第52話:因果の檻、地下牢の交代 〜泥濘に堕ちし偽聖女と、十年の呪詛蠢く暗黒の石牢〜
ガルディニア大聖堂の廃墟は、かつて神の栄光を誇示した白亜の巨塔が崩落し、黒焦げの梁と砕け散ったステンドグラスの破片が累々と積み重なる、巨大な墓標の如き静寂に包まれていた。
地上に立ち込めていた秋霖の雨煙は、崩壊した大聖堂の吹き抜けから冷たい霧となって地下へと流れ込み、饐えた灰の臭気と、地底深くから絶え間なく湧き上がる霊的汚泥の腐敗臭を濃密に掻き混ぜている。
その廃墟の最奥――瓦礫を掻き分けた先に口を開けていたのは、かつて大聖堂の幹部神官たちですら立ち入ることを忌み嫌った、地下最深部へと続く『百段の螺旋階段』であった。
ジャラ……ジャララッ……!!
湿り気を含んだ冷たい黒石の階段に、重厚な鉄の擦れ合う金属音が、引きずられる肉の擦過音と共に不気味に反響していた。
「嫌……! 嫌ぁぁっ! 離して、離しなさいよ、この薄汚い兵隊どもがァッ!!」
鼓膜を劈く金切り声を上げながら、階段を一段、また一段と下へと引きずり落とされていたのは――新聖女マリアベル・ローランであった。
その全身には、太さ三寸にも及ぶ極太の『破魔と呪縛の鉄鎖』が、幾重にも、骨が軋むほどきつく巻き付けられていた。
城門前の広場において、元専属侍女エマをはじめとする怒れる民衆によって泥水を浴びせられ、糞尿のヘドロを頭から叩きつけられた(第50話)大祭服は、いまやボロ雑巾のように引き裂かれ、泥と汚物に塗れた半裸の肌を無様に晒している。
チリチリに縮れ焦げた金髪は、泥水で固まって悪臭を放ち、大聖堂の爆発事故と酸の雨によってドロドロに溶け崩れた顔面右半分の爛れ肌からは、黄色い膿と血の混ざった滴が、階段の石畳へと点々と零れ落ちていた。
「痛い! 背中をぶつけたじゃない! 私を誰だと思っているの!? 神に選ばれし光の聖女マリアベル様よ!! 早くこの鎖を解きなさい! 宮殿へ連れて行きなさいよぉぉっ!!」
マリアベルを両脇から引きずる二名のカイザーライヒ帝国兵は、その狂乱の喚き声を完全な無音として聞き流していた。
歴戦の兵士たちの漆黒の甲冑には一片の迷いもなく、ただゴミ袋を引きずるかのように淡々と、階段の暗闇の底へと女を引きずり下ろしていく。
階段を下るごとに、気温は目に見えて低下していった。
肌をチクチクと刺す、針のような冷気。
そして――呼吸をするたびに肺胞を焼くような、濃厚極まりない『黒瘴気』の重圧。
十年間、ヴァレリアという絶対の防壁が取り払われたことで、帝都全土の地下水脈から逆流し、いまやこの地底の底に滞留し続けている、国家規模の呪詛の澱み。
やがて――兵士たちの足が止まった。
百段の階段を降り切った先、地下水路のせせらぎすら届かぬ最深部の突き当たり。
そこに据え付けられていたのは、人の背丈の二倍はある、分厚い魔導鋼鉄で鋳造された『封呪の鉄扉』であった。
表面には、古代の封印呪文が禍々しく刻み込まれ、錆びついた三重の閂が、冷たい湿気を帯びて鈍く光っている。
ギギギギギ……ッ!!
兵士の一人が太い鉄の鍵を差し込み、力任せに回した。
数ヶ月間、あるいは十年間、開閉されるたびに生贄の絶望を吸い込んできた重厚な扉が、断末魔の如き軋み音を立てて内側へと押し開かれる。
ドサリッ!!
