第4話:深淵の玉座 〜原初の魔王と、絶対捕食者の微笑み〜
どれほどの時が、この暗黒の底で止まっていたのだろうか。
見渡す限りの荒野は、太古の神話戦争によって大地が裂け、文明ごと叩き落とされた墓標の群れだった。
天を突くように乱立する黒曜石の巨柱は半ばからへし折れ、崩壊した神殿の回廊には、数千年の風化に耐えた古代の神聖文字が苔に覆われて眠っている。
かつて人類連合が、世界の存亡を賭けて一匹の怪物をこの地の底へ封じ込めたという伝説――ガルディニア帝国の歴史書においてはおとぎ話として片付けられていた神話が、現実の遺構として静まり返っていた。
カツン、カツン、と。
澄んだ硬い足音が、静謐に包まれた瓦礫の回廊に反響する。
漆黒と黄金のドレスを纏ったヴァレリアは、足首まで届くドレープを優雅に揺らしながら、深淵の最奥へと歩みを進めていた。
足元に転がる鋭利な岩屑も、触れれば肉を溶かす有毒な黒泥も、彼女のハイヒールを汚すことすら叶わない。ヴァレリアが一歩踏み出すごとに、大気から精製された純白の神気が不可視の絨毯のように広がり、穢れを払いのけていた。
「……随分と、重々しいお出迎えですこと」
ヴァレリアは立ち止まり、冷ややかな視線を前方の巨大な崩落跡へと向けた。
そこは、四本の巨大な注連縄じ連鎖と、天を覆う古代の封印結界によって固く閉ざされていたはずの『主神殿』の跡地。
その巨大な封印結界の表面に、蜘蛛の巣のような無数の亀裂が走っていた。
原因は他でもない。
先ほどヴァレリアの肉体から噴き上がった、国家規模の呪詛を反転精製した規格外の神気である。深淵の底を満たしていた致死の瘴気濃度が一瞬にして崩壊したことで、負の魔力を吸って稼働していた古代結界のバランスが完全に狂い、崩壊への引き金が引かれてしまったのだ。
――ドゴォォォォォンッ!!
天地がひっくり返るかのような爆音が、地下世界を激震させた。
注連鎖が千切れ飛び、何千トンもの巨石が一瞬にして粉微塵に吹き飛ぶ。
爆心地から噴き上がったのは、常人の視神経を焼き切るほどの漆黒の火柱。数千度を超える超高熱の黒炎が渦を巻き、大気中の酸素を食い尽くしながら、半径数百メートルの岩盤をドロドロのマグマへと融解させていく。
その黒炎の中心から、ゆっくりと、異形の偉容が姿を現した。
「――久しいな、外の大気は」
低く、地底の底鳴りのような声が響く。
声そのものが物理的な破壊の波動を孕み、周囲の神殿の柱が次々と粉砕されていく。
炎を割って歩み出てきたのは、常識を遥かに超越した覇気を放つ人影だった。
波打つ長髪は、闇よりも深い黒と、月光を反射する白銀が混ざり合った艶やかな黒銀色。
彫刻のように整った冷酷な美貌の中に、獲物を嬲り殺す愉悦を湛えた金色の双眸が爛々と輝いている。
身に纏うのは、幾万の死者の怨念を編み上げたような漆黒の外套。背後には、時折巨大な竜の翼を幻視させる禍々しい漆黒のオーラが立ち上っていた。
――原初の魔王、ヴォルフラム。
数百年前に大陸の半分を焦土に変え、当時の英雄たちと神殿の全戦力を生贄にしてようやくこの深淵の底へ封じ込めたとされる、生ける終末の化身。
彼が放つ殺戮のオーラは、触れただけで人間の精神を狂気に染め、内臓を腐らせるほどの絶対悪。
「我が微睡みを乱す不届き者はどこの羽虫かと思えば……」
ヴォルフラムの金色の瞳が、黒煙の向こうに佇むヴァレリアの姿を捉えた。
魔王はわずかに眉をひそめ、訝しげに鼻を鳴らす。
「女か。……何百年ぶりの生贄か知らんが、脆弱な人間風情が、なぜこの我の神殿の前に立っていられる? 貴様が先ほど、外の瘴気を乱した元凶か」
ヴォルフラムは苛立たしげに右手を掲げた。
対話の意思など欠片もない。人間という下等生物に対する慈悲など、有史以来一度たりとも持ち合わせたことのない絶対捕食者の傲慢。
「理由などどうでもよいわ。我が領域に土足で踏み入った罪、塵一つ残さず消し去ってくれよう!」
ヴォルフラムの手のひらから、神話級の滅びの波動が解き放たれた。
――【原初の黒炎】。
かつて一撃で山脈を消し去り、大軍を一瞬で灰燼に変えたとされる、魔王の象徴たる絶滅魔法。
