第49話:閉ざされた城門 〜跳ね上がれし鉄の橋と、城壁に翻る叛逆の白百合〜
赤鷲平原の自滅劇(第48話)から、およそ二昼夜。
かつて栄華を極めたガルディニア帝国の帝都ルテティアへと続く北の幹線街道は、降りしきる冷たい秋霖に打たれ、果てしない泥濘の荒野と化していた。
その泥土を這うようにして、一台の無残な残骸が軋んだ悲鳴を上げながら進んでいた。
かつて純金と白銀で豪奢を極め、皇室の権威を象徴していたはずの天蓋付き黄金馬車。
だが今や、天蓋の絹布は爆風によってボロボロに引き裂かれて骨組みを晒し、四頭立てであったはずの駿馬は三頭が過労と毒水で斃れ、残された痩せ馬が一頭、血の混じった泡を口から噴き散らしながら、車輪の片方が砕けた荷台を必死に引きずっていた。
車内には、貴族の矜持など一欠片も残されていなかった。
床に散乱するのは、割れた酒瓶の破片と、泥水、そして排泄物と血の生々しい臭気。
その汚泥のただ中に重なり合うようにして倒れ伏していたのは、帝国第一皇太子ユースティスと、新聖女マリアベル・ローランであった。
「……あ、あぁ……っ、前だ……! 帝都が見えてきたぞ……!」
ユースティスは、引き裂かれた軍服の肘で泥を掻き分け、窓枠に血塗れの手をかけた。
その姿は、もはや人間としての尊厳を完全に喪失していた。
大階段の転落事故(第12話)で粉砕された鼻は、分厚い包帯が吹き飛んだことで歪み切った軟骨と肉の塊を剥き出しにし、黄色い膿と乾いた血液が顎へと垂れ落ちている。両目は血走って異様に飛び出し、両足の膝関節は折れ曲がったまま、引きずるたびに激痛の悲鳴を上げていた。
赤鷲平原において、自軍の大型魔導砲五十門の熱線と数万発の弾幕が【因果反跳】によって逆流した瞬間、自慢の近衛兵団は跡形もなく消滅した。
後方に待機していた三万の将兵は、第二皇女セシリアの手引きによって武器を捨ててカイザーライヒに降伏し、前衛の生き残りたちもまた、自分たちを見捨ててヴァレリアを神と崇め平伏した。
命からがら、壊れかけの馬車に飛び乗って逃げ出してきたのだ。
背後からいつ、カイザーライヒの黒甲騎兵が迫ってくるか。
いつ、自分たちを怨嗟する裏切り兵士たちの刃が首元に届くか。
その恐怖だけに追われ、泥水を啜り、カビの生えたパンの屑を奪い合いながら、二昼夜を不眠不休で逃げ延びてきた。
「宮殿だ……! 宮殿に入れば、近衛の予備兵がおる……! 帝都大結界を作動させ、城門を閉じれば、カイザーライヒの豚どもとて手出しはできん……!!」
ユースティスは涎を垂らしながら、目の前に霞む巨大な城壁を見据えた。
隣では、マリアベルが泥まみれの床から顔を上げた。
大聖堂の大爆発と油の火傷(第18話)、そして自らが招いた酸の雨(第41話)によって顔の右半分はドロドロに溶け崩れ、金髪はチリチリに縮れて黒い灰のようになっている。
大祭服は引き裂かれ、汚物を垂れ流した腰回りを隠すこともできず、白目を剥いてガタガタと震えている。
「殿下……早く、早く城内へ……! 私を、私の顔を治すための秘薬を……! 温かいお風呂と、フカフカのベッドを寄越しなさいよぉぉっ……!!」
「黙れ、五月蝿い! 貴様の無能のせいでこの様になったのだぞ!」
ユースティスはマリアベルを蹴飛ばそうとしたが、折れた両足が激痛を発し、自らが悲鳴を上げて床に転がった。
ギギギ……と、痩せ馬が最後の力を振り絞って止まった場所。
そこは、ガルディニア帝都ルテティアの北面を固める最大の防衛拠点――『双頭鷲の大城門』の直前であった。
***
高さ二十メートルを超える白亜の巨石で築かれた外郭城壁。
平時であれば、諸外国の隊商や豪華な貴族の馬車を迎え入れるため、巨大な跳ね橋が下ろされ、四枚の鉄格子門は高々と開け放たれているはずであった。
門の両脇には絢爛豪華な近衛兵が居並び、皇太子の馬車が通りかかれば、ファンファーレと共に万雷の歓呼が響き渡るはずの場所。
――しかし。
馬車の窓から這い出たユースティスの目に飛び込んできたのは、信じがたい光景であった。
「……な、何だと……?」
城門の前に広がる、深さ数十メートルの巨大な外堀。
その堀を渡るための、幾十本もの鋼鉄の鎖で吊り下げられた巨大な跳ね橋が――天を衝くように、垂直に『跳ね上げられたまま』固定されていたのだ。
