第54話:娯楽としての破滅 〜剥奪されし魔力回路と、凍てる北の鉱山へ消えゆく道化〜
玉座の間のドーム天井に穿たれた亀裂から、冷たい秋風が吹き込み、煤けたタペストリーをカサカサと不気味に揺らしていた。
だが、その広大な空間を満たしていたのは、風の音などでは断じてなかった。
「……ふふ……あはははは! あーっはっはっはっは!!」
大理石の九段の階段の上。純金の玉座の前に立つヴァレリア・フォン・アルトハイムの紅唇から零れ落ちたその哄笑は、鈴を転がすように澄み渡り、音楽のように美しく、そして――冬の万年氷壁よりも底冷えする残酷さに満ちていた。
彼女は手にした白骨の扇子で口元を覆いながら、肩を微かに揺らして笑い続けていた。
漆黒と群青の豪奢なシルクドレスが優雅に波打ち、濡れたような夜色の黒髪から零れ落ちる黄金の神聖粒子が、薄暗い玉座の間を白銀の燐光で照らし出す。
階段の下、泥水の中に両手をつき、首に太い鉄枷を嵌められた元皇太子ユースティスは、その哄笑を見上げて、ポカンと口を開けていた。
前歯の砕けた口元から、黄色い膿と血の混ざった涎が泥水へと垂れ落ちる。
男の腫れ上がった両目の奥には、信じがたいことに――淡い、浅ましい『期待の光』が灯り始めていた。
(わ、笑っている……! あいつが、私を見て笑ったぞ……!)
ユースティスの腐りきった脳髄は、目の前の圧倒的な嘲笑を、己の都合のいいように歪曲して解釈していた。
女が男の前で笑うのは、心を許した証拠だ。
十年間、地下牢で泥水を啜っていたあいつは、今でも私の元婚約者であり、私の愛の言葉に胸を打たれたのだ。
今、ここでさらに情熱的に愛を囁けば、あいつは必ず私の手を取り、この屈辱的な鎖を解いて、私を再び玉座へと座らせてくれるに違いない――。
「ヴァ、ヴァレリア……!」
ユースティスは折れ曲がった両足の激痛を忘れ、泥まみれの膝で一段目の大理石を這い上がろうとした。
顔面を醜く歪め、満面の媚笑を浮かべて両手を差し伸べる。
「分かってくれたのだね……!? やはり、貴女の心には私がいたのだ! 昔のように、私をユースティス様と呼んでおくれ! さあ、その手でこの薄汚い鎖を外してくれ! 二人でこの帝国を、新しく――」
――パチン。
乾いた、鋭利な音が、大理石の広間に響き渡った。
ヴァレリアが、広げていた扇子を一息に閉じた音であった。
その瞬間、彼女の顔から、先刻までの華やかな哄笑が、まるで水面に落ちた油が消え去るかのように――跡形もなく消滅した。
「…………」
現れたのは、感情の一片すら削ぎ落とされた、絶対零度の静謐。
紫紺の双眸が、階段の下の泥溝に蠢く肉塊を、ただ冷たく、射貫くように見下ろしていた。
ユースティスの喉が、息を呑んで凍りついた。
差し伸べられていた両手が、空中でガタガタと震え始める。
ヴァレリアは、ゆっくりと階段の手すりへと歩み寄った。
閉じた扇子の切っ先を、ユースティスの鼻先数センチの虚空へと向け、鈴を転がすような、だが地獄の底から響くが如き冷涼なる声音を投げ下ろした。
「――愛? ふふ……笑わせてくださるわね」
背筋の芯まで凍りつかせる、美しき毒の言葉。
「十歳だった私を、冷たい地下牢の石畳に縛り付け、十年間一度たりとも顔を見せることもなく泥水を啜らせ続けた男が。……光の聖女とやらを抱き寄せ、私を『薄汚いドブネズミ』と嘲笑い、自らの軍靴で処刑谷の深淵へ蹴り落とした男が。――どの口で、この私に『愛』などと語るのかしら?」
