第53話:浅ましき命乞い 〜泥濘に咲く毒の花と、鎖に繋がれし道化の求愛〜
千年の栄華を誇ったガルディニア宮殿の象徴――『黄金の玉座の間』。
かつて大陸中原の富と権力を誇示するため、天頂には純金で鋳造された巨大なシャンデリアが輝き、白大理石の百本の円柱には歴代皇帝の戦勝を描いたタペストリーが隙間なく飾られていたその大空間は今、見る影もなく荒廃し、死せる巨獣の胎内のような陰鬱な静寂に支配されていた。
大階段のパレード崩壊(第12話)、大聖堂の炎上(第19話)、そして帝都の地下水路から噴き上がり続けた黒瘴気の残滓によって、かつて輝いていた純金の装飾はドス黒く酸化し、煤と埃をかぶって鈍い鉛色へと変わり果てていた。
天窓のステンドグラスは吹き荒れた暴徒の投石によって無残に割れ落ち、吹き込んでくる冷たい秋風が、床に敷き詰められた深紅の絨毯を湿った泥水で濡らし、饐えた悪臭を漂わせている。
その玉座の間の最奥――歴代皇帝が天下を睥睨してきた九段の大理石階段の最上段。
かつて父皇帝アウグストが座り、直前には自らを「新世界の皇帝」と狂信したユースティスがふんぞり返っていた純金の玉座の前に、一人の女性が立っていた。
ヴァレリア・フォン・アルトハイム。
地下牢へ偽聖女マリアベルを放り込み、十年の呪詛をすべて押し付けてきたばかりの(第52話)その姿は、血腥い玉座の間において、異様なまでの神々しさと冷艶な威圧感を放っていた。
身に纏うのは、夜の帳と星屑を織り上げたような、深い漆黒と群青のシルクドレス。
最高司教ベネディクトの即死呪詛を呑み干し(第21話)、平原で放たれた数万の弾幕を【因果反跳】の燃料として昇華させた(第47話)ことにより、彼女の纏う神聖魔力は、もはや神話の女神すら凌駕する領域に達していた。
傷一つない白磁の肌は内側から透き通るような淡い燐光を放ち、濡れたように艶やかな黒髪は、冷たい宮殿の隙間風を受けて優雅に波打っている。
右手に持った白骨の扇子をパチンと閉じ、胸元の【因果の天秤】を黄金色に微かに脈動させながら、彼女は紫紺の双眸を、玉座の階段の下――大理石の床へと冷徹に投げ下ろしていた。
ヴァレリアの背後には、絶対の怪物たちが威風堂々と侍っていた。
左脇には、歴戦の傷跡を刻んだ精悍な美貌に冷徹な覇気を湛え、腰の古代魔剣の柄に手をかけるカイザーライヒ帝国皇帝コンラート。
右脇には、黒銀の長髪を揺らし、金色の瞳を縦スリットの凶眼へと細めて不快そうに牙を剥く原初の魔王ヴォルフラム。
階段の脇には、濃紺の侍女服に乱れ一つなく、陶器の仮面の如き無表情で控える筆頭侍女長グレーテ。
そして、玉座の間の入り口には、新秩序の「属州総督」となるべく控える第二皇女セシリアと、女軍師ヒルデガルトが整然と立ち並んでいた。
――そして。
その神話の玉座を見上げる階段の最下層、泥水とガラス片が散乱する床の上に、無残に転がされていたのは――元第一皇太子、ユースティス・フォン・ガルディニアであった。
「ぐ……っ、あ……あぁ……っ」
ガシャララッ……!!
