第51話:真の聖女の凱旋 〜白亜の門扉を穿つ黒曜の車輪と、平伏せし十万の祈り〜
ガルディニア帝国の帝都ルテティアを外界から隔てていた、白亜の巨石で築かれた外郭城壁。
先刻まで、皇太子ユースティスと新聖女マリアベルの二人が泥水を啜り、投石と汚泥に沈められていた『双頭鷲の大城門』の前に、地響きを伴う巨大な機械仕掛けの軋み音が轟き渡った。
ギギギギギ……ッ、ズドォォォォンッ!!
天を衝くように高く跳ね上げられていた巨大な鋼鉄の跳ね橋が、自重によってゆっくりと下ろされ、深さ数十メートルの外堀を跨いで泥濘の平野へと叩きつけられた。
続けて、大木のような太さを持つ黒鉄の格子門が天頂へと巻き上げられ、幾重にも打ち込まれていた樫の城門の鉄閂が、内側からすべて引き抜かれていく。
ギィィィィィィ……と重々しい音を立てて、千年の歴史の中で一度たりとも外敵に破られたことのなかった白亜の巨門が、左右へと完全に押し開かれた。
城壁の頂上から階段を降り、開かれた城門のど真ん中に整然と並び立ったのは――第二皇女セシリアであった。
乱れ一つない純白のシルクドレスを纏い、胸元の【神気の護符】(第33話)に手を当てた若き皇女の背後には、裏社会を統べる銀髪の暗殺ギルド『影の旅団』の精鋭たち、そして胸に紫紺のリボンを結びつけた数千名の武装市民代表団が、一分の狂いもなく直立不動の姿勢で整列していた。
血の一滴すら流されていない。
矢の一本すら放たれていない。
かつて難攻不落と謳われた大帝国の帝都が、真なる支配者を迎え入れるために、自らその喉元を完全にさらけ出したのだ。
***
開かれた城門の正面――秋霖の雨煙を切り裂いて、威風堂々と進軍してきたのは、カイザーライヒ帝国軍五万の精鋭軍団であった。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……!!
大地を揺るがす軍靴の響き。
漆黒の重装板金鎧に身を固めた黒竜騎兵たちが、手にした長槍の穂先を天へと掲げ、左右に整然と展開して道を開ける。
その五万の黒鉄の隊列の中央を、滑るようにして進んできたのは――一台の、あまりにも異様にして豪奢を極めた馬車であった。
車体を構成するのは、深淵の底から引き揚げられたとされる太古の黒竜の骨。
漆黒の光沢を放つ黒曜石の装甲板には、微細な純白の神聖魔導陣が幾重にも彫り込まれ、車輪が泥濘を踏み締めるたびに、泥水を弾き飛ばす青白い燐光が美しく咲き誇っている。
屋根には、皇帝と同等の主権を示す漆黒と黄金の二重宝冠の意匠。
帝国のいかなる皇帝の輿すら足元に及ばぬ、絶対の覇王の御座船。
その黒曜の馬車が、跳ね橋を渡る手前――外堀の縁で、音もなくピタリと停止した。
「あ……あぁ……っ、ぐ……っ」
馬車の車輪のすぐ足元。
跳ね除けられた泥水の中に這いつくばり、白目を剥いて痙攣していたのは、第一皇太子ユースティスであった。
大階段の転落事故で粉砕された鼻は歪んだ肉塊と化し、折れ曲がった両足を引きずりながら、民衆の投石によって額から血をダラダラと流している(第50話)。
その隣では、チリチリに焼け焦げた金髪に糞尿のヘドロを浴びせられ、引き裂かれた大祭服から半裸の爛れた肌を晒したマリアベルが、泥水を啜りながら小刻みに震えていた。
カチリ。
静寂を破り、黒曜の馬車の扉が、内側から静かに押し開かれた。
出迎えたのは、筆頭侍女長グレーテであった。
濃紺の侍女服に乱れ一つなく、陶器の仮面の如き無表情のまま、グレーテは白手袋の手で馬車のステップへと、真紅の厚手の絨毯を敷き詰めた。
そして――。
車内の薄暗がりから、ゆっくりと、一人の女性がその姿を現した。
「…………っ!!」