「ひっ……!?」
ユースティスの顔面から、サッと血の気が引いた。
「言ったはずよ、ユースティス。第1話において、貴方が私の顔に婚約破棄状を投げつけたあの日……『私がこの結界を出れば、都を満たす呪縛の防壁が消えますけれど?』とね。貴方は何と仰ったかしら? 『マリアベルの奇跡の光があれば、貴様の泥臭い人柱など最初から不要だったのだ!』……そう吐き捨てて、私を踏みにじったのは、他の誰でもない貴方自身ですわ」
一言一句の狂いもない、過去の罪業の突きつけ。
ユースティスは言葉を失い、喉をヒューヒューと鳴らしながら後ずさろうとした。
だが、逃げ場などない。彼の項の真後ろには、銀髪の少年キリアンが、血の滲むような力加減でダガーの切っ先を突き立てたまま、氷の瞳で見下ろしていた。
ヴァレリアは、階段を一段、また一段と、優雅に降りてきた。
ハイヒールの硬質な足音が、ユースティスの鼓膜を死刑執行の秒針の如く打ち据える。
階段の三段目で足を止めたヴァレリアは、身を屈め、床に這いつくばる元婚約者を見下ろして、極上に甘美な、そして嗜虐的な微笑を浮かべた。
「――けれど、感謝するわ。ユースティス」
「え……?」
ユースティスが縋るように顔を上げた。
「貴方のその、あまりにも情けなく、あまりにも浅ましく、豚のように泥を啜りながら命乞いをする無様な姿……。わたくしのこれまでの人生の中で、文句なしに『最高の喜劇』でしたわ」
「な……」
「十年間、暗闇の中で耐え抜いた甲斐があったというものよ。かつて傲然と私を見下ろしていた皇太子が、両足をへし折られ、前歯を砕かれ、涎と鼻水を垂らしながら、命惜しさに愛を乞い、床に額を擦り付けて踊り狂う……。ふふ、これほどの極上の余興、世界中のいかなる劇場でも観劇することは叶いませんもの」
娯楽としての破滅。
激しい怒りでも、復讐の憎悪ですらない。
ただ、自業自得で自滅していく哀れなピエロの断末魔を、最前列の特等席から優雅に鑑賞し、愉悦の糧として消費し尽くす――絶対の女帝の、底知れぬ冷酷。
「あ……あぁ……っ」
ユースティスの瞳から、最後の希望が完全に砕け散った。
愛など最初から存在しなかった。
許しなど一片も用意されていなかった。
目の前にいるこの絶世の美女は、自分を救うためにここにいるのではない。
ただ、自らが最も惨めに、最も醜悪に狂い落ちていく様を、特等席で笑い飛ばすために立っているのだという現実に、男の魂は完全な絶望へと叩き落とされた。
「た、頼む……! 頼むヴァレリア、殺さないでくれぇぇっ!!」
ユースティスは泥水の中に頭を激しく打ち付け、泣き叫んだ。
額が割れ、鮮血が飛び散るのも構わず、獣のように吠え猛る。
「死刑だけは……! 首を刎ねるのだけは勘弁してくれ! 死にたくない、死にたくないんだぁぁっ!!」
その必死の命乞いを、ヴァレリアは冷ややかに見つめていた。
やがて、彼女の唇から、嘲弄のため息が漏れ出た。
「死刑?」
ヴァレリアは、呆れ果てたように首を横に振った。
「ふふ……本当に、どこまでも自分に甘い男ね。――貴方に、そのような『生ぬるい救済』を差し上げるはずがないでしょう?」
「え……?」
