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第55話:帝国の終焉と新秩序 〜引き裂かれし旧弊の旗と、属州総督の戴く白銀の誓約〜

ガルディニア宮殿の中枢――かつて大陸中原の諸外国から訪れる特使や大商工ギルドの長たちを迎え入れ、帝国の富と権威を誇示するために築かれた大広間『万邦の白の間』。

天頂から吊り下げられた数百のクリスタルシャンデリアには、帝都の混乱が嘘のように煌々とした魔導光が灯され、純白の大理石の床には、磨き抜かれた鏡のように荘厳な光の帯が走っていた。


だが、その広大なる大広間を埋め尽くしていたのは、旧ガルディニア帝国の華美な貴族たちではなかった。

列席していたのは、カイザーライヒ帝国が誇る黒甲の軍団長たち、女軍師ヒルデガルトの手によって招聘された大陸全土の大商工ギルドの総代たち、諸外国の全権大使たち、そして――胸に紫紺のリボンを結びつけ、堂々たる足取りで前列に並ぶ帝都の市民代表団であった。

誰もが息を呑み、壇上に据えられた長大な黒檀の条約調印卓へと、張り詰めた視線を注いでいた。


壇上の中央に立ち、羊皮紙の文書を広げているのは、カイザーライヒ帝国の筆頭軍師兼筆頭宰相――ヒルデガルト・フォン・ベルリッヒであった。

細身の金縁眼鏡の奥で怜悧な知性の光を煌めかせ、濃紺の宰相服を隙なく着こなした美女は、澄み渡る冷徹な美声を大広間全体へと響かせた。


「――全大陸の諸国家、並びに諸市民の代表に告ぐ。過刻、病床に伏せるガルディニア帝国現皇帝アウグスト・フォン・ガルディニア陛下より、全権を委任された侍医団および国璽尚書立ち会いのもと、正式なる『無条件退位状』が受理されました」


ヒルデガルトは手にした羊皮紙を掲げ、そこに押された血のように赤いガルディニア皇室の国璽を示した。


「狂乱せる前第一皇太子ユースティスによる国家反乱、自軍虐殺、並びに隣国への不法なる侵略行為の全責任を認め、帝位の継承権は完全に破棄。……本日、この瞬間をもって、千年以上続いたガルディニア帝国は正式に『解体』されたことを、天下に布告いたします」


ざわざわと、広間を揺るがす戦慄と感嘆のどよめき。

千年の歴史を誇った大陸随一の帝国が、名実ともに地球上から姿を消した瞬間であった。


「旧ガルディニア帝国の全領土、全臣民、全鉱山、並びに全管轄権は、本日付をもって、カイザーライヒ帝国へと平和的に統合・編入されます。旧帝国領は今後、カイザーライヒの最重要属州――『ルテティア属州』として、新たな統治秩序のもとに再編されるものとします」


旧弊の完全なる死。

そして――新秩序の夜明け。


壇上の手すりの向こう、大広間の全列席者の視線が一斉に注がれる中、壇上の最高位の席から、ゆっくりと二つの人影が調印卓の前へと歩み出てきた。


歩みを進めるのは、大陸最強の覇権国家カイザーライヒの若き覇王、皇帝コンラート。

漆黒の礼装軍服に身を包み、歴戦の傷跡を刻んだ精悍な美貌に不敵な笑みを湛えた男は、その圧倒的な武威と覇気をもって、居並ぶ諸外国の要人たちを無言で圧殺していた。


そして――そのコンラートと肩を並べ、優雅に衣擦れの音を響かせて進むのは。

ヴァレリア・フォン・アルトハイムであった。


「…………っ!」


大広間に居並ぶ数百名の要人たちが、一斉に息を呑み、吸い寄せられるようにその姿を刮目した。


身に纏うのは、夜の帳と星屑を織り上げたような、深い漆黒と群青の豪奢なシルクドレス。

最高司教ベネディクトの呪詛を呑み干し(第21話)、平原で放たれた数万の弾幕を【因果反跳】の燃料として昇華させた(第47話)ことにより、彼女の全身から立ち上る神聖魔力は、神話の女神すら凌駕する領域に達していた。

傷一つない白磁の肌は、内側から透き通るような淡い燐光を放ち、濡れたように艶やかな黒髪は、歩むたびに黄金の神聖粒子を粉雪のように床へと零し落ちさせている。

彫刻刀で削り出したかのように研ぎ澄まされた冷艶な美貌。その中央に据えられた紫紺の双眸は、地上のいかなる権力、いかなる富すら超越した、絶対の静謐と冷徹さを湛えていた。


