第11話:チェス盤の上の帝国 〜冷徹なる女軍師と、喉元に突き立つ二つの狂気〜
カイザーライヒ帝国の皇城『黒鷲城』の最頂部――雲を突き抜けた天空に位置するその大広間は、通称『星見の間』と呼ばれていた。
三方を切り立った天崖のような特殊強化硝子で覆われ、足元には夜空をそのまま敷き詰めたかのような黒曜石の鏡面床。見下ろせば、整然と区画された軍事帝都の街並みが、魔導灯の冷たい蒼白い光を放ちながら幾何学模様を描いている。
天井を見上げれば、大陸全土の星座と星々の運行を精密に投影する巨大な天球儀が、静かにキチキチと真鍮の歯車を噛み合わせて回っていた。
世界の頂に立つ者だけが見ることを許された、圧倒的な孤高の風景。
その部屋の中央に置かれた巨大な円卓には、精緻極まる大陸全土の立体軍事地図が広げられていた。
等高線に沿って彫り込まれた山脈、魔力水脈の流路、各国の城塞都市を示す精巧な銀のミニチュア。
その卓を挟んで、二人の支配者が対峙していた。
一人掛けの豪奢な黒革の安楽椅子に、深く、優雅に腰を沈めているのはヴァレリア・フォン・アルトハイム。
漆黒と黄金のドレスは一分の乱れもなく整えられ、白磁の指先は肘掛けの獅子頭を気だるげに撫でている。その紫紺の双眸は、眼下に広がる広大な帝都の夜景を見下ろしながらも、一片の感慨すら抱いていないように冷涼だった。
対する円卓の向かい側には、皇帝コンラートが立ったまま腕を組んでいた。
漆黒の軍服に深紅の裏地を持つマント。彫刻のように整った精悍な顔立ちに刻まれた古傷が、夜の帳の中で獣のような陰影を落としている。
そして――コンラートの斜め後方、半歩引いた影の中にもう一つの人影があった。
濃紺の軍務服に身を包んだ、背の高いすらりとした女性。
肩口で切り揃えられた白銀に近い薄氷色の髪と、怜悧な光を宿す細い金縁の眼鏡。知性の塊のようなその美貌は、いかなる感情の揺らぎも許さぬ鋼鉄の規律を漂わせていた。
カイザーライヒ帝国筆頭軍師兼筆頭宰相――ヒルデガルト・フォン・ベルリッヒ。
大陸屈指の頭脳と称され、軍事、内政、財政のすべてを完璧に統括する女傑。皇帝コンラートの覇道を裏から支え、時に冷酷な粛清すら辞さない彼女が、書類を挟んだ黒革のバインダーを胸元に抱え、ヴァレリアの一挙手一投足を値踏みするように観察していた。
部屋には、この三人しかいないように見えた。
だが――部屋の隅、天球儀の影、そしてヴァレリアの足元に落ちる濃い影の奥底に、常人には決して知覚できぬ「異常な質量」が沈殿していた。
金色の双眸を闇の奥で爛々と光らせ、爪を研ぐ原初の魔王ヴォルフラム。
息の根を止めるタイミングだけを無機質に計算し、影の隙間に溶け込む暗殺者キリアン。
ヴァレリアが指先一つ動かせば、コンラートとヒルデガルトの首が一瞬で床を転がるだけの絶対的な死の気配が、星見の間の四隅を重苦しく支配していた。
「――単刀直入に本題へ入ろうか、ヴァレリア殿」
沈黙を破ったのは、コンラートだった。
男は円卓の上に無骨な拳をトンと置くと、低く唸るような声で切り出した。
「君を国賓として迎え入れたことに偽りはない。だが、我が帝国は軍事国家だ。無益な食客を飼うほど、俺の国庫は甘くはないぞ。君を我が帝国の絶対の庇護下に置き、君の望む復讐の舞台を整えてやる……その対価として、君のその規格外の神聖魔力を、我が帝国の軍事力として正式に供出してほしい」
コンラートの琥珀色の瞳が、鋭利な刃となってヴァレリアを射抜く。
主導権を握り、自らの軍門へと引き込もうとする覇王特有の威圧。