さらに、城門の奥を塞ぐのは、大木のような太さを持つ黒鉄の格子門。
それは寸分の隙間もなく下ろされ、分厚い樫の城門は固く閉ざされ、巨大な鉄の閂が何重にも打ち込まれていた。
完全なる籠城態勢。
まるで、外敵の侵略を前にして、都の防衛機構が限界まで閉ざされたかのような、冷酷無比なる遮断。
「な……何をしているのだ、門番共は!!」
ユースティスは折れた両足を引きずり、馬車の残骸から泥水の中へと転がり落ちた。
ビチャリ、と汚濁に塗れながら、男は外堀の縁まで這いずり寄った。
水深数十メートルの濁流が、彼と城門の間に横たわっている。渡る術など、どこにもない。
「おい! 開けろ! 城門を開けんかぁぁぁっ!!」
ユースティスは喉が引き裂けんばかりの絶叫を張り上げた。
泥まみれの手を跳ね橋の鎖へ向けて伸ばし、顔面の膿を撒き散らしながら喚き散らす。
「第一皇太子ユースティスであるぞ! ガルディニア帝国の主権者たるこの私が戻られたのだ! 跳ね橋を下ろせ! 門を開けろ! 近衛兵、聞こえぬのか、無礼者共めがァッ!!」
マリアベルもまた、泥濘を這いずりながら堀の縁へとすがりついた。
引き裂かれた大祭服を泥水で濡らし、爛れた顔面を振り乱して叫ぶ。
「聖女よ! 神に選ばれし光の聖女マリアベル様よ!! 早く開けなさい、この下賤な兵隊どもが! 開けないなら、あんたたち全員の首を刎ねさせてやるわよぉぉっ!!」
二人の道化の、泥に塗れた金切り声。
かつて帝国の頂点で万人を見下ろしていた者たちの、哀れ極まる命乞いの咆哮。
――だが。
返ってきたのは、跳ね橋が下りる鎖の音でも、近衛兵の恐縮した返答でもなかった。
カツン、カツン、カツン……。
城壁の頂上――地上二十メートルの銃眼が並ぶ胸壁の上から、あまりにも澄み渡った、硬質な靴音が響いてきた。
「……ん?」
ユースティスが泥まみれの顔を上げた。
秋霖を突いて吹き抜けた風が、城壁の上の霧をサッと払い去った。
そして――そこに姿を現した人影を目撃した瞬間、ユースティスの喉が、ヒュッと息を呑んで凍りついた。
「……セ、セシリア……!?」
胸壁の最前列、中央の胸壁に両手を添えて立ち、冷ややかに眼下の泥沼を見下ろしていたのは――第二皇女、セシリア・フォン・ガルディニアであった。
身に纏うのは、泥の飛沫一つついていない、純白のシルクに銀糸の刺繍を施した豪奢なドレス。
肩口へと流れる白銀の豊かな髪は、乱れ一つなく優雅に梳き揃えられ、胸元には――ヴァレリアから授けられた古代魔導具【神気の護符】(第33話)が、衣服の下から淡く、妖艶な紫紺の燐光を透き通らせていた。
その白磁の美貌には、かつて宮廷で見せていた儚げな皇女の面影など、塵芥ほども残されていなかった。
あるのはただ――世界の趨勢を完璧に掌握し、手駒をチェス盤の上で詰ませ終えた冷徹なる支配者の、怜悧極まる眼差し。
それだけではなかった。
セシリアの左右を取り囲む顔ぶれに、ユースティスは我が目を疑った。
セシリアの右脇に控えていたのは、漆黒の夜啼鳥の如き装束を纏い、無表情にダガーの切っ先を弄ぶ銀髪の暗殺者たち――裏社会を統べる暗殺ギルド『影の旅団』の精鋭部隊。
そして、左脇に居並んでいたのは――帝都の貧民街や職人街から集まった、数千名に及ぶ武装した市民たちの代表団であった。
手には農具や棍棒、そして奪い取った近衛兵の槍を握りしめ、その全員が、胸元に「真の聖女ヴァレリア」を讃える紫紺のリボンを結びつけていた。
先頭に立っていたのは、第18話でマリアベルに焼けた燭台を押し当てられ、顔に火傷を負わされた元専属侍女の少女エマ。
エマは憎悪に満ちた瞳で、眼下の泥水の中に這いつくばる偽聖女を見下ろしていた。
「セ、セシリア! お前、何を突っ立っているのだ!?」
ユースティスは堀の底から叫んだ。
「早く門番に命じて橋を下ろさせろ! 後ろからカイザーライヒの軍勢が迫っているのだ! 敵の暗殺者共を捕らえ、愚民どもを追い払え!!」
「そうですわ、セシリア様!」
マリアベルも叫んだ。
「私は聖女なのよ! あんたの義理の姉になるはずの人間よ! 早く開けなさい、この愚図が!!」