かつて地下牢で泥水を啜り、十年間生贄として搾取されていた元聖女。

いまや、自らの手で祖国を解体し、大陸最強の覇王を手玉に取り、世界の命運を握る真なる支配者として、演壇の中央に君臨していた。


ヴァレリアの背後には、黒銀の長髪を揺らし、金色の瞳を眇めて不穏な殺気で周囲を睥睨する原初の魔王ヴォルフラム。

無表情に短剣の柄に指をかけ、主の死角を完璧に封鎖する銀髪の少年暗殺者キリアン。

白銀の祭服を着崩し、背徳の祈りを捧げる元筆頭司教マティアス。

そして、直立不動の姿勢で白手袋の手を揃え、氷の如き視線で見守る筆頭侍女長グレーテ。

世界最高峰の武力と知謀の化身たちが、完璧な臣下として彼女の背後に侍っていた。


ヴァレリアは卓上に広げられた漆黒の絹張りの統合条約書を見下ろすと、白磁の指先で純銀の羽ペンを手に取った。

インク壺にペン先を浸し、流麗な筆致で、自らの署名を刻み込む。


『ヴァレリア・フォン・アルトハイム』


続けて、コンラートが豪快にペンを走らせ、カイザーライヒ皇帝としての署名と国璽を捺印した。


パチン、と羽ペンが置かれた瞬間、広間を揺るがすような拍手と歓声が上がった。

だが、ヴァレリアは一度たりとも媚びるような笑みを見せることなく、手にした白骨の扇子を優雅に広げると、演壇の前に進み出た。


静粛を促すように扇子を軽く掲げる。

そのわずかな動作だけで、広間を埋め尽くしていた数千人の要人たちが、息を呑んで一瞬で完全な沈黙へと服した。


「――旧ガルディニア帝国の臣民、並びに諸国の使節の皆様」


鈴を転がすような、だが広間の隅々まで染み渡る冷涼なる美声。


「腐敗しきった旧皇室と、偽善に塗れた大聖堂の支配は、今日この時をもって永遠に幕を閉じました。……虐げられ、飢えに喘ぎ、無能な支配者たちのエゴによって泥水を啜らされてきたこの地に、これより新たな法と秩序を敷くことといたします」


ヴァレリアの紫紺の双眸が、演壇の階段の下――静かに控えていた一人の少女へと向けられた。


「我がカイザーライヒ帝国、並びにわたくしの名において。――新体制におけるルテティア属州の最高統治責任者、『属州総督』の地位を、この者に下任いたします」


扇子の切っ先が、優雅にその少女を指し示した。


「――前へ出なさい。セシリア・フォン・ガルディニア」


「「「…………っ!!」」」


大広間に、息を呑むような驚嘆のざわめきが広がった。

セシリア皇女。

愚鈍な兄ユースティスの暴走を止められず、宮廷で唯一正気を保ちながらも、最後は自らの手で帝都の城門を閉ざし、反乱軍を率いて兄を断罪した、旧皇族の生き残り(第49話)。


列席者たちの視線が集中する中、階段の下から、静かに一人の少女が歩み出てきた。


身に纏うのは、泥の飛沫一つついていない、純白のシルクに銀糸の刺繍を施した豪奢なドレス。

胸元には、衣服の下に隠された【神気の護符】(第33話)が、ヴァレリアとの絶対の主従の絆を示すかのように、淡く紫紺の光を脈打たせている。

その白銀の豊かな髪を揺らしながら、セシリアは一分の乱れもない気品に満ちた足取りで階段を登り、演壇の中央――ヴァレリアの真ん前まで進み出た。


そして――何のためらいもなく。


サァッ……とドレスの裾を翻し、大理石の床の上に両膝を折り、ヴァレリアの足元へと平伏したのだ。


「あ……」

旧帝国の貴族たちが息を呑む。

旧皇室の血を引く正統な皇女が、かつて生贄として追放された公爵令嬢の靴先に、文字通り額を擦り付けて臣従の礼を捧げている。


セシリアは恭しく両手を差し伸べると、ヴァレリアが差し出した白磁の手の甲を、自らの両手で震えながら受け止めた。

そして――その冷涼な手の甲へ、自らの唇をそっと押し当て、熱狂と敬愛に濡れた誓いの言葉を紡ぎ出したのである。


「――我が主、ヴァレリア様」


セシリアの声は、大広間に澄み渡り、凛として響き渡った。


「愚かな我が一族が犯した万死に値する大罪を雪ぎ、この荒廃せる大地に真なる光をもたらす機会を賜りましたこと、魂の底より感謝申し上げます。……この命、この身体、この血統の最後の一滴に至るまで、貴女様に捧げ尽くすことを誓います。我が唯一の絶対神たるヴァレリア様、そして我が祖国を新たに迎え入れてくださったカイザーライヒ帝国の繁栄のために――命を賭して、この属州を治め上げてご覧に入れます」


