑共でございます。一息に焼き払って門を蹴破りましょうか?」

「僕が全員の首を刎ねて、道を綺麗に掃除してきます」

キリアンが青い瞳を冷たく細め、影へと溶け込みかける。


「お待ちなさい」

ヴァレリアは優雅に手を挙げ、二人を制した。

「無粋な真似はおよしなさい。相手はこちらの『格』を正しく理解した上で、最上級の歓待を用意しているようですわ。……その心意気に免じて、少し付き合ってあげましょう」


ヴァレリアが進み出ると同時に、整列した三千の騎士たちが一斉にハルバードの石突を大地へと打ち鳴らした。

ドォン、と重厚な衝撃波が峡谷を揺るがす。


その列の最奥、要塞の大門の直下に停められていたのは、四頭立ての漆黒の巨大な軍用馬車であった。装甲板で補強された無骨にして重厚な車体。その扉が内側から静かに押し開かれ、一人の男がゆっくりと地面へと降り立った。


カツン、と拍車の鳴る乾いた足音。

男が一歩踏み出した瞬間、要塞の大気が目に見えて引き締まり、張り詰めた。


身の丈六尺を超える堂々たる体躯。

夜の闇をそのまま切り取ったような短い黒髪に、彫刻刀で削り出したかのように鋭利で精悍な美貌。左の頬から顎にかけて、歴戦の刃傷が一本、薄い白線となって刻まれているが、それが男の野性味と底知れぬ覇気を何倍にも引き立てていた。

身に纏うのは、無駄な装飾を一切削ぎ落とした漆黒の軍服と、深紅の裏地を持つ重厚な外套。腰には、幾万の敵の血を吸ってきたであろう無銘の古代魔剣が無造作に吊るされている。


カイザーライヒ帝国第八代皇帝――コンラート・フォン・カイザーライヒ。

先代皇帝の急死に伴う後継者争いを、類まれなる軍事的天才と冷徹な粛清によってわずか半年で平定し、弱冠二十代にして大陸最強の軍事国家の頂点へと登りつめた若き覇王。

その男が、帝都の玉座を離れ、自らこの最前線の国境要塞まで出向いてきていたのだ。


コンラートの冷徹無比な琥珀色の双眸が、歩み寄るヴァレリアの姿を真っ直ぐに射抜いた。

背後に控えるヴォルフラムの放つ人外の威圧感も、キリアンが放つ暗殺者の殺気も、男は完全に意に介していない。彼の視線はただ一人、中央に立つ黒髪の美女――ヴァレリアの魂の深奥だけに向けられていた。


「……なるほどな」


コンラートの低く、よく通るバリトンの声が、冷たい風を割って響いた。

男は軍用手袋を嵌めた指先で、首元に提げた奇妙なペンダントに触れた。

それは、複雑怪奇な歯車と神聖金属で組まれた、掌大の球体――カイザーライヒ帝室に伝わる至高の古代遺物『真理の天蓋(ヴェリタス・ドーム)』の端末核石であった。

核石は今、測定限界を示す紫紺の光条を激しく放ち、内部の歯車が煙を吹いて焼き切れんばかりに回転している。


「国境要塞の全魔力観測儀が、突如として天元を突破したと報告が入った時は、古代竜の群れでも押し寄せてきたかと思ったが……。まさか、たった一人の女の歩みに呼応していたとはな」


コンラートは不遜に片眉を吊り上げ、唇の端に獰猛な笑みを刻んだ。


「数百年封じられていた神話の魔王を首輪で繋ぎ、裏社会の頂点に立つ狂犬を手懐け、全身から大陸中の全神殿を合わせても足元に及ばぬ規格外の神気を放つ、絶世の美女……。我が帝国の観測網と情報網を総動員して照合した結果、導き出された答えは一つしかなかったぞ」


コンラートは一歩、ヴァレリアへ向けて歩み寄る。

その歩みに合わせ、ヴォルフラムが「我が主に近づくな」と牙を剥きかけ、キリアンの指先がダガーを弾きかけたが、ヴァレリアが無言のまま背後へ向けた手のひらによって、二人は歯を食いしばって押し留められた。


二人の支配者が、わずか数メートルの距離で対峙する。

コンラートは腕を組み、冷徹な観察眼でヴァレリアを見据えながら、淡々と言葉を継いだ。


「三日前、ガルディニア帝国において、大逆の魔女として一人の聖女が『断絶の深淵』へと蹴り落とされた。――ヴァレリア・フォン・アルトハイム。十年間、地下牢に幽閉され、帝国の全呪詛を一身に引き受け続けていたという生贄の娘」


その情報速度に、ヴァレリアは小さく眉を動かした。

深淵の底から這い上がって、まだ数刻。

すでにカイザーライヒは、ガルディニア国内の最重要機密の細部に至るまで正確に把握していたのだ。


「そして今朝、ガルディニアの大聖堂前広場において、新聖女マリアベルなる小娘のお披露目式典で、大規模な魔力爆発事故が発生。都の中央から黒瘴気が噴き出し、スラム街は疫病で半壊、貴族街はパニックに陥っているという。……ふん、笑わせてくれる」


