第8話:メッキの奇跡と黒煙の火薬庫 〜熱狂の広場に咲く黒煙と、剥がれ落ちた聖女の仮面〜
正午を告げる大聖堂の鐘の音が、鉛色の重い空を震わせて響き渡った。
ガルディニア帝都ルテティアの中心、白亜の大聖堂前大広場。
普段であれば、純白の大理石が燦然と輝き、訪れる者たちの目を奪うはずのその場所は、今や異様な熱気と、それを押し包むドス黒い不穏さに満ち満ちていた。
広場を埋め尽くしたのは、数千、数万に膨れ上がった群衆である。
最前列の特別観覧席には、絹や毛皮を着飾った貴族や裕福な商人たちが立ち並び、扇子を揺らしながら品定めをするように前方を睨んでいる。その後方には、スラム街や下町から押し寄せた数千の一般市民が、押し合いへし合いしながら身を乗り出していた。
だが、集まった者たちの表情は、祝祭に沸く明るいものばかりではなかった。
誰もが鼻腔をくすぐる悪臭に、時折顔をしかめている。
地下水路の鉄格子や排水溝の隙間から、立ち上る陽炎のようにユラユラと揺らめく黒い靄。わずか三日前から都の全域で噴出し始めた『黒瘴気』である。
咳き込む者、ハンカチで口元を押さえる者、高熱に苦しむ家族を背負ってすがるように広場へやってきた者――群衆の胸にあるのは、新聖女への手放しの賛美だけではない。拭い去れない不安と、この耐え難い悪夢を一刻も早く消し去ってほしいという、悲鳴に近い渇望であった。
広場の中央には、この日のために突貫工事で設営された豪奢な特設壇――『白亜の祭壇』がそびえ立っていた。
雪のような純白の神聖石で組まれ、金箔の装飾が施されたその壇上に、まず姿を現したのは第一皇太子ユースティスであった。
白銀の軍服に豪奢なマントを羽織り、胸を反らせて歩み出る皇太子。
近衛騎士長ボリスが膝の激痛で倒れ伏しているため、左右を固めるのは代役の近衛兵たちだが、ユースティスの顔には一片の翳りもなかった。彼は広場を見渡し、尊大極まる笑みを浮かべて両手を広げた。
「ガルディニアの同胞たちよ! よくぞ集まった!」
ユースティスの声が、拡声の魔導具を通じて広場全体に響き渡る。
「今、帝都を覆っている不快な悪臭と霧……これこそが、数日前に処刑された大逆の魔女ヴァレリアが、死に際に仕掛けていった卑劣極まる呪詛の残滓である! あのドブネズミは、自らを育んだ祖国を呪い、道連れにしようと画策したのだ!」
広場から、ざわりと怒りと恐怖の混ざったどよめきが起きた。
ユースティスはその反応に満足げに頷き、壇上の奥を劇的な仕草で指し示した。
「だが、恐れることはない! 我が帝国には、神が遣わした真の奇跡――天上の光をその身に宿す、慈愛の聖女がおられる! 見よ、マリアベル・ローラン様の神聖なる御姿を! あの忌まわしき魔女の遺した呪いなど、我が聖女の放つ光の奇跡の前に、一瞬にして灰燼に帰すであろう!!」
ワァッ、と割れんばかりの歓声が上がった。
その熱狂の渦の中心へ、ゆっくりと、一人の少女が歩み出てくる。
新聖女マリアベル。
身に纏うのは、最高級の白絹に幾重ものレースを重ね、陽光を反射して眩く輝く黄金の宝石を散りばめた特注の儀式用ドレス。豊かに波打つ金髪を風になびかせ、頭上には純銀のティアラを載せている。
その両手には、大聖堂の宝物庫から持ち出された国宝級の聖杖が握られていた。杖の頂には、鶏卵ほどもある極大の光魔晶石が据えられ、淡い燐光を撒き散らしている。
「皆様、ご安心くださいませ」
マリアベルは可憐に小首を傾げ、胸の前で聖杖を抱きしめるようにして、聖母の如き微笑みを群衆へと向けた。
「哀れな魔女が遺した悪意の霧に、心を痛める必要はございません。わたくしの放つ神の光が、この都を満たす穢れをすべて焼き払い、皆様に永遠の安寧をお届けいたしますわ!」
鈴を転がすような愛らしい声。
最前列の貴族たちが熱烈な拍手を送り、後方の平民たちの中には、涙を流して膝をつき、祈りを捧げる者すら現れた。
マリアベルはその光景を壇上から見下ろし、内心で下卑た嘲笑を噛み殺していた。
(ふふっ、見なさいよ、この愚民ども! みんな私の顔と愛嬌に夢中じゃない! ヴァレリアお姉様、貴女が地下牢で十年間ドブ水を啜って守ってきた国は、今や完全に私のものよ! 貴女の遺したつまらない呪いなんて、私の光で派手に吹き飛ばして、私の戴冠式の最高の花火にしてあげるわ!)
