第50話:泥濘に落ちた偽りの光 〜踏み砕かれし偽聖女の冠と、泥水を啜る道化の断末魔〜
ガルディニア帝都ルテティアの北面を塞ぐ『双頭鷲の大城門』の前は、逃げ場を完全に失った袋小路の処刑場と化していた。
背後には、天を衝くように高く跳ね上げられた巨大な鉄の跳ね橋と、分厚い鉄閂が幾重にも打ち込まれて固く閉ざされた樫の城門(第49話)。
そして前方――秋霖が降りしきる泥濘の平野からは、地平線の彼方までを黒々と埋め尽くす、数千、数万に及ぶ怒れる人間たちの濁流が、怒号の地鳴りと共に押し寄せていた。
群衆の手に握られていたのは、城壁の上から第二皇女セシリアが風に乗せて散布した、数万枚に及ぶ『神殿最高機密の告発状』の紙片であった。
大聖堂が隠蔽し続けてきた裏帳簿の全記録。
民衆を病気に陥れ、自作自演で解毒して「奇跡」と偽っていた毒殺詐術の証拠。
そして――十年間、この国のすべての呪詛と瘴気を一人で背負い続けていた本物の聖女ヴァレリアを、無実の罪で「魔女」と偽り、処刑谷の深淵へ突き落とした皇太子と偽聖女の大罪。
騙されていた。
自分たちが飢えに苦しみ、家族が熱病で命を落とし、東部沃野の作物が全滅して泥水を啜る羽目になったのは、すべて――目の前にいるこの浅ましき道化たちが、自らの虚栄心と強欲のために招いた「自業自得の天罰」であったのだと。
『いたぞ……! あそこだ!!』
『皇太子と偽聖女だぁぁぁっ!!』
『俺の子供を返せ! 熱病で死んだ妻の命を返せぇぇぇっ!!』
怒号は津波となって城壁の白石を激しく打ち叩いた。
飢えと疫病で頬を削げ落とした市民たち、顔を包帯で巻いた難民たち、そして戦場から命からがら逃げ帰ってきた生き残りの兵士たちが、血走った眼を剥き出しにし、錆びた鎌や棍棒、薪割り斧を振り上げながら、泥濘を蹴散らして二人の元へと殺到してくる。
「ひ……っ! ひぃぃぃぃぃっ!?」
壊れかけた黄金馬車の残骸の傍ら、泥水の中にへたり込んでいた第一皇太子ユースティスは、喉を引き攣らせて悲鳴を上げた。
大階段の転落事故(第12話)で粉砕骨折した鼻は包帯が吹き飛び、歪んだ肉塊となって黄色い膿を垂れ流している。両足の膝関節は折れ曲がったまま、泥水を掻きむしって後ずさろうとするが、背後には冷たい外堀の濁流が渦巻いているだけだった。
「く、来るな! 近寄るな、下賤な愚民どもめが! 私はガルディニアの皇太子だぞ! 皇帝ユースティスであるぞぉぉっ!!」
ユースティスは泥まみれの手を振り回し、虚勢の絶叫を張り上げた。
だが、その声に応える敬意など、世界のどこにも残されていなかった。
「皇帝だと!? よくもぬけぬけとほざきやがったな、この穀潰しがァッ!!」
怒り狂った屈強な鍛冶屋の大男が、泥を蹴って突進してきた。
大男はユースティスのみぞおち目掛けて、泥まみれの重い長靴を力任せに蹴り込んだ。
ドカッッ!!
