第7話:崩れゆく帝都の結界 〜消えた人柱と、逆流する地下水路の悪夢〜
大逆の魔女ヴァレリアが『断絶の深淵』へと蹴り落とされ、新たな光の聖女マリアベルが歓呼のなかで迎えられてから、わずか三日が経過した朝のことである。
千年の歴史を誇るガルディニア帝国の帝都ルテティアは、祝祭の熱狂から覚める間もなく、得体の知れぬ違和感と不快な湿気に覆われ始めていた。
始まりは、微小な異常だった。
日の出と共に貴族街の広場に吹き上がるはずの、名物である白亜の大噴水。
澄み渡る清流を天高く噴き上げるはずの竜の彫刻の口から、突如としてゴボリ、ゴボリと不気味な泡が吹き出した。
次の瞬間、周囲に撒き散らされたのは、清涼な水飛沫などでは断じてなかった。
鼻腔を突く強烈な硫黄臭と、下水が腐敗したかのようなドブ色の泥水。
石畳を這うように広がったその濁水は、大理石の彫刻を侵食して黒ずませ、通りかかった貴族の馬車馬が狂乱していななき、御者が慌てて手綱を引く。
「な、何事だ!? この悪臭は一体どこから湧いた!?」
「噴水の魔導ポンプが故障したのか!? 早く技師を呼べ!」
貴族街の従僕たちが騒ぎ立てる中、異変は街の全域へと、まるで血管を侵食する毒のように急速に連鎖していった。
アルトハイム公爵邸をはじめとする各大貴族の屋敷――美しく手入れされていた広大な温室の薔薇が、一夜にして全滅したのだ。
帝国の繁栄の象徴と讃えられた大輪の紅薔薇、品種改良を重ねた高貴な青薔薇。それらが朝露を浴びることなく、花弁の端からドス黒く変色し、まるで灰のように崩れて土へと溶け落ちていく。
土壌からはシューシューと微細な音を立てて、紫がかった薄い煙が立ち上っていた。庭師が素手で触れた瞬間、激しい痛みに悲鳴を上げて手を引っ込める。指先はまるで強酸に浸けられたかのように赤くただれ、皮膚が爛れ落ちていた。
だが、真の地獄が口を開けたのは、風下にあたる帝都南部の貧民街だった。
地下水路の通気孔から、目に見えるほどの濃度を持った黒い気体――『黒瘴気』が、音を立てて噴き上がり始めたのである。
これまで十年間、帝都の地下水路にこれほどの瘴気が滞留したことなど、一度たりとも存在しなかった。
黒いガスを吸い込んだ路地裏の浮浪者や日雇い労働者たちが、喉を掻きむしりながら石畳の上を転がり回る。
「カハッ、ゲホッ……! 息が、息ができない……ッ!」
「目が、目が焼けるように痛い! 助けてくれ、誰か……ッ!」
激しい目眩、視界の暗転、そして四十度を超える原因不明の高熱。
貧民街の粗末な診療所には、数時間のうちに百人を超える重篤な患者が雪崩れ込み、医師たちはパニックに陥った。吐瀉物と血痰が床を汚し、阿鼻叫喚の呻き声が路地裏を満たす。
市民たちはまだ、真実を知らなかった。
彼らは神罰を恐れ、あるいは隣国からの毒物テロを疑って怯えていた。
だが――この現象は、いかなるオカルト的な呪いでも、神の気まぐれによる天罰でもなかった。
極めて物理的で、論理的な必然。
下水処理場の巨大な濾過フィルターを、無知な子供が「見た目が薄汚れているから」という理由だけで乱暴に引き抜き、ゴミ箱へ放り捨てたようなものだった。
ガルディニア帝都ルテティアは、大陸最大級の魔導炉の心臓部に位置している。
魔導炉が都市全体に光と熱を供給する代償として、地下の大地脈からは絶え間なく膨大な魔力残滓――致死性の霊的ヘドロである黒瘴気が排出され続ける。
その毒素の総量は、日に数千トン。
本来であれば、帝都などとっくの昔に人が住めぬ死の都と化していなければ計算が合わないはずだった。
なぜ、この十年間、帝都は繁栄を謳歌できていたのか。
なぜ、人々は何食わぬ顔で薔薇を愛で、清潔な水を飲み、平穏な眠りにつくことができていたのか。
――答えは、ただ一つ。
大聖堂の地下最深部『封呪の石牢』に繋がれていた、ヴァレリア・フォン・アルトハイムというたった一人の生贄が、そのすべての毒素をその身一つに集約し、無償で濾過し、相殺し続けていたからである。
ヴァレリアという絶対の防壁を、自らの手で深淵へと投げ捨てたガルディニア帝国。
