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第5話:怪物の首輪 〜特等席の観客と、忠実なる漆黒の龍〜

崩落した主神殿の回廊に、粉塵が静かに舞い落ちていた。

数千度の黒炎に焼かれた岩盤は赤熱した輝きを失い、冷たい夜気のような静寂が、荒廃した遺跡の隅々へと染み渡っていく。

その破壊の中心地で、世界の法則そのものを塗り替えるような奇跡――あるいは破滅の調教が、音もなく完了していた。


――ピキリ、と。

平伏する魔王ヴォルフラムの背中から立ち上っていた禍々しい漆黒のオーラが、ガラスがひび割れるような音を立てて収縮を始めた。

数千年にわたり大陸全土を震え上がらせてきた「終末の化身」としての異形の巨躯。大気を圧殺していた竜の影が霧散し、凝縮された魔力がその肉体を再構成していく。

立ち現れたのは、一人の人間の青年の姿であった。


黒銀の長髪は乱れ、瓦礫の散らばる冷たい石畳の上に絹糸のように広がっている。

彫刻のように無駄のない筋躯を包むのは、夜の闇を固めたような豪奢な黒革の長衣。そして、額を床に擦り付けたまま伏せるその顔立ち――人間離れした鋭利な美貌の中央で、金色の双眸が濡れたような光を放ち、狂気と恍惚に細められていた。


震えていた。

恐怖からではない。怒りや屈辱からでもない。

数千年の永きにわたり、大陸の頂点に君臨し、神々すら手こずらせた原初の魔王が、生まれて初めて「自らを完全に支配し、呑み干し得る絶対の上位捕食者」に出会ってしまったという、戦慄すべき歓喜。


「……神だ」


掠れた、だが甘美な震えを帯びた声が、床石の隙間から漏れ出た。


「我が神、我が主……。数百年、我を屈服させる者などおらぬと思うておった。神々の軍勢も、人間の英雄共も、我が炎の前に灰と散るだけの脆弱な羽虫に過ぎなんだ。だが……貴女は違う」


ヴォルフラムは、まるで聖遺物に触れる巡礼者のように、震える両手をゆっくりと前へと伸ばした。

その指先が触れたのは、ヴァレリアの足元――漆黒の革で仕立てられた、鋭く優美なハイヒールの爪先であった。


チュッ、と。

乾いた静寂の中に、微かな衣擦れの音と共に、熱烈で狂信的な口づけの音が落ちた。


魔王は、自らの額をその華奢な靴先の甲に擦り付け、すがりつくように唇を押し当てたのだ。

誇り高き覇王としての矜持など、初めから存在しなかったかのような徹底した平伏。

額から流れる自らの血で彼女の靴底を汚すことすら恐れ多いとばかりに、金色の瞳を潤ませ、息を荒げながら見上げてくる。


「貴女こそが、我が生涯の主だ。我が命も、我が力も、この深淵に眠るすべての呪縛も……魂の最後の一片に至るまで、貴女のものだ」


ヴァレリアは、足元で額を擦り付ける魔王の頭上を、冷ややかな紫紺の瞳で見下ろしていた。

踏みつけにするでもなく、かといって退くでもない。

ただ、自らの足元に侍るのが当然であるかのように、自然体でそこに佇んでいる。


「……あら。随分と聞き分けが良いのね、原初の魔王様」


ヴァレリアの冷涼な声音に、ヴォルフラムは歓喜に身を震わせ、金色の瞳を爛々と輝かせた。

彼は顔を上げ、獰猛な牙を覗かせながら、飢えた獣のような笑みを浮かべて進言した。


「我が主、我が唯一の神よ。……我に命じてくださるか? 貴女のような至高の存在を薄暗い地下に閉じ込め、あまつさえこの奈落の底へ突き落とした地上の羽虫ども……! あのガルディニアなる腐れ貴族共の国を、今すぐ我の黒炎で国ごと灰燼に帰して参りましょうか!?」