「ぐほぉっ……!?」
肺胞の空気をすべて吐き出し、ユースティスは白目を剥いて泥水の中へと転倒した。
そこへ雪崩れを打つようにして、数十人の市民や脱走兵たちが群がり、皇太子の手足を踏みにじり、引き裂かれた軍服の襟首を掴んで泥土の中へと押さえつけた。
「離せ! 無礼者、私は皇族――」
「黙れ、この人殺しが!」
ドゴッ!と兵士の硬い軍靴がユースティスの顔面を踏み砕いた。
残っていた前歯が粉々に折れ、鮮血と泥水が口内を満たす。折れた両足の膝を容赦なく踏み抜かれ、骨が軋む激痛にユースティスは失禁し、泥水の中で無様に痙攣した。
――そして。
その皇太子の無残な姿のすぐ隣で、さらに凄惨を極める断罪の幕が上がっていた。
「嫌……! 触らないで! 汚い手で私に触らないでぇぇぇっ!!」
耳を劈くヒステリックな金切り声。
泥水の中を引きずり回されていたのは、新聖女マリアベル・ローランであった。
数千人の怒れる群衆の爪先が、マリアベルの身に纏う大聖堂の大祭服へと容赦なく伸ばされていた。
純白のシルクに金糸を施した豪華な布地は、何十人もの手によってビリビリと無慈悲に引き裂かれ、泥水と汚物の中に撒き散らされる。
女たちの荒々しい手がマリアベルのチリチリに縮れた金髪を根元から鷲掴みにし、泥濘の地面へと力任せに引き倒した。
バシャァァンッ!!
「あぎゃあっ!? 痛い、痛いわよ! 髪を引っ張らないで!!」
マリアベルは泥水を口いっぱいに吸い込み、ゲホゲホと激しく咳き込みながら暴れ狂った。
引き裂かれたドレスの隙間から、泥に汚れた白い肌が露わになる。
大聖堂の大爆発(第8話)と自室での油の火傷(第18話)、そして自らが招いた酸の雨(第41話)によって顔の半分が赤黒くただれ果て、黄色い膿を垂れ流す化け物じみた素顔が、白日の下に引きずり出されていた。
「やめなさい! あんたたち、自分が何をしているのか分かっているの!? 私は神に愛されし光の聖女マリアベル様よ!!」
マリアベルは泥水の中からガバッと顔を上げ、血走った青い瞳を爛々と見開いて喚き散らした。
「奇跡の力を持たない下賤な平民のくせに! 神の御使いであるこの私を傷つけたら、天罰で骨まで腐り落ちて死ぬことになるのよ!! 跪きなさい! 私の足元に平伏して命乞いをしなさいよぉぉっ!!」
かつて帝都の貴族や民衆を手玉に取っていた、あの傲慢極まりない聖女の仮面。
窮地に追い詰められた女は、なおも自らの偽りの権威が通用すると信じ込み、泥まみれの右手を群衆目掛けて突き出したのだ。
「光よ……! 我が清らかなる光よ、この無礼な豚どもを焼き滅ぼしなさい!!」
マリアベルは喉が張り裂けんばかりに呪文を叫び、指先に全魔力を込めようとした。
平民どもを眩い閃光で盲目にし、その隙に城門の陰へ逃げ出そうとしたのだ。
――しかし。
シュウウウ……。
マリアベルの震える指先から噴き出したのは、眩い黄金の光などでは断じてなかった。
先刻の赤鷲平原において、ヴァレリアの【絶対反跳】によって自軍の魔導砲を頭上から浴びせられ(第47話)、魔力回路のすべてを内側から焼き切られていた彼女の体内には、初歩的な灯火の魔力すら残されていなかったのだ。
指先から漏れ出たのは――ただの、焦げ臭い黒煙の筋。
パチ、と小さな火花が一つ散っただけで、煙は秋霖の冷たい湿気の中に呆気なく消え去った。
「……え?」
マリアベルの瞳孔が、恐怖に収縮した。
出ない。
光が出ない。
奇跡はおろか、初歩的な治癒魔法の残滓すら、彼女の指先から紡ぎ出されることはなかった。
「う、嘘……? 私の光は……私の魔力はどこへ行ったの……!? 出なさいよ! 出なさいよ、この役立たずの指先がァッ!!」