「……よく言いましたわ、セシリア」


ヴァレリアは微笑み、扇子の先でセシリアの華奢な顎をすくい上げ、顔を上げさせた。

至近距離で交錯する、紫紺の双眸と、狂信的な忠誠を宿す菫色の瞳。


第32話において、黒曜宮の謁見の間で交わされた『毒杯の契約』。

兄ユースティスを煽り立てて自滅させ、祖国を内側から食い破る手駒となる代わりに、生き残りと統治権を与えるという過酷な投資。

セシリアはその試練を完璧に完遂し、いまや、旧皇族の正統性を担保しながらも、ヴァレリアの意のままに動く「最高の手駒」として、属州総督の座を手に入れたのだ。

敵対勢力の血筋を根絶やしにするのではなく、完全に飼い慣らして自らの統治機構の歯車へと組み込む――冷徹にして完璧な政治的リアリティ。


「立ちなさい、セシリア総督。貴女の働き、期待しておりますわ」


「ははっ……!」

セシリアは涙を浮かべながら立ち上がり、深々と一礼した。


その瞬間、大広間の壇上へ、女軍師ヒルデガルトがバインダーを抱えて進み出た。

眼鏡の位置を直し、ヒルデガルトは居並ぶ諸侯と大商工ギルドの長たちを見据え、冷徹な事務的演説を開始した。


「――これより、ルテティア属州復興に向けた『即日施行令』を布告いたします」


ヒルデガルトの細身の指揮棒が、背後に掲げられた巨大な帝都全図をカツンと叩いた。


「第一条。カイザーライヒ帝国本国より事前に手配されておりました、穀物二十万トン、並びに生鮮食糧を積載した大輜重船団が、すでに帝都の外港へと入港を開始しております。本日正午より、帝都全二十四区の配給所において、全市民へ向けた無償の食糧配給を即時開始いたします」


「おお……っ!?」

市民代表団の間から、どよめきが上がった。二十万トンの食糧。公爵領の麦が全滅し、飢餓に苦しんでいた数万の民を、一瞬で救済する天文学的な物資。


「第二条。神殿調剤部が独占し、不当に高騰させていた解毒薬および抗生魔導薬の全備蓄を接収、即刻無償開放いたします。同時に、カイザーライヒ宮廷魔導軍団の医療部隊五百名を市内へ展開し、黒瘴気による熱病患者の治療を無償で行います」


「第三条。カイザーライヒ大銀行の主導のもと、旧大聖堂が発行していた不正宗教債をすべて破棄し、凍結されていた市民の個人資産を百パーセント補償・払い戻しいたします。さらに、大商工ギルド連合との間に新たな免税通商条約を即日締結し、帝都の商業活動を完全に復興させます」


間髪を容れぬ、電撃的な復興政策の連打。

軍事力で制圧した後に民を飢えさせる旧弊の侵略者とは、完全に別次元の統治能力。

ヴァレリアが第11話において提示した「軍を動かさず、経済と兵站で自滅させ、然る後に富をもって完全に掌握する」という国家解体シミュレーションが、ヒルデガルトの手腕によって、寸分の狂いもなく完璧に現実のものとなったのだ。


さらにその時、壇上の斜め後方から、白銀の祭服を着崩した元筆頭司教マティアスが進み出た。


「旧神殿の腐敗した教義は、本日をもって永久に破門といたします」

マティアスは陶酔の笑みを浮かべ、手にした旧神殿の教典を火炎魔導具で燃やしてみせた。

「神などただの妄想。……十年間、自らの身を削ってこの都の穢れを受け止め、最後は自滅する愚者たちから民をお救いになられた真なる生ける女神――ヴァレリア様こそが、この大陸の唯一無二の信仰の対象でございます!」