「死など、一瞬の暗闇に過ぎませんわ。首を切り落とされ、苦痛から解放され、すべてを無に帰すなど……十年間、生きながら内臓を腐らせ、骨を軋ませ、精神をすり潰され続けた私の苦しみに比べれば、あまりにも安価で、あまりにも慈悲深すぎる施しですわ」
ヴァレリアの紫紺の双眸の奥底で、黄金の神気がギラリと凶悪に輝いた。
「貴方には……死ぬことすら許しません」
絶対の判決の宣告。
玉座の間の空気が、一瞬にして凍結した。
「ガルディニア帝国元第一皇太子、ユースティス・フォン・ガルディニア。――貴方の犯した国家反乱、自軍虐殺、不当搾取の罪状を鑑み、以下の刑を執行いたします」
ヴァレリアは閉じた扇子を、ユースティスの胸元へと突きつけた。
「貴方の体内に宿るすべての『魔力回路』を、根元から焼き切り、永久に剥奪します。そして、爵位および皇籍を剥奪の上、大陸最北の永久凍土――極寒の『黒鉄魔導鉱山』における、死ぬまでの終身強制労働を命じます」
「な……っ!? く、黒鉄鉱山……!?」
ユースティスの顔面が、土気色へと変色した。
大陸の最北端、太陽の光が年に数ヶ月しか届かず、零下数十度の猛吹雪が吹き荒れる呪われた鉱山。
罪人たちが素手で岩盤を掘り、過酷な労働と飢えによって、平均寿命が一年にも満たないとされる、生き地獄の代名詞。
「かつて貴方が私に強いたように、死ぬまで泥水を啜り、這いずり回り、自らの流した血肉の重みを噛み締めながら、一秒でも長く生き永らえなさい。……息絶えるその瞬間まで、私の足元へ呪詛を吐き続けるがいいわ」
「嫌だ……! 嫌だぁぁぁっ!!」
ユースティスは狂乱の金切り声を上げた。
「魔力回路を抜くだと!? そんなことをされたら、私はただの無力な平民……いや、家畜以下になってしまう! 皇族の血を引くこの私が、極寒の鉱山で泥を掘るなど、絶対に耐えられん! 許してくれ、殺してくれ! いっそこの場で首を刎ねてくれぇぇぇっ!!」
「死を望むことすら、貴方には許されませんわ」
ヴァレリアは冷徹に言い放ち、階段の上へ向けて視線を流した。
「――マティアス。おやりなさい」
「……御意にございます、我が至高の生ける女神よ」
玉座の脇から、音もなく進み出てきた男がいた。
白銀の祭服を着崩し、首元に火傷の痕を残した青年――元神殿筆頭司教、マティアスであった。
マティアスの端正な顔立ちには、神殿の聖職者であった頃の敬虔さなど微塵も残されていなかった。あるのはただ、主ヴァレリアに仇なした罪人を解剖し、破滅へと叩き落とすことに対する、底知れぬ背徳の愉悦。
マティアスは懐から、神殿が数百年秘匿してきた禁忌の魔導具――純黒の水晶で造られた『剥奪の杭』を取り出した。
そして、床に這いつくばるユースティスの前まで歩み寄ると、恍惚とした笑みを浮かべて印を結んだのだ。
「かつて貴方たち神殿と皇室が、ヴァレリア様から魔力を搾取するために編み出した古代の禁術式……。その本来の切れ味を、貴方自身の肉体で味わうといい」
「や、やめろ……! マティアス、貴様、神殿の司教の分際で――」
「神など、最初からこの世に存在しないと言ったはずですよ、豚め」
ザシュッッッ!!!!
「ぎゃあああああああああああああああああっっっ!?!?!?」
玉座の間に、人間の発するものとは思えない絶叫が木霊した。
マティアスの手にした漆黒の杭が、ユースティスの胸の中央――心臓の直上にある『魔力核(霊核)』へと、深々と突き立てられたのだ。
バチバチバチバチッッッ!!!!