自らの右手を見つめ、発狂したように叫ぶマリアベル。
だが、その哀れな醜態を見下ろす群衆の瞳には、もはや一片の憐憫すら存在しなかった。
あるのはただ――己の罪を認めず、最後まで平民を虫けらと見下し続ける偽物に対する、絶対の嫌悪と断罪の殺意。
「――光の聖女ですって?」
静寂を切り裂いて、澄み渡る、だが氷の刃のように冷徹な少女の声が響いた。
群衆が左右へと割れ、泥濘の広場の中心へと、一人の若い女性が歩み出てきた。
粗末な灰色の平民服を纏い、濡れた栗色の髪を肩口で切り揃えた少女。
その右の頬には――かつて熱い燭台を押し当てられたことによる、痛々しく生々しい火傷の痕が、鮮明に刻み込まれていた。
元・マリアベル専属侍女、エマ。
第18話において、マリアベルのヒステリーの巻き添えを食らい、顔を焼かれて追放されたあの少女であった。
エマの両手には、外堀から汲み上げられたばかりの、馬の糞と腐敗した汚泥が並々と混ざり合った、鉄のバケツが握られていた。
「エ……エマ……!?」
マリアベルが息を呑み、泥水の中で後ずさった。
「あんた……あんた、私の侍女だったエマね!? ちょうどいいわ、助けなさい! この野蛮な平民どもを追い払って、早く私に新しいドレスを持ってきなさいよ!!」
未だに己の立場を理解できず、命令口調で叫ぶマリアベル。
その無残な元主人の姿を、エマは冷たい、死人のような眼差しで見下ろしていた。
「……助ける? 私が、貴女のような怪物を?」
エマの唇から、嘲笑が零れ落ちた。
「どの口がそれを言うのですか、マリアベル様。……十年間、地下牢で泥水を啜り、一度たりとも愚痴を言わず、私たち下級侍女に『風邪を引かないようにね』と優しい言葉をかけてくださっていたヴァレリア様の功績を、すべて横取りした泥棒の分際で」
エマは一歩、泥濘を踏み締めて間合いを詰めた。
その瞳に、燃え盛る復讐の炎が宿る。
「貴女は聖女などではない。……ただの、強欲で残酷な、嘘つきの豚です」
「な……何を生意気な口を――」
バシャァァァァァァァッッ!!!!
「ぎゃあああああああああっ!?!?!?」
エマの両腕がしなり、バケツに満たされていたドブ泥と糞尿の濁流が、マリアベルの頭上目掛けて容赦なくぶちまけられた。
鼻腔を突く強烈な悪臭を放つヘドロが、マリアベルのチリチリに焦げた金髪をべったりと覆い、爛れた顔面の火傷の傷口へと容赦なく染み込んでいく。
「熱い! 臭い、臭い臭い臭いっ!! 目がぁぁぁっ!!」
マリアベルは泥水を口から吐き散らし、自らの顔を掻きむしりながら床を転げ回った。
その時――マリアベルの乱れた頭髪から、カラン、と乾いた金属音を立てて、泥水の中へと転がり落ちたものがあった。
純銀と水晶で精巧に造られ、大聖堂の即位式において彼女の頭上を飾っていた――『光の聖女のティアラ』。
エマの視線が、足元の泥の中に沈むその冠へと向けられた。
「あ……私のティアラ! 私の宝冠よ!!」
マリアベルが泥を這いずり、必死に手を伸ばそうとする。
だが、その指先が触れるよりも早く――。
バキィィィィンッッ!!!!
「あぁぁぁっ!?」
エマの履いた泥まみれの硬い軍靴が、上から無慈悲に振り下ろされた。
鈍い破壊音と共に、純銀のティアラは無残に歪み、嵌め込まれていた水晶の宝玉が粉々に砕け散って、泥水の中へと深く踏みにじられたのだ。
「奇跡など一つも起こせなかった偽物」
エマは砕けたティアラを靴底ですり潰しながら、冷酷に吐き捨てた。
「ヴァレリア様が地下で一人流されていた血の重みを……! 今こそ、その浅ましい魂で思い知りなさい!!」
それを合図にしたかのように――。
ドォォォォォォッ!!