ヴォルフラムの背後から、再びドス黒い殺戮のオーラが揺らめいた。

山脈を穿ち、数百万の命を一瞬で消し去る原初の滅びの波動。

今すぐにでも天へ駆け上がり、帝都ルテティアを火の海に変えてみせると言わんばかりの、純粋で過激な破壊の忠誠。


しかし。

その神話級の狂暴な申し出を耳にしたヴァレリアは、眉一つ動かさなかった。

彼女は優雅に指先を自らの顎に当てると――ふっ、と冷ややかな失笑を漏らしたのである。


「下品ね」


ピシャリと、冷水を浴びせるような一言。

ヴォルフラムの殺気は一瞬で凍りつき、魔王は呆然と瞬きを繰り返した。


「げ、下品……でございますか、我が主……?」


「ええ。酷く下品で、救いようのないほど退屈ですわ」


ヴァレリアは扇子を広げるように優美に腕を組むと、深淵の天井――遥か頭上に広がる地上の世界を見据えた。

その瞳に宿るのは、泥臭い復讐者の激情ではない。

チェス盤の上で自滅していく無能な対局者を、ワイン片手に眺める観客の冷徹な知性だった。


「泥棒や詐欺師の首を力任せに切り落とし、国を焼き払うなど……そんなものは復讐でも何でもありません。ただの粗野な暴力の押し付けに過ぎないわ。力でねじ伏せれば、彼らは死の間際に『理不尽な魔王に襲われた悲劇の犠牲者』として死んでいくのでしょう? ……なぜ私が、あのような汚らわしい豚どもに、そんな美しい殉教者の幕引きを与えてやらねばならないのかしら?」


「それは……」


言葉を失うヴォルフラムに対し、ヴァレリアは艶やかに唇を綻ばせる。その笑みは、いかなる悪魔の呪詛よりも冷たく、美しかった。


「理解していらっしゃらないようね、ヴォルフラム。あの国にはね……私が十年間、地下牢でこの身一つで受け止め続けてあげていた『厄災の残滓』が、山のように溜まっているのよ」


ヴァレリアは細い指先を一本立て、宙に不可視の因果の図式を描き出す。


「大地の底から湧き出る有毒な黒瘴気。魔導炉の不完全燃焼が吐き出す霊的ヘドロ。そして、偽りの平和を享受してきた民衆が積み上げてきた、ドス黒い強欲と怠惰の歪み……。それらすべてを濾過し、せき止めていた防壁こそが、この私でしたの」


ヴァレリアが深淵へ落とされた今、その防壁は永遠に失われた。

地上に残されたのは、愛嬌と初歩的な治癒魔法しか使えない無能な『偽聖女』マリアベルと、虚栄心だけで国を動かす愚鈍な皇太子ユースティス、そして娘の肉を売って肥え太った強欲な公爵家だけ。


「私が指一本動かさずとも、あそこは勝手に腐り落ちていきますわ。水は濁り、大地は枯れ果て、疫病が蔓延し、飢えた民衆が宮殿を取り囲む……。自分たちが切り捨てたドブネズミこそが、自分たちの命を繋ぎ止めていた唯一の神であったと気づいた時、彼らがどのような顔をして泥を啜るのかしら?」


想像するだけで心地よい、とばかりにヴァレリアは喉を鳴らして笑う。


「自業自得で国が内側から崩壊していく地獄絵図。裏切り者たちが、自らが蒔いた悪意の種によって四肢を腐らせ、発狂し、仲間割れを起こして醜悪に自滅していく様を――最高級のシルクを身に纏い、美酒を傾けながら、最前列の特等席で観賞するのが筋というものでしょう?」