兵士たちは鎖で縛られたマリアベルを、まるで屠殺場へ放り込む家畜の如く、鉄扉の向こう側の冷たい石畳の上へと無造作に投げ捨てた。
「ぎゃあっ!?」
マリアベルは泥水の中に顔面から叩きつけられ、激痛に叫び声を上げた。
擦りむけた額から鮮血が滲み、鼻腔の奥に飛び込んできたのは――地上のいかなる汚水溜まりすら足元に及ばない、死と腐敗、そして幾万の人間の怨嗟が凝縮した、吐き気を催すほどの瘴気のアロマであった。
「オエッ……! ゲホッ、ゲホッ……! な、何なのよ、ここ……!?」
マリアベルは涙と鼻水を垂らしながら、必死に顔を持ち上げた。
その青い瞳が、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる牢内の光景を捉えた瞬間――女の全身の血液が、一瞬にして凍りついた。
そこは――十歩四方の、光の一筋すら差し込まぬ『封呪の石牢』であった。
天井からは、有毒な鉱物を含んだ冷たい水滴が、ポツリ、ポツリと絶え間なく落ちてくる。
床一面には、何年もの間に染み付いた黒瘴気のヘドロが黒い油膜のように広がり、四方の湿った石壁には、禍々しい紫黒色のカビがびっしりとこびりついている。
だが――何よりもマリアベルの魂を狂乱させたのは、その石壁と床の至る所に刻まれていた『無数の生々しい傷跡』であった。
壁の低い位置。
人間が激痛に耐えかねて、爪を立て、肉を削ぎ落としながら掻きむしったとしか思えない、幾千、幾万条もの爪痕。
石畳の窪みには、かつて何年にもわたって吐き出され、固まり、黒ずんでこびりついた大量の血反吐の染み。
そして、部屋の中央に打ち込まれた太い鉄杭――かつて十歳の少女の華奢な手足を縛り付け、十年間一度たりとも外されることのなかった、錆び付いた手枷と足枷。
壁に残る爪痕の隙間からは、今なお、チリチリと青白い霊的火花が爆ぜ、大聖堂の地下魔導炉が吐き出す致死性の黒瘴気が、蛇のように鎌首をもたげて床を這い回っている。
「ひ……っ、ひぃぃぃっ……!?」
マリアベルの喉から、引き攣った悲鳴が漏れた。
知っていた。
大聖堂の最高幹部たちから、かつて聞かされていたのだ。
この地下最深部に、アルトハイム公爵家の長女が幽閉され、帝国のすべての穢れをその華奢な肉体で受け止めさせられているという事実を。
だが、それは書類の上の数字、遠い昔のおとぎ話程度にしか思っていなかった。
まさか――それが、これほどまでに凄惨で、これほどまでに狂気に満ちた、生きたまま地獄の業火に焼かれ続ける底知れぬ拷問部屋であったなどとは。
「嫌……! 出して、ここから出してぇっ!!」
マリアベルは鎖をジャラジャラと鳴らし、折れた指先で泥を掻きながら、開かれた鉄扉へ向けて這いずり寄ろうとした。
「暗い! 臭い、息ができない! こんなところにいられるわけないでしょうがぁぁっ!!」
――しかし。
マリアベルが鉄扉の敷居に指をかけるよりも早く。
パチ、パチ、パチ……。
暗黒の階段の奥から、静かに松明の明かりが揺れ動いて近づいてきた。
立ち込めていた黒瘴気の霧が、その光の接近を恐れるかのように、サーッと左右へと割れていく。
現れたのは――筆頭侍女長グレーテであった。
漆黒の暗殺者特有の無音の足取りで歩み寄ってきたグレーテは、手にした銀の燭台を石牢の壁のフックへと静かに掲げた。
そして、胸元から純白の布を取り出すと、石牢の隅に置かれていた、かつて監視役の神官が腰掛けていたとおぼしき古い樫の木の椅子を、埃一つ残さぬよう完璧に拭き清めたのだ。
続けて――。
カツン、カツン、と。
石段を踏み鳴らす、あまりにも澄み渡った、硬質にして気高き足音が響き渡った。
「…………っ!」
マリアベルの息が止まった。
鉄扉の向こう、闇の帳を切り裂いて姿を現したのは――ヴァレリア・フォン・アルトハイムであった。
身に纏うのは、夜の帳と星屑を織り上げたような、深い群青と漆黒の豪奢なシルクドレス。
肩には、カイザーライヒ皇室の至宝たる真紅のストールを優雅に羽織り、胸元と背中が緩やかに開かれた意匠は、彼女の透き通るような白磁の肌の滑らかさを、松明の火影の下で神々しく際立たせている。
濡れたように艶やかな黒髪は、冷涼な地下の空気の中でも一片の乱れすら見せず、紫紺の双眸は、手にした白骨の扇子を弄びながら、床に這いつくばるマリアベルを――まるで、泥溝に転がる腐肉を眺めるかのような、絶対の退屈と冷徹さを湛えて見下ろしていた。