周囲を取り囲んでいた数千人の群衆の怒りが、一気に爆発した。
『偽聖女に天罰を!』
『泥を食らえ! 悪魔の女め!!』
『ヴァレリア様を返せぇぇぇっ!!』
ビチャッ! グシャッ! ドカッ!!
容赦のない投石の嵐が、マリアベルとユースティスの頭上へと降り注ぎ始めた。
腐ったキャベツの残飯、ドブ川から拾い上げられたヘドロの塊、鋭利な石ころ、そして割れた陶器の破片。
何百、何千という汚物の雨が、二人の身体を容赦なく打ち据えていく。
「痛い! やめて、許してぇぇっ!」
「私は皇太子だぞ! やめろ、石を投げるなぁっ!!」
石が額を割り、鮮血が泥水と混ざり合って顔面を汚す。
腐った果物の饐えた汁が傷口にしみ、二人は泥の中に頭を抱え込んで丸くなり、ただただ豚のように鳴き声を上げて命乞いを繰り返すしかなかった。
――それは、完璧なる因果の再現であった。
かつて第2話において。
処刑場『断絶の深淵』の崖の上で、手枷足枷を嵌められ、ボロボロの襤褸を纏ったヴァレリアに対し、民衆が腐った果物や石を投げつけ、「偽聖女を殺せ」「死ね」と大歓声を上げていたあの光景。
近衛騎士長ボリスに膝裏を軍靴で蹴り砕かれ、ユースティスに背中を蹴り落とされ、マリアベルに嘲笑われながら奈落へ突き落とされたあの屈辱。
今、まったく同じ構図が――倍加した質量と憎悪を伴って、元凶であるユースティスとマリアベルの頭上へと、余すところなく逆流していた。
自分たちが他者に強いた理不尽のすべてを、今度は自分たち自身が、泥水の中に沈められながら骨の髄まで味わい尽くす。
ヴァレリアが手を下す必要などない。
世界そのものが、因果の天秤の法則に従い、彼らの罪を完璧に清算していたのだ。
「ごめんなさい……! ごめんなさいぃぃっ!」
マリアベルは泥を啜りながら、エマの靴先に額を擦り付けて泣き叫んだ。
「私が悪かったわ! 聖女の座なんていらない! お金も全部あげるから、助けて、助けてぇぇぇっ!!」
隣では、ユースティスが両手を泥の中に突き、折れた両足を痙攣させながら、泡を吹いて平伏していた。
「セシリア……助けてくれ……! 妹よ、頼むから門を開けてくれぇぇぇっ!!」
二人の道化の、あまりにも浅ましく、あまりにも無残な断末魔。
城壁の上のセシリアは、その醜態を冷ややかに見下ろし、ただ扇子で口元を覆って嘲弄の笑みを浮かべていた。
――そして、その時であった。
――ブォォォォォォォォォォォンッッッッ!!!!
天地を震わせる、重厚にして厳粛なる角笛の音が、北の地平線の彼方から轟き渡った。
「……っ!?」
石を投げ続けていた数千の市民たちが、一斉に手を止め、息を呑んで北の街道を見据えた。
泥水に顔を伏せていたユースティスとマリアベルの背筋が、恐怖のあまり凍りつく。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……!!
地響きが迫っていた。
秋霖を突いて現れたのは、整然と並ぶ漆黒の重装甲冑――大陸最強の軍事覇権国家カイザーライヒ帝国軍五万の精鋭部隊。
そして、その隊列の先頭を進む、古代竜の骨で造られた豪奢なる黒曜の馬車の威容。
千年の歴史を誇った愚かな祖国ガルディニアに、永遠の終止符を打つべく――。
特等席で自滅を見届けていた真なる支配者、ヴァレリア・フォン・アルトハイムが、今まさに、帝都の城門へと到達した瞬間であった。