城門の周囲を取り囲んでいた数千の市民、城壁の上の兵士たち、そして街道を埋め尽くしていた万の群衆の喉から、一斉に息を呑む音が漏れた。
ヴァレリア・フォン・アルトハイム。
馬車から降り立ち、真紅の絨毯の上にハイヒールの爪先を着地させたその女性の神々しさに、世界中のすべての言葉が意味を失った。
身に纏うのは、夜の帳と星屑を織り上げたような、深い群青と漆黒のシルクドレス。
最高司教ベネディクトの即死呪詛を呑み干し(第21話)、平原で放たれた数万の弾幕を【因果反跳】の燃料として昇華させた(第47話)ことにより、彼女の纏う神気は、もはや人間という種の限界を完全に超越していた。
傷一つない白磁の肌は、内側から透き通るような淡い神聖な光を放ち、泥や埃の粒子すら、彼女の肌に触れる前に微細な光となって霧散していく。
濡れたように艶やかな夜色の黒髪は、冷涼な秋風を孕んで優雅に波打ち、その毛先からは黄金の燐光が粉雪のように零れ落ちる。
そして――彫刻刀で削り出したかのように鋭利で、息を呑むほどに冷艶な美貌。
その中央に据えられた紫紺の双眸は、地上のいかなる権力、いかなる富すら眼中にないかのように、絶対の静謐と冷徹さを湛えて澄み渡っていた。
かつて、大聖堂の地下牢で泥水を啜り、「薄汚いドブネズミ」と罵倒されて処刑谷の深淵へ蹴り落とされたはずの生贄の娘(第1話、第2話)。
その面影など、塵芥ほども残されていなかった。
そこに立っていたのは――理不尽のすべてを自らの糧へと変え尽くし、世界をチェス盤として見下ろす、絶対の女帝そのものであった。
「ひ……っ!?」
足元の泥水の中からヴァレリアを見上げたユースティスの喉が、恐怖のあまりヒュッと引き攣った。
マリアベルが白目を剥き、恐怖のあまり呼吸すら忘れて硬直する。
だが、ヴァレリアは――。
自らの足元で泥に塗れる元婚約者と偽聖女の姿に、視線の一片すら向けなかった。
嘲笑うこともしない。
罵倒することもしない。
道端に転がる汚れた小石を踏み越えるかのように、完全に存在そのものを「無」として扱い、ただ優雅に白骨の扇子をパチンと広げただけであった。
そのヴァレリアの左右を固めるようにして、馬車から二つの巨大な影が進み出た。
左脇に立つのは、歴戦の傷跡を刻んだ彫刻の如き美貌に獰猛な笑みを湛えた、カイザーライヒ帝国皇帝コンラート。
黒髪短髪をなびかせ、腰の魔剣の柄に手をかけた男は、大陸最強の覇王特有の圧倒的な軍事的重圧を全身から放ち、周囲の空気をピリピリと震わせている。
右脇に立つのは、黒銀の長髪を揺らし、金色の瞳を縦スリットの凶眼へと細めた、原初の魔王ヴォルフラム。
人外の怪物は、ヴァレリアの視界に不潔なものが映らぬよう、自らの巨大な影の外套を半歩広げ、近づこうとする者を一瞬で蒸発させんばかりの殺気で威圧している。
さらに背後には、無表情にダガーの切っ先を弄ぶ銀髪の少年暗殺者キリアン、そして白銀の祭服を着崩して陶酔の祈りを捧げる元筆頭司教マティアス。
皇帝を従え、魔王を侍らせ、暗殺網と神殿の機密を手中に収めた絶対の布陣。
城壁の前に跪くセシリア皇女の前まで歩み寄ると、ヴァレリアは扇子の先で軽く会釈した。
「お迎え、ご苦労様でした。セシリア」
「もったいなきお言葉にございます、我が主ヴァレリア様」
セシリアは深々と頭を垂れ、立ち上がると、自ら先頭に立って城門の奥を指し示した。
「――全軍、進軍! 我が主の凱旋の道を開けなさい!!」
セシリアの号令が、帝都の城門に響き渡った。
***
城門を抜けた先――帝都ルテティアの中心を貫く、幅五十メートルにおよぶメインストリート『白亜の大通り』。
そこには、言葉を失うほどの異様な光景が広がっていた。