凄まじい紫黒色の雷撃が、ユースティスの全身の血管を伝って炸裂した。
男の皮膚の下で、青白く光っていた魔導管の網目が、まるで沸騰した油を流し込まれたかのように赤黒く変色し、プツプツと音を立てて内側から焼き切れていく。
肉体を裂かれる激痛など比べ物にならない、魂の根源を万力ですり潰されるような、絶対の破壊。
ユースティスの眼球は白目を剥き、口から泡と鮮血を噴き散らし、全身の筋肉が弓なりに硬直して痙攣する。
皇族として生まれ、贅沢三昧の中で育まれてきた魔力――そのすべてが、黒い煙となって胸の杭からジュウジュウと大気の中へ蒸発していく。
ドサリ……。
数分後。
杭が引き抜かれた時、床の上に倒れ伏していたのは――もはや、皇太子の威厳など欠片も残っていない、ただの薄汚れた、干からびた肉塊であった。
魔力総量、ゼロ。
体内の魔力回路は完全に炭化し、初歩的な生活魔法の火を灯すことすら叶わない、完全なる無能力者。
両足を折られ、魔力を奪われ、顔面を潰されたその男は、今や帝都のスラム街を這い回る物乞いですら見向きもしない、哀れな敗残兵の抜け殻に過ぎなかった。
「……あ、あ……あぁ……」
ユースティスの喉から、掠れた空気の抜ける音が漏れ出る。
ヴァレリアは、その抜け殻を一瞥すると、手にした扇子で冷ややかに合図を送った。
「――衛兵。その汚物を、連れて行きなさい」
「ははっ!!」
玉座の間の大扉から、漆黒の甲冑に身を包んだカイザーライヒの重装歩兵四名が進み出た。
兵士たちは泥水の中に転がるユースティスの首の鉄鎖を乱暴に掴み上げると、まるで屠殺場へ運ばれる豚の死骸を引きずるかのように、大理石の床の上を無慈悲に引きずり始めた。
「あ……あぁ……ヴァレリア……! ヴァレリアァッ!!」
引きずられながら、ユースティスは折れた腕を虚空へ伸ばし、血の涙を流しながら絶叫した。
大理石の床の上に、男の身体から垂れ落ちた血と泥の長い一本の線が、無残に伸びていく。
「嘘だと言ってくれ! 夢だと言ってくれぇぇぇっ! 私は皇太子だ、私は皇帝なのだぁぁぁっ!! 許してくれ、助けてくれぇぇぇぇぇっっっ!!!!」
遠ざかる狂人の叫び声。
やがて、回廊の奥へと引きずり出されたユースティスの身体と共に――。
ドォォォォォォンッッッッ!!!!
玉座の間の巨大な黒鉄の二重扉が、重々しい轟音を立てて完全に閉ざされた。
道化の断末魔は、永遠に遮断されたのだ。
***
静寂。
耳が痛くなるほどの完全なる静寂が、荒廃した『黄金の玉座の間』へと戻ってきた。
床に残されたのは、ユースティスが撒き散らした汚水と鮮血の染み、そして粉々に割れたガラスの破片のみ。
十年間、ヴァレリアを地下牢に閉じ込め、血肉を売り払い、最後は深淵へ蹴り落とした元凶――偽聖女マリアベルは永遠の呪詛の地下牢へ落ち(第52話)、元婚約者の皇太子ユースティスは魔力を抜かれて極寒の鉱山へと追放された。
加害の首謀者たちへの、完璧にして情け容赦のない、完全なる因果応報の執行。
「…………」
階段の上に立つヴァレリアは、ゆっくりと身を翻した。
真紅のストールを肩から滑らかに流し、彼女の紫紺の双眸が、玉座の間に居並ぶ者たちへと向けられる。
階段の脇には、腕を組み、満足げに獰猛な笑みを浮かべる覇王コンラート。
不快な羽虫が排除されたことに安堵し、金色の双眸を蕩けるように細める魔王ヴォルフラム。
ダガーの血を懐紙で丁寧に拭い、主の元へ駆け寄ろうと目を輝かせる暗殺者キリアン。
胸元に手を当て、至高の神聖劇を見届けた悦楽に震える元司教マティアス。
そして――。
直立不動で銀のティーポットを構える筆頭侍女長グレーテ、冷徹な知略の笑みを浮かべる女軍師ヒルデガルト、そして深く頭を垂れて新たな臣従の時を待つ第二皇女セシリア。
世界最高峰の武力、権力、知略、暗殺網、そして新時代の統治機構。
そのすべての頂点に君臨する者として、ヴァレリアは純金の玉座の手すりへ、白磁の指先をそっと滑らせた。
復讐の嵐は過ぎ去った。
だが、それは物語の終わりでは断じてない。
腐敗しきった旧世界の瓦礫の上に、己の意のままに動く新たな盤面を築き上げる――真なる覇道の幕開け。
ヴァレリアは艶やかな紅唇をほころばせ、冷涼にして絶対の声音を、静まり返った広間へと響かせた。
「さて……盤面の掃除は、これで終わりね」
女帝の微笑みと共に、千年の帝国ガルディニアの歴史は、今まさに完全なる解体の時を迎えようとしていた。