ヴァレリアは、グレーテが整えた木製の椅子へと、優雅に腰を下ろした。
脚を組み、真紅のストールを指先で軽く払う。
世界を滅ぼす魔王や覇王すら傅かせる絶対の女帝が、かつて自らを十年間閉じ込めていた地獄の檻の中心で、何一つ揺らぐことなく君臨していた。
「あ……あぁ……っ、ヴァレリア……様……っ!」
マリアベルは床に額を擦り付け、鎖を鳴らしながら、涙と鼻水を撒き散らしてすがりついた。
かつて第2話において、処刑谷の崖の上でヴァレリアの耳元に「あなたの地位もユースティス様も、全部私のものよ」と嘲笑を落とし、階段から突き落とした近衛騎士に大歓声を上げていた女(第12話)。
その傲慢な仮面は木っ端微塵に砕け散り、ただ自らの命を乞うためだけに、汚れた舌を必死に回していた。
「お助けください、ヴァレリア様……! 私が愚かでした! 私が浅ましゅうございました!! 貴女様の地位を奪い、聖女を名乗ったこと、万死に値する大罪ですわ! ですが、私をこんな穴倉に閉じ込めないでください! 私、死んでしまいます! この瘴気に触れただけで、肌が焼けて、息が詰まって死んでしまいますのよぉぉっ!!」
マリアベルは両手で自らの爛れた喉を掻きむしり、泡を吹いて叫んだ。
魔力回路を焼き切られ(第47話)、ただの無力な生身の肉体となった女にとって、この地下牢に充満する高濃度の黒瘴気は、呼吸するだけで肺胞を内側から腐食させる劇薬そのものであった。
その必死の命乞いを、ヴァレリアは長椅子の上から、ただ静かに見つめていた。
怒りも、憎悪も、嘲弄すらも浮かべない、絶対零度の静謐。
やがて――。
パチン。
ヴァレリアが手にした扇子が、心地よい乾いた音を立てて閉じられた。
スッ……と。
ヴァレリアは身を屈めると、閉じた白骨の扇子の先端を、床に這いつくばるマリアベルの額の傷口へと――冷たく、容赦なく突き立てたのだ。
「ひっ……!?」
扇子の骨が傷口に食い込み、マリアベルが激痛に身体を硬直させる。
「……何を泣き喚いているのかしら? マリアベル」
ヴァレリアの唇から零れ落ちたのは、耳元を甘く撫でるような、だが魂の奥底まで凍てつかせる美しき毒の声音であった。
「貴女が望んだのでしょう? ――この『聖女の座』を」
「あ……」
マリアベルの喉が、息を呑んで詰まった。
「十年前、大聖堂の神官たちが私をこの檻へ連行した時、彼らは言いましたわ。『聖女とは、帝国の繁栄のためにすべての穢れを引き受ける、尊き神の器である』とね」
ヴァレリアは扇子の先端をわずかに押し込み、マリアベルの爛れた顔面を上へと向けさせた。
至近距離で交錯する、紫紺の双眸と、恐怖に引き攣る青い瞳。
「貴女は、その聖女の称号を欲しがり、私の功績を横取りし、豪奢なドレスを着て、皇太子の腕に抱かれ、民衆からの賛美を貪り尽くしました。……ならば、相応の『お仕事』をしていただかなくては不公平というものでしょう?」
「お、お仕事……!?」
マリアベルの声が震える。
「ええ」
ヴァレリアは艶やかに微笑み、扇子の先をマリアベルの喉元、そして胸の中央へと滑らせた。
「聖女の最も重要にして、唯一にして、最大の務め――この大地の下から湧き出るすべての呪詛、毒、そして黒瘴気の『肩代わり』ですわ」
「い、嫌ぁぁぁっ!!」
マリアベルは首を狂ったように横に振った。
「無理よ! そんなの無理よ!! 私には魔力がないの! 治癒魔法すら使えないただの人間なのよ! こんな瘴気を吸い続けたら、一日も持たずに内臓が腐って死んでしまうわぁぁっ!!」
「あら、ご安心なさい」
ヴァレリアは小さく吹き出し、扇子をパチンと鳴らして手元に戻した。
「貴女が一日で死んでしまっては、私の十年間が浮かばれませんもの。……この石牢の結界は、すでに私の【深淵の統御権】によって再構成してありますわ」
ヴァレリアの紫紺の瞳の奥で、黄金の神気が妖艶に瞬いた。
「この檻の中では、貴女の魂は肉体と完全に縫い留められます。どれほど肺が爛れようと、どれほど皮膚が黒カビに覆われようと、どれほど内臓が激痛で裏返ろうと――決して死ぬことは叶いません。肉体が腐敗の臨界に達するたび、結界が貴女の細胞を強制的に再生させ、再び最初から激痛を味わわせ続ける……永遠の生命の檻ですのよ」
「ひ……ひぃぃぃっ……!? 化け物……! 貴女、狂っているわ! 悪魔よ、本物の悪魔よぉぉぉっ!!」