「君の身に宿る【悪意の神聖精製】とやらは、国境の魔力観測儀を破壊するほどの出力を叩き出した。あれほどの魔力があれば、我が軍の魔導兵器の出力は三倍に跳ね上がる。……君が望むなら、今すぐにでも我が黒甲騎兵五万を進発させ、竜骨山脈を越えてガルディニアの国境要塞を粉砕してやってもいい。十日もあれば帝都ルテティアを焦土に変え、あの無能な皇太子ユースティスと偽聖女の首を君の足元へ転がしてやれるぞ?」
力による解決。圧倒的な軍事力による蹂躙。
軍師ヒルデガルトもまた、眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせ、無言で頷いていた。すでに彼女の頭の中には、ガルディニア侵攻作戦の電撃戦チャートが完璧に構築されているのが見て取れた。
だが。
大陸最強の軍勢を動かしてやろうという覇王の破格の提案を前にして、ヴァレリアの反応は冷ややかなものだった。
「…………」
ヴァレリアは、扇子の先端で自らの艶やかな唇を隠した。
そして――ふっ、と。
まるで、庭先で木剣を振り回して得意がる幼子を見るかのような、底知れぬ憐憫と侮蔑を含んだ失笑を漏らしたのである。
「くすっ……あはは」
「何がおかしい?」
コンラートがわずかに眉根を寄せた。
「おかしくてたまらないわ、皇帝陛下」
ヴァレリアは優雅に椅子の背から身体を起こし、黒革のヒールを鳴らして円卓へと歩み寄った。
漆黒と黄金のドレスの裾が床を滑り、彼女の身体から漂う甘く冷涼な香気が、星見の間の空気を支配していく。
「短絡的ですわね、陛下。……いえ、武力に頼ることしか知らない筋肉の塊と申し上げるべきかしら?」
「貴様……ッ!」
後方に控えていたヒルデガルトが、眉をつり上げて一歩前へ踏み出しかけた。一国の主権者たる皇帝に対する、許されざる不敬。
だが、コンラートは手甲をわずかに掲げて軍師を制した。その双眸には怒りではなく、獰猛な興味が渦巻いていた。
「続けろ、魔女殿。俺の軍事侵攻案のどこが短絡的だと言うのだ」
「すべてですわ」
ヴァレリアは円卓の前に立ち、卓上のペン立てから、細身の羽ペンを一本抜き取った。
彼女はインク壺にペン先を浸すこともせず、自らの指先から放たれる純白の神聖魔力をペンの切っ先に宿らせる。
「第一に、兵糧と軍費の無駄。五万の軍勢を山脈越しに進軍させれば、一日で数千枚の金貨が消え、輜重隊を維持するために後方の領民へ重税を課すことになります。第二に、大義名分の欠如。いくらあちらが無能の集まりとはいえ、宣戦布告の大義なく攻め入れば、周辺諸国はカイザーライヒの覇道に恐れをなし、対カイザーライヒ包囲網を結成する口実を与えてしまいますわ。そして第三に――」
ヴァレリアは羽ペンの先を、円卓の立体地図――ガルディニア帝国の中心部に位置する帝都ルテティア目掛けて、垂直に突き立てた。
「――血と泥で汚れた焦土など、手に入れたところで何の価値もありませんわ。わたくしが貴方に差し上げると申し上げたのは、肥沃な穀倉地帯と、無傷の都市機能、そして自ら平伏して靴を舐めてくる従順な領民ですのよ? 剣を抜いて叩き壊すなど、下の下の愚策ですわ」
澱みのない、氷のように研ぎ澄まされた戦略批判。
ヒルデガルトの表情が、ピクリと凍りついた。眼鏡の奥の瞳が、侮蔑から驚愕へと塗り替えられていく。ヴァレリアの指摘は、まさに彼女自身が内心で懸念していた「軍事侵攻に伴う外交的・財政的リスク」を、寸分の狂いもなく突いていたからだ。
「では、君ならどうする? 軍を動かさずに、どうやってあの国を滅ぼすというのだ」
コンラートが身を乗り出す。
「簡単なことですわ」
ヴァレリアは羽ペンの切っ先を滑らせた。
光の軌跡が、立体地図の上に鮮やかに浮かび上がる。
彼女が描き出したのは、各国の軍事境界線などではなかった。
