第6話:血塗れの忠犬 〜狂気の刃と、冷徹なる手綱〜
地上へと抜ける断絶の亀裂を突き破った瞬間、冷涼な風がヴァレリアの頬を撫でた。
黒龍ヴォルフラムの巨大な翼がはためき、突風が崖上の砂塵を巻き上げる。黒銀の鱗が朝の光を弾いてきらめき、巨躯は音もなく崖の平坦な岩場へと着地した。
主が降り立つと同時に、黒龍の巨躯は急速に輪郭をぼやけさせ、黒い霧となって収縮していく。再び黒銀の長髪を揺らす冷艶な青年の姿へと戻ったヴォルフラムは、恭しく膝をつき、ヴァレリアの漆黒のドレスの裾に触れぬよう控えた。
だが――数刻前にヴァレリアが蹴り落とされたその場所は、異様な空気に包まれていた。
「……随分と、生臭い匂いが漂っているわね」
ヴァレリアは紫紺の瞳を細め、眉をピクリとも動かさずに目の前の光景を見据えた。
処刑場に設営されていたはずの華やかな白絹の観覧席や黄金の天幕は、無残に引き裂かれ、踏み躙られていた。群衆や皇太子ユースティスたちの姿はとうにない。魔女を穴に突き落とした祝祭に満足し、とっくに帝都の宮殿へと引き揚げた後だった。
その代わりに残されていたのは――おびただしい数の肉塊と、乾ききらない血潮の海だった。
転がっているのは、帝国の精鋭たる近衛騎士たちの死体。
それも、ただ殺されたのではない。
鋼鉄の喉輪ごと喉笛を綺麗に掻っ切られた者、両目と両耳を鋭利な刃で抉り取られた者、手足の腱を細かく刻まれて絶命した者――常軌を逸した技術と、底知れぬ憎悪によって『解体』された十数名の死骸が、血溜まりの中に無造作に転がっていた。
その血の海の真ん中に、一人の影が佇んでいた。
小柄な体躯を包むのは、返り血で赤黒く染まった夜啼鳥の羽根色のマント。
風に揺れる銀糸の髪は血飛沫で斑らに汚れ、両手には逆手に握られた禍々しい波刃のダガーが二本、切っ先から絶え間なく赤い雫を滴らせている。
少年――いや、まだ青年の域にすら達していない、華奢な面影を残す少年だった。
だが、その陶器のように整った白い顔輪郭の中央で光る碧眼は、完全に正気を失っていた。瞳孔は針のように収縮し、口元からは泡混じりの荒い呼吸が漏れ、全身を激しい怒りと絶望の震えが支配している。
裏社会を牛耳る大陸最大の暗殺組織『影の旅団』の若き頭領――キリアン。
皇帝の影すら踏ませぬ絶対の暗殺者として裏世界を恐怖で支配する怪物が、そこにはただの、世界に絶望して壊れかけた一匹の狂犬として立ち尽くしていた。
「あいつら……あいつら……ッ! ヴァレリア様を……僕の神様を……ッ!!」
少年の喉から、獣のような嗚咽が漏れる。
彼は足元に転がる近衛兵の死体の胸ぐらを掴み上げ、すでに絶命している男の顔面目掛けて狂乱のままダガーを突き立てようと腕を振り上げた。
「許さない……許さない許さない許さないッ! 帝都の人間を全員殺す! 皇太子の手足を一本ずつ切り落として豚の餌にして、あの偽聖女の舌を引き抜いて目玉を――ッ!」
「キリアン」
血飛沫と狂気の嵐を切り裂いて、澄み渡る氷のように冷淡な声が響いた。
それは大きくもなければ、威圧的でもない。
だが、その声が鼓膜を震わせた瞬間――少年の全身が、雷に打たれたかのように硬直した。
振り上げたダガーが、空中でピタリと止まる。
少年は恐る恐る、幻聴を恐れる子供のように、ぎこちない動作で首を後ろへと巡らせた。
血溜まりの縁、朝露に濡れる断崖の岩場に、彼女は立っていた。
泥に塗れていたはずの襤褸切れは消え失せ、夜を編み上げた漆黒と黄金のドレスを纏い、傷一つない白磁の肌と、星屑を宿した夜空のような黒髪を輝かせた、息を呑むほどに美しいヴァレリアの姿。
「……あ」
少年の唇から、言葉にならない掠れた息が零れた。
碧眼が極限まで見開かれ、握りしめられていた二本のダガーが、チャリン、と甲高い音を立てて血溜まりの中へ滑り落ちる。
「あ……あぁ……っ」