静寂が、神殿跡を支配した。

その言葉の端々に宿る、底知れぬ悪意の深淵。

ただ暴力で叩き潰すことよりも何千倍も残酷で、何万倍も優雅な、絶対の破滅劇のプロデュース。


ヴォルフラムの金色の瞳が、見開かれたまま震えていた。

背筋を駆け上がる、未知の戦慄。

人外の魔王たる己すら思いもつかなかった、極上の残酷美学。

この女は、ただ強いだけではない。

人間の魂の浅ましさと、因果の理を完全に掌握し、世界そのものをチェス盤の上の玩具として弄ぶ「絶対の女帝」なのだ。


「……あ、ああ……っ!」


ヴォルフラムの喉から、狂喜の嗚咽が漏れた。

彼は再び床に額を打ち付け、熱狂のあまり肩を激しく痙攣させる。


「素晴らしい……! なんと恐ろしく、なんと美しいお方だ……! 我が主、我が神! 貴女のその冷酷な微笑みの前には、我の黒炎などただの子供の火遊びに過ぎなんだ! 貴女の仰せのままに! このヴォルフラム、貴女の特等席の肘掛けとなり、敷物となり、その華麗なる復讐劇のすべてをお側でお守りいたしましょう!」


ヴォルフラムの魂の奥底に、見えない「首輪」が完全に嵌め込まれた瞬間だった。

それは恐怖による強制ではない。

魔王自身が、この冷酷無比な女帝の奴隷であることを何よりも誇りとし、望んだがゆえの絶対服従。


「よろしい」


ヴァレリアは満足げに頷くと、踵を返して神殿の外へと歩み出した。

漆黒と黄金のドレスが、夜風にさらさらと優雅な音を立てる。


「さて……いつまでもこの澱んだ穴の底に留まっている理由もありませんわね。そろそろ、地上へ戻りましょうか」


「ははっ! 我が背をお使いください!」


ヴォルフラムが立ち上がり、両手を広げた。

その肉体から、再び膨大な魔力が噴き上がる。だが今度の魔力には、ヴァレリアへの敵意は微塵も含まれていなかった。あるのはただ、主を運ぶための神聖なまでの恭順。


――ゴォォォォォォッ!!


黒銀の旋風が巻き起こり、青年の肉体が瞬時にして神話の巨龍へと変貌していく。

全長数十メートルに達する、漆黒の鱗と銀の鬣を持つ威風堂々たる黒龍。その頑強な両翼は深淵の突風を容易く切り裂き、頭部には王者の証たる二本の黒角が天を突いている。

黒龍はヴァレリアの前に恭しく巨躯を屈め、その首筋を地面すれすれまで下ろした。

乗りやすいよう、背の付け根には柔らかな漆黒の魔力毛布が展開されている。


「お手を、我が主」


低く響く龍の思念波。

ヴァレリアは一片の躊躇もなく、黒革のヒールで龍の首筋へと足をかけた。

ふわりと舞い上がり、巨大な漆黒の龍の背骨の頂へと優雅に腰を落ち着ける。ドレスの裾を整え、両足を揃えて座るその姿は、まるで自らの宮殿の玉座に腰掛けているかのように自然であった。


「参りましょう、ヴォルフラム。――私を捨てた、あの愚者たちの空へ」


「御意――!!」


グオオオオオオオオオオッ!!


黒龍の咆哮が、数千年ぶりに深淵の底を激震させた。

巨大な黒翼が一撃、二撃と羽ばたかれる。巻き起こった暴風が瓦礫を吹き飛ばし、巨躯は重力を嘲笑うかのように一直線に虚空へと撃ち出された。


時速数百キロの急上昇。

かつてヴァレリアが、絶望と死の宣告と共に叩き落とされた暗黒の裂け目。

その垂直の断崖絶壁を、黒龍は漆黒の彗星となって駆け上がっていく。


吹き荒れる風圧は、ヴァレリアの周囲に展開されたヴォルフラムの結界によって完全に遮断され、彼女の艶やかな黒髪を一筋揺らすことすら許さない。

見上げる頭上、針の穴のように小さかった地上の裂け目が、瞬く間に巨大な光の輪となって広がってくる。


かつて汚泥に塗れ、生贄として捨てられた少女は、もうどこにもいない。

神話の魔王を首輪で繋ぎ、理不尽のすべてを支配の力へと転換した絶対の女帝が、今、地上という名の舞台へ凱旋しようとしていた。

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