帝都ルテティアの地下を流れる巨大な三本の大地脈。
そこから枝分かれして、アルトハイム公爵領を含む帝国東部の広大な沃野へと繋がる地下水路のネットワーク。
そして、各大聖堂が諸外国の大商工ギルドと結んでいる、金融為替の流通ルート。
「これは……!?」
ヒルデガルトが思わず息を呑み、バインダーを取り落としかけた。
そこに描かれていたのは、カイザーライヒの最高機密諜報網ですら把握しきれていなかった、ガルディニア帝国の「生命線の解剖図」そのものであった。
「十年間、あの薄暗い地下牢で、帝国全土から流れ込む呪詛の脈動を受け止め続けていた私だからこそ分かります」
ヴァレリアは冷徹な声音で、ペンの先で公爵領の麦畑を丸で囲んだ。
「あの国の豊かな農業生産は、すべて地下深くの有毒な黒瘴気を、私がこの身一つで濾過し続けていたからこそ成り立っていた奇跡に過ぎません。……防壁を失った今、大地の底に溜まった毒素は、あと三ヶ月で地下水脈を汚染し尽くしますわ」
ペン先が、流れるように次の標的を指し示す。
「まず、水が腐る。井戸水は毒水となり、家畜が死に、東部の穀倉地帯の作物は一夜にして全滅します。自給率はゼロに落ち込み、帝都は深刻な食糧危機に直面する。――そこへ、神殿の金融破綻が重なりますわ」
「神殿の破綻だと?」コンラートが目を細める。
「ええ。ガルディニア神殿は、『奇跡の病気平癒』を担保に、貴国カイザーライヒを含む諸外国の豪商たちから天文学的な額の宗教債を借り入れています。……ですが、新聖女マリアベルのメッキは今朝の爆発で剥がれ落ちました。あのような小娘に、疫病を抑える力など毛頭ありません」
ヴァレリアは優雅に羽ペンを指先で回し、机上へカツンと置いた。
「貴方がなすべきことは、軍を動かすことではありませんわ。――国境の関所を完全に封鎖し、カイザーライヒからの食糧および医薬品の輸出を即座に停止すること。そして、国内の全銀行へ命じ、ガルディニア神殿が抱える債権を一斉に買い取らせ、即時の一括返済を要求することです」
ヴァレリアは唇の端を吊り上げ、極上の毒を含んだ微笑みを二人へと投げかけた。
「食糧はなく、金はなく、街には疫病と瘴気が満ち、頼みの聖女はただの無能。……民衆の怒りの矛先はどこへ向かうかしら? 愚鈍な皇太子ユースティスと、娘を売り飛ばして肥え太ったアルトハイム公爵家ですわ。彼らは勝手に内側から腐り落ち、仲間割れを起こし、自らの手で自らの首を絞め上げていきます。――半年も待てば、彼らは自ら国境へ這いずり出てきて、涙を流して領土を差し出し、命乞いをしてきますわ」
静寂。
星見の間の広大な空間に、完璧なまでの静謐が降りていた。
一滴の血も流さず。
自軍の兵を一歩も危険に晒さず。
国家の構造的弱点だけを冷酷に突き、敵の自重によって巨大な帝国を自壊させる、美しすぎる国家解体のチェス譜。
「……信じられない」
ヒルデガルトの唇から、震えるような吐息が漏れた。
女軍師は眼鏡の位置を直すことすら忘れ、地図の上に描かれた光の相関図を貪るように見つめていた。
完璧だった。軍事学、経済学、地政学、そして人間の浅ましい心理の機微に至るまで、すべてが計算し尽くされている。自分がこれまで生涯をかけて練り上げてきたどの戦略よりも、冷酷で、無駄がなく、暴力的ですらある美しさに満ちていた。
「閣下……いえ、ヴァレリア様」
ヒルデガルトは胸元に手を当て、深く、心底からの敬意を込めて頭を垂れた。
「貴女のその頭脳……大陸を統べるにふさわしい、真の至宝でございます。我が智謀のすべてを、喜んで貴女の盤面のために捧げましょう」
冷徹無比を誇る女宰相が、初対面で完全に心酔した瞬間だった。
そして――。
「……ハ、ハハッ」