傲慢と自惚れ、そして底知れぬ自己顕示欲。
魔導の基礎理論すら学ばず、愛嬌と初歩的な治癒の光だけで世渡りをしてきた少女は、自らの足元に横たわる「物理的現実」を、何一つ理解していなかった。
――彼女の立つ祭壇の真下。
大聖堂前大広場の地下には、帝都全域から集まる巨大な地下水路の幹線が網の目のように交差していた。
そして今、その暗黒の空洞を満たしていたのは、十年間ヴァレリアが濾過し続けていた超高濃度の『黒瘴気』である。
霊的な毒素であると同時に、それは大地の底で数万年の圧力を受けて生成された、極めて揮発性の高い「可燃性魔力ガス」そのものだった。
通気孔から漏れ出る黒い靄は、祭壇の周囲の大気に滞留し、今や広場全体が、目に見えない巨大な『火薬庫』と化していたのである。
常識ある魔導士であれば、この場で火気や強烈な励起魔法を用いることなど、自殺行為以外の何物でもないと即座に判断したはずだった。
だが、壇上のマリアベルは、ただ見栄えの良い「眩い光」を放つことしか頭にない。
「光よ! 悪しき穢れを祓い給え――!!」
マリアベルが高らかに聖杖を天へと掲げた。
彼女が練り上げたのは、何の秩序もない、ただ魔力を乱暴に過負荷させて放つ無差別な熱光線――視覚的な派手さだけを追求した、張り子の奇跡。
キィィィィィン……ッ!
聖杖の先端の光魔晶石が、目を焼くような黄金の閃光を放った。
太陽が地上に降りてきたかのような眩い輝きが広場を照らし出し、群衆からは一斉に感嘆の歓声が上がった。
「おおっ!」「光だ! 本物の聖女様の光だ!」
――だが。
歓声が上がったのは、ほんのコンマ数秒の間だけだった。
マリアベルが放った無秩序な熱光線の粒子が、祭壇の足元の通気孔――そこから吹き上がっていた高密度の黒瘴気の核へと、真っ直ぐに接触した瞬間。
チチ……ッ。
大気の中で、何かが小さく爆ぜる乾いた音が響いた。
次の瞬間。
――ドォォォォォォォォォォンッ!!!!
天地を揺るがす轟音が、帝都の空を叩き割った。
浄化ではない。相殺でもない。
無防備な熱エネルギーと、極限まで濃縮された可燃性魔力ガスが触れ合ったことによる――凄まじい規模の化学連鎖爆発。
ズギャアアアアンッ!!
祭壇の真下の地下水路が連鎖的に破裂し、石畳を突き破って、黒と紫の爆煙を伴う火柱が噴き上がった。
純白の神聖石で組まれていた白亜の祭壇は、まるで薄い陶器のように一瞬で粉微塵に吹き飛んだ。何千もの鋭利な岩の破片が、散弾銃の弾丸となって全方位へと撒き散らされる。
「ぎゃああああああああっ!?」
「火だ! 爆発だぁぁぁっ!!」
爆風の直撃を受けたのは、最前列で着飾っていた貴族たち、そして熱病の家族を連れて祈っていた無力な市民たちだった。
熱波が大気を焼き尽くし、貴族たちの豪奢な毛皮や絹のドレスが一瞬にして黒く燃え上がる。吹き飛ばされた石片が肉を裂き、骨を砕き、最前列の数十名が血飛沫を上げて石畳へと叩きつけられた。
広場全体を覆い尽くしたのは、息を吸うことすら叶わぬドス黒い毒煙と、肉の焦げる異臭。
祝祭の広場は、わずか一秒で、血と悲鳴が渦巻く地獄絵図へと変貌を遂げた。
「熱い! 顔が、私の顔がぁぁぁっ!」
「助けてくれ! 足が、足が動かない!」
「聖女様! 聖女様、お助けを――!」
吹き飛ばされ、血塗れになって倒れ伏す市民たちが、這いつくばりながら壇上だった場所へと手を伸ばす。
奇跡の聖女なら、自分たちを癒やしてくれるはずだ。この炎を消し去り、傷を塞いでくれるはずだ――そう信じて。
だが。
吹き飛んだ祭壇の残骸の影から現れたマリアベルの姿に、誰もが言葉を失った。
「ひぃっ、ひいいいいっ……!?」
マリアベルは、瓦礫の山の上に無様に尻餅をついていた。
自慢の金髪は半分がチリチリに焼け焦げて異臭を放ち、純白のドレスは真っ黒な煤と泥に汚れ、裾は炎に舐められて無残に破け散っている。頭上のティアラは歪んで地面に転がり、手にした聖杖は魔晶石にヒビが入って煙を吹いていた。
「な、何なのよこれ!? 熱い、熱いじゃないの! 私の肌が! 私のドレスがぁぁっ!!」
マリアベルの口から飛び出したのは、慈愛の言葉などでは断じてなかった。