蓋を失った地下水路の圧力は限界を迎え、十年間せき止められていた国家規模の穢れが、水圧ならぬ『呪圧』となって、地表のあらゆる隙間から逆流し始めたのだ。
「――無能共がッ! 貴様ら全員、揃いも揃って首を刎ねられたいのか!!」
ガルディニア宮殿、豪奢を極めた皇太子の執務室。
第一皇太子ユースティスの怒声が、天井のシャンデリアをビリビリと震わせていた。
執務机の上には、帝都各区の行政長官や近衛兵団から届いた緊急報告書が、雪崩のように山積みになっている。
噴水の汚染、農作物の立ち枯れ、スラム街での暴動寸前の騒乱、そして貴族たちからの相次ぐ苦情と詰問。
ユースティスは顔を真っ赤に紅潮させ、手近にあった金のインク壺を大理石の床へ叩きつけた。
バシャリ、と黒いインクが絨毯を汚し、平伏していた近衛副官と宮廷魔導士たちがビクリと肩を跳ね上がらせる。
「なぜ街に瘴気が満ちているのだと聞いている! あの大逆の魔女ヴァレリアを深淵へ落とし、帝国の穢れはすべて祓われたはずではないのか!? なぜ都の真ん中からドブ水が噴き出す!? 説明しろ、貴様ら!」
「は、ははっ……! そ、それが、地下魔導炉の圧力バルブに異常は見られず、原因の特定には至っておりませんで……」
老齢の宮廷魔導士が、額を床に擦り付けながら冷汗を垂らす。
「何者かが地下水路に毒物を投棄した可能性を含め、調査を進めてはおりますが、検出される魔力波形があまりにも濃縮されており、まるで都全体の地脈が腐敗しているかのような……」
「戯言を抜かすな!」
ユースティスは軍靴の踵で机を蹴り上げた。
「我がガルディニアは、神に選ばれし光の帝国だ! 地脈が腐るなどという不吉な妄言を口にするな! ……ええい、どいつもこいつも役に立たんゴミ屑ばかりだ! ボリスはどうした!? あの役立たずの大男は、なぜここにいない!」
「ぼ、ボリス騎士長は……」
副官が震える声で答える。
「処刑の儀から戻られて以降、原因不明の右膝の激痛を訴えられ、自室から一歩も動けぬ状態でございまして……。軍医が診察いたしましたが、骨にも関節にも外傷は見当たらず、しかし本人は『膝が万力で砕かれている』と叫び続けており……」
「忌々しい! どいつもこいつも肝心な時に仮病を使いおって!」
ユースティスは乱暴に髪を掻きむしった。
苛立ちと、拭い去れない焦燥。
自分がヴァレリアを処刑したことは、完璧な英断であったはずなのだ。
父である皇帝が病床に伏せっている今、自らが国を救った英雄として民衆から称えられ、華々しく即位するための完璧な筋書き。
それなのに、現実はどうだ。
魔女を殺してからわずか三日で、帝都は悪臭に包まれ、民衆の歓声は不穏なざわめきへと変わりつつある。このままでは、貴族院から自らの指導力を疑われかねない。
その時だった。
「――まあ、ユースティス様。そんなに怖いお顔をなさらないで?」
甘ったるく、鈴を転がすような愛らしい声が、重苦しい執務室の空気を切り裂いて響いた。
重厚な扉が開き、ふわりと甘い薔薇の香水の匂いが室内に流れ込んでくる。
姿を現したのは、豪奢な純白のシルクに金糸の刺繍を散りばめたドレスを纏った少女――新聖女、マリアベル・ローラン男爵令嬢であった。
手入れの行き届いた黄金の巻き髪を揺らし、愛らしい青い瞳には一片の不安の色すら浮かべていない。
胸元には、大粒の魔晶石が埋め込まれた豪奢な聖杖を抱えている。
「マリアベル……!」
ユースティスの険しい表情が、一瞬にして安堵の色へと雪崩れ落ちた。
彼はすがるようにマリアベルへと歩み寄り、その華奢な手を取る。
「来てくれたのか! 外の騒ぎは聞いているだろう? 街のあちこちから不気味な黒煙が噴き出し、愚民どもが騒ぎ立てているのだ。一体何が起きているというのだ?」
マリアベルは、困った子供を見るような無邪気な笑みを浮かべ、ユースティスの胸元にすり寄った。
「ふふ、ご安心くださいませ、ユースティス様。わたくしには、すべてお見通しでございますわ」
「な……本当か!?」
「ええ、もちろんです」