重厚な鉄の擦れ合う音が、静まり返った広間に惨めに響き渡った。
ユースティスの首には、牛や豚を繋ぐための太さ三寸の『魔力封じの鉄枷』が嵌められ、手首と足首には、歩行すら阻害する重い鉄の鎖が巻き付けられていた。
城門前において、怒れる民衆の投石と泥水によって散々に打ちのめされ(第50話)、全身の皮膚は赤黒く腫れ上がり、引き裂かれた軍服の隙間からは乾いた血液と泥が混ざり合って異臭を放っている。
何より無残だったのは、大階段の転落(第12話)と赤鷲平原の爆撃(第48話)によって粉砕された鼻腔と、へし折れた両足であった。
折れた膝の骨が皮膚を突き破りそうに歪み、立ち上がることすら叶わず、男は泥水に濡れた絨毯の上を、まるで内臓を抉られた蛆虫のように、ただ這いずり回るしかなかった。
そのユースティスの項の真後ろ。
音もなく影のように佇んでいたのは――裏社会を統べる銀髪碧眼の少年、暗殺ギルドの頭領キリアンであった。
キリアンは、抜き身のダガーの鋭利な切っ先を、ユースティスの首筋の頸動脈へ、皮膚をわずかに切り裂いて血が滲むほどの力加減で、ピタリと押し当てていた。
少年は無表情のまま、冷酷極まる碧眼でユースティスの後頭部を見下ろし、指先をピクリとも動かさない。
ヴァレリアから合図が一つ下されれば、コンマ一秒でこの男の首を刎ね落とせる体勢。
「ひ……っ、ひぐっ……」
ユースティスは、首筋に触れる冷たい鋼鉄の刃に全身の毛穴を逆立てながら、必死に顔を持ち上げた。
前歯のほとんどが叩き折られ、血と泥で濁った口から、ヒュー、ヒューと浅い呼吸が漏れ出る。
その血走った眼球が、九段の大理石階段の頂――純白の神気を纏い、自分を見下ろすヴァレリアの姿を捉えた瞬間。
ビクゥゥッ!!と、男の背筋が激しく跳ね上がった。
(あ……あぁ……ヴァレリア……!)
男の脳裏に、かつての記憶が走馬灯のように駆け巡った。
十年間、地下牢で泥水を啜らせ、自らが「薄汚いドブネズミ」と嘲笑い、処刑谷の深淵へ蹴り落としたあの娘(第1話、第2話)。
それが今、手の届かない雲の上の玉座に立ち、皇帝を従え、魔王を侍らせ、傷一つない白磁の肌と絶世の美貌を輝かせて、自分を見下ろしている。
恐怖。
圧倒的な敗北感。
だが――その底知れぬ絶望の底で、ユースティスの矮小で腐りきった脳髄は、信じがたい「都合のいい妄想」へと縋り付いたのだ。
(そうだ……! ヴァレリアは、私の元婚約者だ! 十年間、あいつは私のために地下牢で耐えていたのだ! あいつが私を愛していないはずがない! 私が優しく微笑み、抱きしめてやれば……あいつは昔のように、私の足元に傅くはずだ!!)
自らの犯してきた残虐な仕打ち、階段から蹴落とした事実、数万発の砲弾を撃ち込んで消滅させようとした現実(第45話)――そのすべてを、己の都合のいい健忘症によって都合よく消し去り、保身のためだけに「過去の愛情」を捏造する、究極の自己保身。
ユースティスは、泥まみれの手を大理石の階段へ伸ばした。
キリアンのダガーが首の皮を裂き、鮮血がツーッと流れるのも構わず、男は階段を這い上がり、一段目の大理石に額を擦り付けた。
「ヴァ……ヴァレリア……!!」
ユースティスの喉から、掠れた、だが甘ったるく媚びへつらうような声が絞り出された。
男は腫れ上がった両目から大粒の涙をポロポロとこぼし、鼻水と血を泥水の中に垂れ流しながら、天を仰ぐようにしてヴァレリアを見つめた。
「ヴァレリア……! すまなかった……! 私が悪かった、私が愚かだったのだぁぁっ!!」
広間に響き渡る、情けなくも芝居がかった絶叫。
ユースティスは両手を祈るように組み、壊れた玩具のように何度も何度も大理石の床に額を打ち付けた。
ゴン! ゴン!と鈍い音が響き、額の皮膚が裂けて血が階段を赤く染める。
「すべて……すべてマリアベルに唆されたのだ! あの悪魔のような女が、私に毒を盛り、幻術をかけ、私の正気を奪っていたのだよ! あいつが貴女を妬み、貴女を陥れるために私を操っていたのだ! 私は……私は操り人形に過ぎなかったのだ、ヴァレリアぁっ!!」
すべてを、先刻地下牢へ放り込まれた偽聖女のせいにする。
自らの意志で婚約破棄状を叩きつけ、自らの軍靴で背中を崖下へ蹴り落とした男が、平然と「操られていた」と嘘を吐いたのだ。
ユースティスは、さらに階段を這い上がろうと折れた足を引きずり、恍惚とした狂気の光を瞳に宿して叫び続けた。
「私の心には……私の魂には、ずっと貴女しかいなかった! 十年間、地下牢で苦しむ貴女を想い、私は毎夜涙を流していたのだ! 貴女のその美しい黒髪も、その紫紺の瞳も、すべて私の宝物だった! 愛しているんだ、ヴァレリア! 今でも、世界中の誰よりも貴女を愛しているのだぁぁぁっ!!」
愛。
十年間、生贄として放置し、泥水を啜らせ、最後は谷底へ蹴り落として殺そうとした男が、泥を啜りながら口にしたその二文字。
「やり直そう、ヴァレリア! もう一度、昔のようにやり直そうじゃないか!」
ユースティスは涎を撒き散らしながら、満面の笑顔を作って両手を広げた。
「カイザーライヒの軍勢を追い払い、私と貴女で、このガルディニア帝国を新しく治めるのだ! 貴女をこの国の唯一無二の皇后にしてあげる! 私の隣の玉座を貴女に差し上げよう! 二人でこの大陸の頂点に立つのだ! なあ、ヴァレリア……私の愛しき花嫁よ、私の手を取っておくれぇぇぇっ!!」
言語道断。
厚顔無恥。
人間の浅ましさと醜悪さを煮詰めて凝縮したような、あまりにも身の程知らずな命乞いの演説。
「…………」
玉座の間を支配したのは、息を呑むような完全なる氷結であった。
そのあまりに唾棄すべき戯言に、階段の上に立つ怪物たちの殺気が、一瞬にして臨界点を突破した。
――ボッッッッ!!!!