マティアスの宣言は、旧神殿の残党たちの口を完全に封じ、宗教的な正当性すらもヴァレリアの手中へと完璧に収斂させた。


***


式典の模様は、宮殿の外――帝都全土へと設置された大型の投影魔導具を通じて、リアルタイムで中継されていた。


大広間の重厚な窓の外から、地鳴りのような歓声が押し寄せてきた。


『食糧が届いたぞ……! 麦だ! 白いパンが配られている!!』

『薬だ! 子供の熱が下がったぞ!!』

『セシリア様万歳! カイザーライヒ万歳ッ!!』

『ヴァレリア様……! 奇跡の聖女ヴァレリア様、万歳ッッ!!』


帝都を揺るがす、十万の市民たちの熱狂的な歓呼の嵐。

昨日まで飢えと疫病に怯え、暴徒化していた民衆が、一夜にして新体制への絶対的な支持者へと生まれ変わっていた。

血統の正統性を持つセシリアが表に立ち、カイザーライヒの圧倒的な物資が民を潤し、そのすべての頂点にヴァレリアが君臨する。

一片の反乱の余地すら残さぬ、完璧なる属州統治体制の確立。


式典が滞りなく終了し、要人たちが次々と退出していく中。

静まり返り始めた壇上において、ヴァレリアは手にした扇子をパチンと閉じ、窓の外――熱狂に沸く帝都の街並みを、冷ややかに見下ろしていた。


「……ふふ。退屈な事務手続きも、ようやく片付いたようですわね」


ヴァレリアの涼やかな独白に、背後から近づいてきた男がいた。


皇帝コンラート。


男は歴戦の覇気を隠そうともせず、大股でヴァレリアの真横まで歩み寄ると――躊躇うことなく、その逞しい右腕を、ヴァレリアの引き締まった細い腰へと、力強く滑り込ませたのだ。


「きゃっ……」

背後に控えるグレーテの眉毛がピクリと跳ね上がり、暗殺者キリアンがダガーを抜きかけ、魔王ヴォルフラムが黒炎を燻らせる。


だが、コンラートは怪物たちの殺気など歯牙にもかけず、ヴァレリアの腰を引き寄せ、その美しい横顔を至近距離から覗き込んだ。

琥珀色の双眸に、獲物を完全に仕留めた猛獣の如き、獰猛にして熱烈な光を宿している。


「見事だったぞ、ヴァレリア。……旧帝国を解体し、属州として組み込み、民衆の心を初日で完全に掌握してみせた。君の頭脳は、やはり俺の想像を遥かに超えて美しい」


コンラートの低い、熱気を帯びた吐息が、ヴァレリアの白磁の耳元をチリリとくすぐる。

ヴァレリアは腰に回された腕を払うこともせず、ただ冷ややかに片眉を跳ね上げ、男の顔を見据えた。


「あら……人前で気安く触らないでいただけますこと? 覇王様。わたくしは貴方の臣下になった覚えなど、毛頭ございませんけれど」


「分かっているさ」

コンラートは不敵に口角を吊り上げ、さらにヴァレリアの腰をぐっと引き寄せた。

その距離、わずか数センチ。歴戦の覇王の熱い体温が、ドレスの薄いシルク越しにヴァレリアの肌へと伝わってくる。


「君をただの臣下に収める気など、最初からこれっぽっちもない。……約束通り、外枠(・・)はすべて整ったぞ。ガルディニアは消滅し、大陸の覇権は完全に俺たちの手中にある」


コンラートは視線を落とし、ヴァレリアの艶やかな紅唇を見つめながら、低く、甘美極まる声で囁いた。


「――外枠は整った。次は、俺たちの番だ」


男の言葉に込められた、あまりにも強烈な覇道の野心と、ヴァレリア個人への底知れぬ執着。

新世界を統べる絶対の二頭政治。

そして――大陸全土を揺るがす、次なる至高の舞台への宣告。


ヴァレリアは紫紺の双眸を妖艶に細め、扇子の先でコンラートの胸板を軽く突き放すようにしながら、極上の冷酷さを湛えて微笑んだ。


「ふふ……楽しみに待っておりますわ、コンラート陛下」


旧帝国の瓦礫の上で、二人の支配者が交わす視線。

祖国ガルディニアの滅亡という前座は、いま完全に幕を下ろした。

そして物語は――大陸の頂点において、ヴァレリアが唯一無二の『共同皇帝』として戴冠を果たす、真なる覇道の極致へと、華麗に歩みを進めようとしていた。

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