大通りの両脇、歩道、広場、そして立ち並ぶ石造りの建築物の窓や屋根の上に至るまで――十万人を超える帝都市民たちが、隙間なくびっしりと群がり、通りを埋め尽くしていたのだ。
だが、暴動の気配は微塵もなかった。
誰一人として武器を掲げる者はおらず、誰一人として罵声を叫ぶ者はいなかった。
十万の群衆が、息を呑み、静まり返り、ただただ凝視していた。
白亜の敷石の上を、一滴の血も流さずに堂々と進んでくる、カイザーライヒの黒竜騎兵団。
そして、その中央を優雅に進む、古代竜骨の黒曜馬車。
馬車の窓のカーテンは開け放たれていた。
豪奢なビロードのシートに深く腰掛け、窓枠に白磁の肘をついて外を見つめるヴァレリアの横顔が、大通りを埋める十万の市民の瞳に、寸分の遮りもなく焼き付けられていく。
「あ……あぁ……」
最前列にいた中年のパン屋の主人の口から、掠れた声が漏れ出た。
彼の胸には、城壁から撒き散らされた告発状(第49話)が固く握りしめられていた。
思い出していたのだ。
かつて、大聖堂の地下深くで何が起きていたのかを。
十年前、帝都全土から噴き出す有毒な黒瘴気が、突如としてピタリと止まり、都に奇跡のような平穏が訪れたあの日。
神官たちは「神の加護だ」と豪語し、自分たちは何の疑いもなくその平穏を貪り、贅沢に溺れていた。
だが、その平穏の裏で――アルトハイム公爵家のわずか十歳の長女が、光の届かない石牢に鎖で縛り付けられ、骨を軋ませ、皮膚を爛れさせ、血反吐を吐きながら、都のすべての穢れをたった一人で背負い続けていたという動かぬ真実。
そして――あの日。
偽聖女マリアベルの甘言に乗せられ、処刑谷の崖の上で、ボロボロの襤褸を纏った彼女に腐った果物を投げつけ、「魔女を殺せ」「死ね」と大歓声を上げていた自分たちの、あまりにも浅ましく、あまりにも醜悪な罪業(第2話)。
それなのに。
追放された彼女を殺そうと皇太子が十万の軍を差し向けた時、彼女は自らの手を下すことなく、敵の悪意を反射させて軍を自滅させ、結果として、無関係な一般兵士たちの命を救った(第48話)。
そして今、軍事大国の大軍を率いて帝都へと凱旋しながら――略奪を行うこともなく、民家を焼くこともなく、ただ一滴の血も流さずに、この白亜の大通りを進んでいる。
「聖女様だ……」
誰かが、震える声で呟いた。
「本物の……本物の聖女様だ……!!」
ドサリ。
最前列のパン屋が、大理石の敷石の上に両膝を打ち付けた。
続けて、隣にいた鍛冶屋が、露天商の女が、痩せこけた子供を抱く母親が、老人が、若者が――。
まるで、目に見えぬ神の御手が大通りを撫で上げたかのように。
十万人におよぶ帝都市民たちが、波のように連鎖しながら、次々と石畳の上へと両膝をつき、額を地面へと擦り付けて平伏し始めたのだ。
「聖女様……! ヴァレリア様……っ!」
「俺たちをお許しください……! 何も知らず、貴女様を罵倒した愚かな俺たちをお許しください……!!」
「十年間……十年間も、俺たちのために地獄に耐えてくださっていたなんて……!」
懺悔の慟哭。
涙を流し、両手を祈るように組み、自らの過去の過ちを恥じ入る数万の市民たちの叫び。
そして、その罪悪感と感謝の念は、瞬く間に、地平線を叩き割らんばかりの熱狂的な歓呼の津波へと変貌を遂げていった。
『ヴァレリア様、万歳ッ!!』
『真なる救世主、ヴァレリア様万歳ッッ!!』
『帝国の真なる母! 奇跡の聖女様、万歳!! 万歳ッ!!』
地鳴りの如き万歳の嵐。
白亜の大通り全体が激しく揺動し、天を衝く歓声が、立ち込めていた黒瘴気の雲すら吹き飛ばさんばかりに轟き渡る。
――だが。
その熱狂的な崇拝の嵐の中心にあって。