爪を立てて己の煤けた頬を撫で回し、金切り声を上げて喚き散らす、ただの醜悪な小娘のヒステリー。
足元で倒れ、血を流して助けを求めている市民の伸ばした手が、マリアベルの焦げた靴に触れようとした。
「聖女様……どうか、娘に治癒の御手を……」
「触るなッ! 薄汚い平民が、私の足に触るんじゃないわよ!!」
マリアベルは顔を激しく歪めると、重傷を負った市民の手を乱暴に蹴り飛ばした。
そして、皇太子の執務室から駆けつけてきた私設護衛兵たちの腕にすがりつき、泣き叫んだ。
「早く! 早く私を宮殿へ連れて帰りなさいよ! 顔の手入れをしなきゃいけないの! こんなドブ臭い場所に一秒だっていられるもんですか!!」
怪我人を一人として介抱することもなく。
祈りを捧げることもなく。
マリアベルは護衛の兵士たちに担ぎ上げられるようにして、後方の安全な馬車目掛けて我先にと逃走していった。
壇上にいたユースティスもまた、爆風で軍服を汚され、鼻血を垂らしながら、近衛兵たちに守られて無様に広場から逃げ去っていった。
後に残されたのは、濛々と立ち込める黒煙と、数百人の負傷者。
そして――凍りつくような沈黙だった。
「…………逃げた……?」
誰かが、掠れた声で呟いた。
額から血を流し、煤にまみれた中年の商人が、呆然と、聖女が走り去った方角を見つめていた。
「聖女様が……俺たちを見捨てて、逃げただと……?」
「嘘だろ……怪我人に触れもしなかったぞ……」
「平民を蹴り飛ばした……あいつ、助けを求めた手を蹴ったぞ……!」
静寂は、瞬く間に怒りと疑惑のざわめきへと変わっていった。
広場のあちこちから、抑えきれない声が噴き出し始める。
「そもそも、なんだあの爆発は!? 浄化の光なんかじゃなかったぞ!」
「あんなの、ただの火薬をぶちまけたのと同じじゃないか!」
「待て……おかしいぞ。前の聖女様――ヴァレリア様がいらっしゃった十年間、こんな爆発なんて一度でもあったか!?」
その名が口にされた瞬間、広場全体がハッと息を呑んだ。
ヴァレリア。
薄暗い地下牢に閉じ込められ、魔女として深淵へ落とされた、かつての身代わりの聖女。
彼女はマリアベルのように大衆の前で愛嬌を振りまくことも、華美に着飾ることもなかった。
だが――彼女がいた十年間、帝都の噴水がドブ水に濁ったことなど一度もなかった。
薔薇が枯れ果てることも、地下水路から毒ガスが噴き出すことも、ましてや大聖堂の前で爆発が起きるなどという惨劇は、ただのの一度たりとも起きていなかったのだ。
「ヴァレリア様は……本当に魔女だったのか……?」
「俺たちをずっと守っていたのは、本当は……」
民衆の瞳に、拭い去れぬ疑念の火が灯る。
メッキの奇跡は剥がれ落ち、偽聖女の無能さが白日の下に晒された瞬間であった。
――その頃。
護衛に守られて宮殿の奥深くへと逃げ帰ったマリアベルは、自室の豪奢な寝室に閉じこもっていた。
ドレッサーの巨大な鏡の前に立ち尽くす彼女の顔は、怒りと恐怖で青ざめ、引き攣っていた。
鏡に映るのは、煤まみれで爛れた頬、半分がチリチリに縮れた自慢の金髪。
可憐な聖女の面影など微塵もない、無残な怪物の姿。
「あぎぃぃぃっ……!!」
マリアベルはドレッサーの上に並んでいた最高級の香水瓶や化粧水の手鏡を、片っ端から床へ叩きつけて粉々に破壊した。
ガシャン、バリンと甲高い破裂音が部屋中に響き渡る。
「嘘よ、嘘よ嘘よ嘘よ!! どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないのよ!? 私は神に選ばれた本物の聖女なのに! あの下品な愚民どもが、私の顔を汚したのよ!!」
マリアベルはガリガリと、親指の爪を血が滲むほど強く噛み締めた。
血走った青い瞳に浮かび上がったのは、地下牢で自分を冷ややかに見下ろしていた、あの黒髪の女の冷酷な微笑みだった。
「あの女よ……ッ! ヴァレリア・フォン・アルトハイム!! あの死に損ないのドブネズミが……死んでなお、私を邪魔しているのよぉぉぉっ!!」
狂乱する偽聖女の絶叫が、黒く濁りゆく帝都の空へと虚しく響き渡っていた。