空間そのものが軋みを上げて歪み、黒い閃光が直撃の軌道を描いてヴァレリアへと殺到する。音速など遥かに超えた超質量の破壊エネルギー。
だが。
その終末の光芒を前にして、ヴァレリアは一歩たりとも後退しなかった。
悲鳴を上げることも、防御の魔法陣を展開することすらしない。
「…………」
ヴァレリアは、薄く微笑んだ。
そして、まるで初夏の夜に心地よい微風を迎える貴婦人のように――優雅に、両手を広げたのである。
「な……ッ!?」
ヴォルフラムの瞳に、初めて狼狽の色が走った。
自殺か。狂人か。
だが、その疑問が形になるよりも早く、黒炎がヴァレリアの全身を呑み込んだ。
――ボッ!!
直撃。
あらゆる物質を原子レベルで分解するはずの数千度の熱線が、ヴァレリアの漆黒のドレスに激突した。
だが、肉体が焼ける異臭も、爆散の轟音も起きなかった。
――カチリ。
再び、世界の天秤が傾く音がした。
――原初固有能力【因果の天秤】。
――第一原則【悪意の神聖精製】、全出力稼働。
――検知害意:原初の魔王による絶対的殺意、神話級破壊エネルギー。
ジュワワワワッ……!
ヴァレリアの体表に触れた瞬間、ヴォルフラムが放った漆黒の炎が、奇妙な音を立てて純白の燐光へと変色していった。
破壊の熱量は、柔らかな生命の脈動へと変換される。
空間を焼き焦がす殺戮の毒素は、極上の甘美な魔力へと濾過される。
巨大であればあるほどいい。
悪意が純粋であればあるほど、殺意が苛烈であればあるほど――【因果の天秤】にとって、それは最上級の「ご馳走」に他ならなかった。
「……んっ……」
ヴァレリアの口から、吐息が漏れる。
魔王の滅びの波動が、一本の奔流となってヴァレリアの胸元へ吸い込まれていく。
エネルギーの吸収に伴い、ヴァレリアの白磁の肌はさらに透き通るような神々しさを増し、艶やかな黒髪の毛先が黄金の燐光を散らしながら宙を舞う。
彼女の体内の魔力総量は、魔王の一撃を丸ごと呑み干したことで、天井知らずに跳ね上がっていた。
数秒後。
山をも穿つはずの黒炎は、ヴァレリアの周囲から完全に掻き消えていた。
残ったのは、焦げ跡一つない漆黒のドレスを着こなし、肌艶を一段と輝かせた、息一つ乱れていない絶世の美女の姿だけだった。
「ば、馬鹿な……ッ!?」
ヴォルフラムの喉から、掠れた叫びが漏れた。
魔王としての数千年の生涯において、これほど理解不能な現象に直面したことは一度たりともなかった。
防がれたのではない。相殺されたのでもない。
我が放った絶対の滅びの炎を、この女は――「喰らった」のだ。何食わぬ顔で、自らの糧として消化し尽くしたのだ。
「貴様……貴様、何者だ!? 人間が我が黒炎を呑み干すなど、あり得ぬ! いかなる神の加護を受けたというのだ!」
動揺に顔を歪める魔王に対し、ヴァレリアは冷徹な眼差しを崩さない。
彼女はゆっくりと腕を下ろし、扇子を広げるように優雅に指先を動かした。
「神の加護? ……笑わせないでくださるかしら」
ヴァレリアの声は、冷たく、だが恐ろしいほど澄み渡って神殿跡に響いた。
「神などという無責任な偶像は、十年間、泥水の中で喘ぐ私を一度たりとも見向きもしませんでしたわ。これは私自身の力。――私が十年間、貴方たちの排出した汚泥を飲み干し続けた対価として掴み取った、絶対の理です」
ヴァレリアの紫紺の瞳が、深淵の闇を思わせる禍々しい光と、天上の光を思わせる神聖な光の二色に染め分けられた。
――【因果の天秤】、第三原則【深淵の統御権】。
「貴方は少々、眠りすぎて礼儀というものを忘れてしまったようね。……誰がこの深淵の真の主であるか、その魂に刻みつけて差し上げますわ」
ヴァレリアが、右手の指先をスッと下へ振り下ろした。
瞬間。
先ほどヴォルフラムから吸収し、神聖精製した超膨大な神気と、この深淵の底に沈殿する原初の穢れが、ヴァレリアの意志によって完璧に融合・再編された。
白と黒、相反する二つの極大エネルギーが編み上げられ、神殿の天井を覆い尽くす巨大な紫紺の魔法陣が出現する。
――ゴォォォォォォンッ!!