ヴァレリアの右脇で、原初の魔王ヴォルフラムの全身から、数千度の黒炎が天を衝くように噴き上がった。
大理石の柱が熱波でパキパキとひび割れ、室温が一瞬にして沸騰する。
ヴォルフラムは黒銀の長髪を逆立て、金色の双眸を凶眼へと変貌させ、鋭利な爪をユースティスの頭蓋目掛けて伸ばした。
「……羽虫風情が」
空間を震わせる、地獄の底からの重低音。
「我が至高の神……我が唯一無二の絶対の主に向かって、その汚らわしい豚の舌で『愛』などとほざくか……!! 貴様のその穢れた舌を喉仏ごと引き抜き、四肢を一本ずつミンチにして、我が黒炎で永遠に焼き苛んでくれるわァッ!!」
さらに、ユースティスの背後にいた銀髪の少年キリアンの碧眼から、感情のすべてが蒸発した。
少年の手にしたダガーが、ユースティスの首筋に深く食い込み、筋繊維をプチリと断ち割る。
キリアンは感情のない、人形のような冷たい笑みを浮かべ、玉座のヴァレリアを見上げた。
「……ヴァレリア様。今すぐ、この男の首を刎ねてもいいですか? 耳を削いで、鼻をくり抜いて、目玉をスプーンで抉り出してから……骨を一本ずつ砕いて敷物に加工してあげます」
左脇の皇帝コンラートもまた、冷酷無比な瞳で腰の魔剣の鯉口を切り、抜き放とうとしていた。
「救いようのないクズだな。……生かしておく価値すらない。我が帝国の軍馬の足に縛り付け、帝都中を引きずり回して肉塊に変えてやる」
世界最高峰の三つの殺気。
魔王の滅びの黒炎、暗殺者の絶対の刃、覇王の断罪の剣。
その三つの死の圧力が、階段の下で泥に塗れるユースティスへと、一斉に牙を剥いた――まさにその刹那であった。
スッ……。
玉座の前で、ヴァレリアが、右手の白骨の扇子を静かに宙へと掲げた。
たったそれだけの、優雅極まる所作。
ピタリ。
その瞬間、ヴォルフラムの噴き上がっていた黒炎が嘘のように鎮火した。
キリアンのダガーが首筋から寸分狂わず静止し、コンラートが魔剣の柄から手を離した。
世界を滅ぼす怪物たちが、絶対の女帝の指先一つの動きに、完璧な規律をもって沈黙し、一歩身を引いたのだ。
「…………」
静寂が戻った玉座の間。
階段の下で、首から血を流しながらガタガタと震えるユースティスは、ヴァレリアが男たちを制止した光景を見て、その瞳に一筋の「希望」を宿した。
(と、止めてくれた……! あいつらを止めてくれたぞ……! やはり、ヴァレリアは私のことが好きなのだ! 私の命を助けてくれる気なのだ!!)
哀れな道化は、泥まみれの顔に歓喜の笑みを浮かべ、階段を見上げた。
そして――。
その必死に縋り付く元婚約者の姿を、階段の上から見下ろしていたヴァレリアの表情が。
ふ、と。
柔らかく、艶やかに、綻んだ。
彼女は手にした扇子で口元を覆い、喉の奥をくすぐられたかのように――。
「……ふふ」
小さな、鈴を転がすような笑い声。
それが、一段、また一段と高まり。
「……ふふふ……あはははは! あーっはっはっはっは!!」
玉座の間のステンドグラスの破片を震わせるほどの、極上の、そして完全なる侮蔑を込めた哄笑が、広間全体へと響き渡ったのである。