キリアンの目から、大粒の涙が溢れ出した。
それは血と涙が混ざり合い、少年の白い頬を紅く汚して流れ落ちる。
幻ではない。
あの時――十年前、彼がまだ帝都の吹き溜まりのようなスラム街で、飢えと寒さに震え、ゴミ溜めの中で行き倒れていたあの日。
誰一人として汚らわしい孤児に目を向けず、ただ死を待つだけだった少年の前に、冷たい雨の降る中、一人で足を止めてくれた少女がいた。
『死にたいのなら止めませんけれど。……生きる気があるのなら、これを飲みなさい』
地下牢へ送られる直前、アルトハイム公爵家の馬車から降り立ったヴァレリアが、無言で差し出してくれた革袋の水と、一片の硬い黒パン。
情けをかけるような甘い言葉など一つもなかった。彼女の紫紺の瞳は当時から冷徹で、哀れみの色すら浮かんでいなかった。
だが、その冷たさこそが、欺瞞に満ちた世界の中でキリアンにとって唯一信じるに値する「本物の光」だったのだ。
あのパンの味と、少年の頭に触れた指先の冷たい温もりだけを糧にして、彼は裏社会の泥水を啜り、何百人もの喉を掻っ切って暗殺ギルドの頂点へと這い上がった。すべては、地下牢に囚われたヴァレリアをいつか自分の手で救い出す、その日のためだけに。
それなのに――処刑の報せを聞いて駆けつけた時、すでに崖の下には何もなく、残っていたのは皇太子たちの嘲笑と、ヴァレリアが突き落とされたという絶望の事実だけだった。
「ヴァレリア様……! ヴァレリア様ぁぁぁっ!!」
キリアンは膝から崩れ落ち、泥と血を全身に浴びながら、這うようにしてヴァレリアの足元へと駆け寄った。
そして、震える両腕でヴァレリアの漆黒のドレスの裾を掻き抱き、その足元に額を何度も何度も叩きつける。
「ああああっ、生きておられた……! よかった、本当によかった……! 僕が遅かったせいで、貴女にこんな……! ごめんなさい、ごめんなさい……ッ!」
少年の泣き叫ぶ声は、路地裏で主を失いかけた仔犬の鳴き声そのものだった。
だが、彼がヴァレリアの膝にすがりつき、顔を上げた瞬間にその碧眼に宿ったのは、常軌を逸した狂気と殺戮の渇望だった。
「ヴァレリア様、今すぐあいつらの首を全員分狩ってきます! あの皇太子の生皮を足の先から綺麗に剥いで、貴女の寝室の絨毯に加工させてください! あの偽聖女の四肢を切り落として、貴女の足置きのクッションに縫い合わせます! あの公爵家の豚どもも、一族全員の喉を裂いて門扉に吊るしてきますから……ッ! だから、僕を褒めてください……僕を置いていかないでください……!」
愛と忠誠が極限まで歪み、純粋な殺意へと昇華した狂気の言葉。
キリアンにとっては、それが世界で最も誠実な「愛の誓い」だった。
だが――その言葉の途中で、空気が凍りついた。
――ゴォッ。
低く、地鳴りのような殺気と共に、漆黒の炎が一筋、キリアンの喉元かすれすれを薙ぎ払った。
焼き切られた銀髪が数本、灰となって宙に散る。
「主の御前に侍るには、いささか血生臭すぎる羽虫だな」
ヴァレリアの背後から歩み出てきたヴォルフラムが、金色の双眸に冷酷な嘲笑を浮かべて見下ろしていた。
人外の魔王が放つ絶対的な威圧感が、処刑場の大気を鉛のように重く押し潰す。
「我が主に気安く触れるな、人間の小僧。貴様のような汚らわしい野良犬の分際で、その御髪を曇らせる気か? ……我が主、目障りな羽虫でございます。今すぐ黒炎で炭化させてよろしいでしょうか?」
ヴォルフラムの手のひらで、空間を歪めるほどの黒炎がパチパチと音を立てる。
対するキリアンも、瞬時に涙を引かせ、床のダガーを指先一本で弾き上げて手元に収めた。
少年の碧眼から感情が完全に消え去り、暗殺者特有の無機質な殺気が立ち昇る。
「……誰だ、その男。ヴァレリア様の隣に立っていいのは僕だけだ。……目障りなのはお前だよ。心臓を三十枚に薄切りにして、カラスの餌にしてやる」