「…………」
黒曜の馬車の中、ヴァレリアは一度たりとも、民衆へ向けて慈悲の笑みを浮かべることはなかった。
手を振ることもしない。
許しの言葉を一言たりとも口にしない。
彼女はただ、冷涼な紫紺の双眸で平伏する十万の群衆を一瞥し、冷酷な誇り高さを湛えて、ツンと顎を上向かせたままであった。
当然であった。
ヴァレリアは、聖母などではない。
罪を赦し、過ちを包み込むような、都合のいい救世主などでは断じてないのだ。
彼女の魂の奥底で、【因果の天秤】が静かに黄金の微光を脈打たせていた。
――市民たちの過去の無知、罵声、そして投げつけられた石の数々。
それらの「悪意」はすでに、深淵の底で【悪意の神聖精製】によって呑み干され、ヴァレリアの絶対の神気と美貌の糧へと変質していた。
そして今、民衆が捧げているこの熱狂的な歓呼も、涙ながらの平伏も――彼女への「愛」ではなく、自らの罪に対する「恐怖」と、絶対的な上位捕食者に対する「畏怖」が反転した結果に他ならなかった。
情に流されて許すのではない。
悪意も、崇拝も、すべてを自らのチェス盤の上の燃料として呑み干し、絶対の支配者として君臨する。
媚びることもなく、施すこともなく、ただ万人を跪かせるピカレスクの女帝の真髄。
「……ふん。現金な羽虫どもだな」
馬車の右脇を馬で並走する魔王ヴォルフラムが、金色の瞳を眇めて吐き捨てた。
「我が主の神威を前にして、ようやく己の無力さを悟ったか。我が主、あの騒がしい口どもを、黒炎で一息に塞ぎましょうか?」
「放っておきなさい、ヴォルフラム」
馬車の中から、ヴァレリアの涼やかな声が返された。
「恐怖と畏怖で平伏している分には、無害な家畜と同じですわ。……首輪のついた犬を、わざわざ殺す必要はありません」
「ははっ、手厳しいな」
左脇を走る皇帝コンラートが、豪胆に喉を鳴らして笑った。
「だが、それでこそ俺が見込んだ女帝だ。救世主のフリをして民に媚びる偽善者など、反吐が出るからな。君のその冷徹なる支配こそ、この腐りきった大陸に相応しい」
怪物たちを従え、歓呼の嵐を切り裂きながら、黒曜の馬車は帝都の大通りを直進していく。
やがて――。
大通りの終点、宮殿へと続く大広場の手前で、ヴァレリアの視線が、ふと左手の車窓の外へと向けられた。
「…………」
ヴァレリアの紫紺の双眸が、わずかに冷たく細められた。
その視線の先にそびえ立っていたのは――。
第19話において民衆の放火によって炎上し、黒焦げの骨組みだけを晒して崩落した、ガルディニア大聖堂の巨大な廃墟であった。
天頂の十字架はへし折れ、ステンドグラスは粉々に砕け散り、かつての神聖な威容は見る影もなく、ただ黒い煤と瓦礫の山となって横たわっている。
そして――その廃墟の最深部、瓦礫の下へと続く、あの忌まわしき地下階段。
十年間。
自分が十歳から二十歳になるまでの青春のすべてを奪われ、冷たい石畳の上に縛り付けられ、国家の穢れを吸い続けさせられていた、あの暗黒の『封呪の石牢』。
すべての始まりの場所。
かつて自分を閉じ込め、嘲笑い、使い捨てにした偽善の檻。
ヴァレリアは、扇子の切っ先をそっと閉じ、膝の上へと置いた。
その艶やかな紅唇に浮かんだのは――冬の氷壁よりも冷たく、そして極上に嗜虐的な微笑み。
「……待っていなさい、マリアベル」
風に乗って消え去るような、微かな囁き。
「貴女が欲しがった『聖女の座』の、本当の味……。十年間私が味わったあの極上の苦痛を、今度は貴女のその爛れた肉体で、最後の一滴まで味わっていただきますわ」
歓呼に揺れる帝都の凱旋の先に、絶対の復讐の最終執行が、音もなくその冷たい爪を研ぎ澄ませていた。