マリアベルは胸を張り、大袈裟な仕草で首を振ってみせた。
「あれは、あの薄汚い魔女――ヴァレリアお姉様が、死に際に遺した最後のあがきに過ぎませんわ」
「ヴァレリアの……あがきだと?」
「ええ。あの方は十年間も地下に引きこもり、邪悪な呪術を研究していらしたのでしょう? 自分が処刑されることを悟り、帝都の地下水路に呪いの魔導具を隠しておいたに決まっておりますわ。自分を捨てたこの国を道連れにしようだなんて……本当におぞましく、浅ましい女ですこと」
マリアベルの言葉は、何の根拠もない出鱈目だった。
魔導の基礎理論すらまともに修めていない彼女には、地下水路から噴き出す黒瘴気の正体など、これっぽっちも理解できていなかった。
だが、彼女にとっては事実などどうでもよかったのだ。
都合の悪い異常事態はすべて「死んだ魔女のせい」にしてしまえばいい。そして、それを自分が解決してみせれば、自らの名声はさらに高まり、皇太子の寵愛も不動のものとなる――その浅薄な計算だけが、彼女の頭を満たしていた。
そして何より、愚鈍なユースティスにとって、その説明は喉から手が出るほど欲しかった「都合の良い真実」だった。
「やはりそうか……! あのドブネズミめ、死んでなお我が国を害そうというのか! どこまでも腐りきった女だ!」
ユースティスは激しく頷き、怒りをヴァレリアへの憎悪へとすり替えた。
「だがマリアベル、あの黒いガスはどうするのだ? スラム街では病人が続出し、貴族街にまで臭気が届いているのだぞ!」
「ふふっ、そんなもの、恐れるに足りませんわ」
マリアベルは聖杖を掲げ、自信満々に微笑んだ。
杖の先端に埋め込まれた魔晶石から、ポウッと淡い金色の光が放たれ、執務室を照らす。
「わたくしの『光の奇跡』をお忘れですか? 魔女の遺した薄汚い呪いなど、神に愛されたわたくしの神聖魔法にかかれば、朝露のように一瞬で焼き払ってごらんにいれますわ!」
マリアベルは無邪気そのものの笑みで、自らの破滅を決定づける提案を口にした。
「ユースティス様。大聖堂前の大広場に、帝都中の貴族と民衆をお集めになってはいかがかしら? 皆様の目の前で、わたくしが大々的な『浄化の儀式』を執り行ってみせますわ。魔女の呪いが我が光によって消滅する様を市民に見せつければ、殿下への信頼は確固たるものとなり、わたくしの聖女戴冠を祝う最高の余興になりますでしょう?」
己の実力を過信し、大衆の熱狂に酔いしれた偽聖女の、身の程知らずな提案。
高濃度の可燃性魔力を帯びた巨大なガス溜まりの上に、笑顔で松明を投げ込もうとするに等しい狂気の沙汰であった。
だが、焦燥に駆られていたユースティスの目には、それが自らの窮地を一発で逆転させる最高の妙案に見えてしまった。
「……素晴らしい! さすがは我が愛しき聖女マリアベルだ!」
ユースティスは歓喜に顔を輝かせ、マリアベルの腰を引き寄せて抱きしめた。
「そうだ、民衆の不安を払拭し、我が威厳を誇示するにはそれ以上の舞台はない! すぐに大聖堂前の広場を押さえさせよう!」
ユースティスは執務室の扉を開け放ち、廊下に控えていた近衛兵たちに向けて高らかに命令を下した。
「全軍に通達! 明日の正午、大聖堂前大広場において、新聖女マリアベル様による『国家浄化の大儀式』を挙行する! 帝都の全貴族、全市民に通達を出し、一人残らず広場へ集めるのだ! 真なる光の奇跡の前に、平伏させてやれ!!」
『ははっ!!』
伝令たちが蜘蛛の子を散らすように駆け出していく。
宮殿の窓から見える帝都の空は、立ち上る黒瘴気によって、どこか赤黒く濁り始めていた。
自らの手で破滅の導火線に火をつけたことにも気づかず、ユースティスとマリアベルは手を取り合い、勝ち誇った笑みを交わし合っていた。
――そして。
帝都を遠く離れたカイザーライヒへの街道の上。
豪華な馬車の中で、ヴァレリアは手にしたカップを傾け、冷ややかな紫紺の瞳を祖国の空へと向けていた。
「……そろそろ、最初の爆ぜる音が聞こえる頃かしらね」
愚者たちが自ら築き上げる断頭台の階段を、彼女は特等席から、静かに見つめていた。