それは、単なる物理的重力ではなかった。
存在の「格」そのものを上から踏み躙る、絶対の王権の圧力。
深淵という世界の法則そのものが、ヴァレリアという一つの意思に従属し、その領域に属するすべての魔獣、亡霊、そして魔王すらも「臣民」として屈服させる絶対命令の波動。
「ぐ、おおおおおおっ!?」
ヴォルフラムの巨躯が、目に見えて軋みを上げた。
全身の骨が悲鳴を上げ、足元の岩盤がクモの巣状に砕け散る。
抗おうと黒炎を燃え上がらせようとするが、その炎すらも頭上の魔法陣によって瞬時に「燃料」として奪い去られ、己の力を出せば出すほど、自らを縛る首輪の鎖が強く締め付けられていく。
「な、何だこの力は……! 我が、我の魂が……屈服を、強いられておる……!? 人間に……この我が生涯で一度も膝を折ったことのない魔王ヴォルフラムが……ッ!」
ヴォルフラムは歯を食いしばり、血反吐を吐きながら抗おうとした。
だが、ヴァレリアは冷淡な瞳のまま、一歩、また一歩と優雅に距離を詰めてくる。
彼女が近づくにつれ、魂を押し潰す神気と深淵の支配権の密度は二倍、三倍へと跳ね上がっていく。
抗えない。
勝負にすらなっていない。
魔王の武器である殺意も、瘴気も、黒炎も、この女の前ではただの栄養源にしかならない。
そして女が放つ統御の力は、深淵の主としての魔王の魂の根幹を、まるで赤子の手をひねるかのように上から完全に掌握している。
――相性が悪すぎるのではない。
――この女は、自分たちのような怪物を飼い慣らすために生まれた、世界の絶対捕食者なのだ。
その事実を理解した瞬間、ヴォルフラムの全身から抗うための力が急速に失われていった。
恐怖? 屈辱?
いや、数百年を孤独の闇の中で眠り続けていた魔王の魂を貫いたのは――自らを完全に支配し得る「真の神」に出会ってしまったという、戦慄にも似た凶暴な歓喜だった。
バキィッ、と岩が砕ける音。
ヴォルフラムの両膝が、ついに耐えかねて地面へと叩きつけられた。
ドサリ、と両手を地につき、魔王はヴァレリアの足元に平伏する形となった。
数百年、いかなる英雄も、いかなる神の軍勢も成し得なかった「魔王の完全なる屈服」。
それを、一滴の汗すら流さず、息一つ乱さずにやってのけた女が、目の前に立っている。
漆黒のハイヒールが、平伏するヴォルフラムの鼻先、わずか数センチメートルの位置で静止した。
ヴァレリアは、足元で肩を震わせ、苦悶の息を漏らす原初の魔王を見下ろした。
その冷徹な紫紺の瞳には、勝利の奢りも、敵を打ち倒した興奮すら浮かんでいない。
ただ、期待外れの玩具を見るかのような、退屈そうな色があるだけだった。
「あら……」
ヴァレリアは、扇子の先を自らの艶やかな顎に当て、妖艶に唇を綻ばせた。
「ご挨拶にしては、少々温いわね。……もっと本気を出してくださって構わなくてよ? 原初の魔王様」
その氷のように冷たく、極上に残酷な微笑みを見上げた瞬間。
地に額を擦り付ける魔王の金色の瞳の奥で、何かが決定的に焼き切れた。