マリアベルは発狂したように叫び、床を爪で掻きむしった。
死ぬことすら許されない。
逃げ場のない暗闇の中で、永遠に内臓を腐食させられ、再生させられ、激痛の中で蠢き続ける拷問。
自分たちが十年間、この黒髪の少女に強いていた仕打ちの真実が、そのまま何倍もの質量となって、己の肉体に永遠の鎖となって巻き付けられたのだ。
「悪魔? ふふ……心外ですわね」
ヴァレリアはゆっくりと立ち上がった。
漆黒と群青のドレスの裾を優雅に翻し、一度たりとも床の汚物に触れることなく、鉄扉へ向けて歩み出す。
「他人の椅子を奪った泥棒が、その椅子に仕込まれた針の痛みに泣き喚くなど……滑稽にも程がありますわ。因果の天秤は、常に等価。貴女が貪った栄華の重さの分だけ、この泥の底で、たっぷりと親孝行――いえ、国孝行を果たしなさいな」
ヴァレリアは鉄扉の敷居を跨ぐと、背後を振り返ることなく、冷徹に命じた。
「――グレーテ。扉を閉めなさい」
「御意、我が主」
グレーテは一礼すると、白手袋の手を巨大な鉄扉の取っ手へと添えた。
「嫌! 閉めないで! 置いていかないでぇぇっ!!」
マリアベルは泥水を跳ね上げ、鎖を引きずりながら、必死に扉の隙間へと這いずり寄ってきた。
血塗れの指先が、敷居の石畳へと伸ばされる。
「ヴァレリア様! お姉様! 何でもします、何でも言われた通りにしますから! 靴を舐めます! 奴隷になります! だから……だからここから出してぇぇぇぇぇっっっ!!!!」
女の喉が引き裂けんばかりの絶叫。
だが、その哀願に応える慈悲など、世界のどこにも存在しなかった。
――ガギィィィィィンッッッッ!!!!
天地を隔絶するような、凄まじい鉄の衝突音が地下牢に響き渡った。
厚さ一尺の魔導鋼鉄の扉が、完全に閉じられたのだ。
ガチャン! ジャララッ! ドォンッ!!
三重の鉄閂が外側から無慈悲に打ち込まれ、古代の封印鎖が何重にも巻き付けられていく。
石牢の内部から、光という光が完全に遮断された。
漆黒。
完全なる暗黒の底。
ジュウウウウウウウウッッ……!!
扉が閉ざされた瞬間、石壁の四方から、待ち焦がれていたかのようにドス黒い瘴気の触手が噴き出した。
それは意志を持つ生きた毒蛇の如く、床に倒れ伏すマリアベルの足首へ、太ももへ、そして引き裂かれた白い肌へと、ジュクジュクと音を立てて食い込んでいく。
「ぎゃあああああああああああああああああっっっ!?!?!?」
皮膚が焼け爛れる。
血管の中に沸騰した油を流し込まれたような激痛。
暗黒の中で、マリアベルは自らの胸を掻きむしり、白目を剥いてのたうち回った。
かつてヴァレリアが十年間耐え抜いた、国家規模の呪詛の奔流が――今、この強欲なる偽聖女の肉体と魂を、永遠の糧として貪り始めたのだ。
鉄扉の向こう側から、狂乱の絶叫と、爪で鉄板を引っ掻く鈍い音が、絶え間なく木霊していた。
***
閉ざされた鉄扉の前。
薄暗い回廊に立つヴァレリアは、背後から響くマリアベルの断末魔に、耳を傾けることすらしなかった。
彼女は手にした扇子を軽く開くと、自らの艶やかな黒髪を夜風に揺らしながら、暗い地下階段を上へ向けて、一歩一歩、確固たる足取りで登り始めた。
傍らに控えるグレーテが、静かに歩調を合わせる。
「我が主。……哀れな家畜の収容、完了いたしました」
「ええ、ご苦労様、グレーテ」
ヴァレリアの紅唇が、月光のように冷涼に綻んだ。
十年間、自分を泥の中に縛り付けていた偽善の檻に、今度は元凶である偽聖女を永遠に閉じ込めた。
だが、彼女の心に去来していたのは、復讐を成し遂げた安堵などでは断じてなかった。
ただ――チェス盤の上の不要な駒を、本来あるべきゴミ箱の中へ正しく片付け終えただけの、絶対の静謐。
階段の踊り場。
吹き抜けてくる地上の微風を感じながら、ヴァレリアは振り返ることなく、冷酷極まる独白を落とした。
「――十年耐えられたら、お茶の一杯くらい奢ってあげますわ」
絶対の女帝の冷涼なる呟きは、地下の暗闇へと静かに溶け去っていった。
階段の先――地上の大聖堂の廃墟を抜けた先には、千年の歴史を誇ったガルディニア帝国の心臓部、『黄金の玉座の間』が待っている。
そこには、両足を折られ、泥水を啜りながら命乞いを準備しているはずの最後の道化――第一皇太子ユースティスが、自らに下される永遠の断罪の時を、震えながら待ちわびていた。