コンラートの喉から、低く、熱い笑いが漏れ出した。
男の琥珀色の双眸は、獲物を前にした飢えた狼のようにギラギラと輝き、歓喜に濡れていた。
「素晴らしい……! 完璧だ! 美貌だけでなく、その冷酷な頭脳まで、まさに俺の理想そのものだ!」
コンラートは円卓を大股で回り込み、ヴァレリアの眼前へと一歩詰め寄った。
男の放つ圧倒的な体熱と覇気が、ヴァレリアの白磁の肌を撫でる。
「気に入ったぞ、ヴァレリア。君の言う通りだ。我が帝国も、軍も、富も、すべて君の復讐のための玩具にして構わない。国境を封鎖し、経済で首を絞め上げ、あの愚者どもが自滅していく様を共に見届けよう」
コンラートは不敵に笑い、グッと顔をヴァレリアの耳元へと近づけた。その低く掠れた声音に、男としての剥き出しの独占欲が滲み出る。
「――その代わり、ガルディニアが滅び、新世界が成った暁には……君の隣の席は、俺がもらうぞ」
覇王の告白。世界の半分を支配する男からの、絶対の求愛。
だが――その言葉の最後の一音が空気に溶け切るよりも早く。
――ピキリッ。
星見の間の大気が、一瞬にして氷点下まで凍りついた。
ザシュッ!!
空間が裂け、影が爆ぜた。
コンラートの右の喉元、わずか一ミリメートルの虚空に――漆黒の超高熱を宿した黒銀の爪が突きつけられていた。触れただけで肉を炭化させる原初の黒炎が、パチパチと音を立てて男の皮膚の産毛を焦がす。
「――我が主に気安く触れるな、下等な人間が」
背後の闇からぬらりと現れたヴォルフラムの金色の双眸が、常人を一瞬で狂死させる殺戮の光を放ち、コンラートの頸動脈を睨みつけていた。
そして、同時に。
コンラートの左の首筋――頸椎の急所に向けて、影の中から音もなく伸びた銀の波刃ダガーの切っ先が、寸分の狂いもなく皮膚に触れていた。
「……殺すよ? 皇帝だろうが何だろうが、ヴァレリア様にその汚らわしい顔を近づけたら、耳を削ぎ落として心臓を抉り出す」
キリアンが死人のように冷たい碧眼を光らせ、無表情のままダガーの刃をわずかに食い込ませていた。一筋の紅い血が、コンラートの首筋をツーと伝い落ちる。
神話の魔王と、裏社会の頂点に立つ暗殺者。
二頭の怪物が放つ殺気が、皇帝の首元で交差していた。
一ミリでもコンラートが動けば、その首は黒炎で焼き切られると同時に、ダガーによって両断される。
ヒルデガルトが息を呑み、即座に腰の魔導銃に手をかけようとしたが、全身を縛り付けるようなヴォルフラムの威圧感に指一本動かすことができない。
だが、当のコンラートは――喉元に死を突きつけられながらも、微動だにしなかった。
首筋を流れる自らの血の温もりを感じながら、男は獰猛な笑みを崩さず、ヴァレリアの瞳だけを見つめ返している。
「……随分と、行儀の悪い護衛を飼っているようだな、ヴァレリア」
部屋の温度は完全に氷点下。
一触即発。世界の覇王と二大怪異による、ギャグすれすれの極限の修羅場。
だが。
その血生臭い対立の中心にいながら、ヴァレリア・フォン・アルトハイムは、眉一つ動かさなかった。
彼女はゆっくりと円卓の上の白磁のティーカップを持ち上げると、立ち上るダージリンの優雅な香りを静かに楽しんだ。
そして、男たちの殺気の嵐を完全に透明人間として扱いながら――上品に、紅茶を一口啜ったのである。
コトリ、とソーサーにカップが戻される澄んだ音が響いた。
「……ふふ」
ヴァレリアは艶やかに唇を綻ばせ、喉元を狙い合う男たちを見渡して、鈴を転がすように微笑んだ。
「ずいぶんと賑やかなことですわね。……ふふ、楽しい茶会になりそうだこと」
絶対の女帝のその一言で、星見の間の緊迫した空気が、ふわりと彼女の手のひらの上へと回収されていくのだった。