コンラートは吐き捨てるように嘲笑した。


「濾過装置の役割を果たしていた本物の聖女を、無知と欲に目を眩ませてドブへ投げ捨てた結果、国家の下水が地表へ逆流したというわけだ。ガルディニアの皇太子と神殿の豚どもは、救いようのない盲目共だな。自分たちがドブに捨てたものが、どれほど恐ろしく、どれほど至高の『本物の神』であったかも理解していなかったとは」


コンラートの琥珀色の瞳に、獲物を見定めた獣のような強烈な光が宿った。

彼は右手を胸に当て、皇帝としての威厳を保ちながらも、一人の男として、深々とした礼を執ってみせた。


「我が帝国へようこそ、美しき魔女殿。……いや、ヴァレリア・フォン・アルトハイム閣下」


その呼びかけに、周囲の黒甲騎士たちが再びザッと膝を折り、要塞全体が絶対の沈黙に包まれる。


「君を、路頭に迷った哀れな亡命者として扱う気など毛頭ない。神話の怪物を侍らせ、国家を内側から腐敗させるだけの絶対の因果を握る君は、それ単体で一軍、いや、一国に匹敵する戦略兵器であり、至宝だ。我がカイザーライヒの威信と全軍の名誉を懸け、君を最高待遇の『国賓』として迎え入れよう」


淀みのない、完璧な見極め。

情に訴えかける甘言でもなければ、力で服従させようとする傲慢でもない。

徹底した現実主義と合理性に基づき、相手の価値を100%正しく査定した上で提示された、破格の待遇。

大陸最強の覇王と呼ばれる男の器量が、その立ち居振る舞いの一挙手一投足に満ち満ちていた。


ヴァレリアは、扇子のように組んでいた両腕を解き、ふわりと漆黒のドレスの裾を摘み上げた。

そして、白磁の首筋を優雅に傾け、完璧な宮廷作法に則った、息を呑むほどに美しいカーテシーを返した。


「お目が高いのね、皇帝陛下」


ヴァレリアの唇から、鈴の音のように澄んだ、だが氷の如く冷涼な声が零れ落ちる。

彼女の紫紺の双眸が、コンラートの琥珀色の瞳と正面から激突した。

怯えも、へりくだりも、一片の媚びすらない。

世界の半分を支配する覇王を前にして、彼女はまるで、自らの庭園に迷い込んできた客人を品定めするかのように、傲然と見つめ返していた。


「ですが、勘違いなさらないでくださるかしら? わたくしは、誰かの庇護を求めてこの国へ参ったわけではありませんのよ」


ヴァレリアは一歩、コンラートへ向けて歩み寄った。

ハイヒールが石畳を打つ硬質な音が、要塞の大門に響く。

彼女の全身から立ち上る純白の神気が、夕闇の迫る要塞の影を黄金の光で染め上げていく。


「わたくしを裏切り、泥水へと突き落とした祖国ガルディニア……あの愚者たちが、自らが蒔いた悪意の種によって骨の髄まで腐り落ちていく様を、最前列の特等席で観賞すること。それだけが、今のわたくしの唯一の望みですわ」


ヴァレリアは艶やかに微笑み、ゾッとするほど美しい弧を唇に描いた。


「貴方の帝国を、わたくしの舞台(・・)として使わせていただきますわ。――その対価として、貴方が喉から手が出るほど欲している『ガルディニアの沃野と富』を、一滴の血も流さず貴方の掌の上へ転がり込ませて差し上げてもよろしくてよ?」


対等以上の要求。

軍事大国の皇帝に対し、国を己の復讐劇の舞台として提供しろと言い放ったのだ。


背後の兵士たちが息を呑むのが分かった。不敬罪で即座に首を刎ねられてもおかしくない暴言。

ヴォルフラムが「断ればこの男の首を獲る」と影を伸ばし、キリアンが静かに重心を落とす。


だが――。


「…………ハ」


コンラートの喉から、低く掠れた笑いが漏れた。

続いて、それは豪胆な大笑いとなって要塞の空へと轟いた。


「ハハハハハッ! 素晴らしい! 実に対等で、極上の取引ではないか!」


コンラートは愉悦に肩を震わせ、ヴァレリアに向けて右手を差し出した。

その瞳には、侮蔑など微塵もなく、対等の怪物に対する底知れぬ歓喜と敬意が燃え盛っていた。


「気に入ったぞ、美しき魔女殿。我が帝国を君の舞台にして構わん。我が軍も、富も、情報網も、君の復讐のための玩具として存分に使え。――その代わり、君が演出する最高の破滅劇、俺にも隣の特等席で見せてもらうぞ」


「ふふ……ええ、もちろんよ」


ヴァレリアは差し出された無骨な軍用手袋の上に、自らの白磁の手の甲を優雅に重ねた。


「極上の喜劇をお見せいたしますわ、皇帝陛下。……決して、退屈はさせませんことよ」


氷の女帝と、鉄の覇王。

二人の怪物の手が結ばれた瞬間、ガルディニア帝国の命運は、完全に不可逆の終焉へと定められたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。