神話の魔王と、裏社会の頂点に立つ暗殺者。
二人の怪物が放つ殺気が正面から衝突し、周囲の瓦礫がビリビリと激しく振動を始めた。一触即発。コンマ一秒後には、この断崖絶壁が跡形もなく消し飛ぶほどの死闘が幕を開けようとしていた。
だが。
「――騒がしいわね」
ヴァレリアが、紫紺の瞳をスッと細め、二人を一瞥した。
ただそれだけだった。
大声を出すわけでもなく、魔力を叩きつけるわけでもない。
ただ、絶対の主権者が、じゃれ合う飼い犬たちを冷ややかに見下ろすような、氷の眼差し。
ピシリ、と。
その視線が二人を射抜いた瞬間――。
「ッ!?」
「っ……!」
ヴォルフラムの手の黒炎が一瞬で掻き消え、キリアンのダガーがピタリと動きを止めた。
先ほどまで大地を揺るがす殺気を放ち合っていた二頭の猛獣が、示し合わせたかのように同時に背筋をピンと伸ばし、ヴァレリアの前で寸分の隙もなく直立不動の姿勢を取ったのである。
「あ、あの、我が主……我はただ、貴女の尊厳を汚す不届き者を排除しようと……」
「ヴァ、ヴァレリア様……僕、大人しくします、怒らないで……っ」
冷や汗を流しながら視線を泳がせる魔王と、捨て犬のように耳を垂らして震える暗殺者。
先ほどの神話級の緊迫感が嘘のように、二人はヴァレリアの顔色を窺って縮こまっていた。
ヴァレリアは小さく息を吐き、足元の泥汚れ一つないハイヒールを見つめる。
「手柄を焦る必要はないわ、キリアン。お前のその切れ味の鋭い刃は……もっと美しく、劇的な場面で使ってもらうから」
「は、はいっ……! 仰せのままに、ヴァレリア様!」
キリアンは頬を紅潮させ、恍惚とした笑みを浮かべて深く頭を下げた。
主の手のひらの上で飼い慣らされることこそが、彼にとってこの世で最高の幸福だった。
「それで、キリアン。お前を呼び寄せたのは他でもないわ。……頼んでおいたものは、揃っているかしら?」
「もちろんです、我が主」
キリアンは恭しく懐に手を入れると、血に汚れていない内ポケットから、油紙に包まれた一巻の羊皮紙を取り出した。
それは、帝国の裏社会と周辺諸国に張り巡らされた暗殺ギルドの情報網が総力を挙げて編纂した、大陸全土の最新軍事勢力図と、各国の情勢を記した極秘資料であった。
「ガルディニア国内の全貴族の資産状況、兵力配置、そして周辺諸国の動き……すべてここに記してあります」
ヴァレリアは羊皮紙を受け取り、優雅に紐を解いて広げた。
そこに描かれていたのは、大陸中央に位置するガルディニア帝国と、その北西に広がる広大な軍事覇権国家――『カイザーライヒ帝国』の国境線。
「ガルディニアの無能共は、貴女という絶対の防壁を失ったことにまだ気づいていません」
キリアンが冷徹な情報屋の顔に戻り、淡々と解説する。
「ですが、国境を接するカイザーライヒは違います。若き覇王コンラート皇帝は、先代を毒殺して帝位を簒奪した冷酷無比な合理主義者。すでに国境地帯に魔力観測部隊を増派し、ガルディニアの異変を嗅ぎつけようとしています」
「コンラート……皇帝」
ヴァレリアは、羊皮紙に記されたその名に指先を滑らせた。
大陸最強の軍事大国を統べる若き覇王。
情に流されず、力と利益のみを信奉する冷徹な支配者。
「ふふ……いいわね。実に話が早そうだわ」
ヴァレリアの唇が、妖艶な弧を描いた。
彼女は羊皮紙を巻き戻し、キリアンへと手渡す。
「自ら剣を抜いてガルディニアを滅ぼすなど、何の娯楽にもならないわ。……まずは、私の価値を正しく理解できる賢王の元へ向かいましょう。あの傲慢な皇帝に、極上の取引を持ちかけて差し上げるわ」
「御意に、我が主」
「我が神の歩まれる道、我らがお供いたします」
二人の怪物が、一斉に平伏する。
朝日に照らされた断絶の崖の上。
世界を破滅させる刃と炎を手綱で繋ぎ止めた女帝は、次なる舞台――覇権帝国カイザーライヒの空を見据え、優雅に歩み出した。