二人の喚き散らす罵声を、城壁の上のセシリアは、ただ静かに、冷淡な眼差しで受け止めていた。
やがて――セシリアは、胸壁から一歩前へ進み出た。
風に白銀の髪をなびかせながら、鈴を転がすような、だが城門前の広場全体に響き渡る凛とした声を、冷酷に投げ下ろしたのである。
「――お黙りなさい、見苦しい道化たち」
「な……!?」
ユースティスの言葉が詰まった。
「セシリア……? お前、兄に向かって何を……」
「兄?」
セシリアの唇から、氷点下の嘲笑が零れ落ちた。
「我が一族の恥晒し。千年の歴史を誇るガルディニア帝国を、自らの浅ましき虚栄心と無能によって完膚なきまでに滅亡へと叩き落とした大罪人が……どの口で、この私を妹と呼ぶのかしら?」
「き、貴様ァッ……!!」
ユースティスが目を血走らせる。
「皇太子殿下。そして、偽聖女マリアベル」
セシリアの声は、冷徹な裁判官の如く平原に木霊した。
「十万の自軍の命をカビた干し肉と毒水で削り、自らの放った酸の雨によって前衛を焼き滅ぼし、最後は自らの撃った魔導砲の自爆によって本陣を消滅させた大罪人……。国家を破滅の淵へ叩き落とし、数万の将兵を泥水の中で無駄死にさせた貴方たちに――開く門など、この帝都ルテティアには、ただの一枚もございません」
「な……な、何だとぉぉぉっ!?」
ユースティスの視界が、真っ暗に明滅した。
開かない。
入れない。
自らの都であり、自らが支配するはずであった帝都から、完全に締め出されたのだ。
「謀反だ! 反逆罪だぞセシリア!!」
ユースティスは泥水の中で暴れ狂い、叫んだ。
「私は皇帝だ! 父上が倒れた今、この国の全権を握る絶対の主権者だぞ! 門を開けろ! 開けぬなら、貴様もろとも城壁を焼き払ってくれるわ!!」
「焼き払う? ふふ……あはははは!」
城壁の上で、セシリアが喉を鳴らして笑い声を上げた。
その嘲笑に合わせるように、背後に並ぶ数千の武装市民たちからも、地鳴りのような嘲笑の嵐が巻き起こる。
「魔導砲も失い、兵士にも見捨てられ、両足をへし折られて泥水を啜る豚が……一体何をもってこの城壁を焼くというのですか? 本当に、どこまでも哀れで、救いようのない道化ですこと」
セシリアは細い指先をスッと持ち上げ、合図を送った。
彼女の背後に控えていた暗殺ギルドの構成員たちが、城壁の上に山積みにされていた数千、数万枚の羊皮紙の束を抱え上げた。
「――皆様、ご覧なさい」
セシリアの凛とした声が響く。
「これが、この愚鈍なる皇太子と、浅ましき偽聖女が犯してきた、万死に値する大罪の全記録です!」
バサァァァァァァァッッ!!!!
城壁の上から、何万枚もの紙片が一斉に解き放たれた。
秋の突風に乗って、白い紙の吹雪が、城門前の広場へ、外堀の水面へ、そしてユースティスとマリアベルの頭上へと、容赦なく降り注ぐ。
舞い散る書類に記されていたのは、神殿の最高機密裏帳簿(第14話)。
マリアベルが自作自演の奇跡を演出するために井戸に毒を撒かせた調剤部の契約書(第17話)。
アルトハイム公爵ハインリヒと結託し、五千万枚の国家予算を横領した全記録(第34話)。
そして――何より決定的な、最高司教ベネディクトの自白調書。
『十年間、帝国の全呪詛と瘴気を一身に引き受け、国を支え続けていた本物の聖女は、アルトハイム公爵の長女ヴァレリア様であった』
『ユースティス皇太子は、その功績をすべてマリアベルに横取りさせるため、無実のヴァレリア様を「魔女」と捏造して深淵へ蹴り落とした』
「あ……あぁ……っ!?」
マリアベルの顔面から、完全に血の気が引いた。
自らが犯してきた、最も隠したかった汚濁のすべてが、今、帝都の城壁から白日の下に撒き散らされたのだ。
紙片は、風に乗って城壁の外郭に広がる貧民窟や難民キャンプ、そして街道沿いへと、何十里にもわたって降り注いでいった。
拾い上げる市民たち。
文字を読み、目を見開き、歯を食いしばる難民たち。
自分たちが飢えに苦しみ、家族が熱病で死んでいった陰で、この二人が何をしていたのかを――帝都のすべての民衆が、完全に理解したのだ。
「セシリア……! やめろ、やめてくれぇぇぇっ!!」
ユースティスが泥水を掻きむしりながら絶叫した。
だが、セシリアは一切の慈悲もなく、城壁の上から冷酷に言い放った。
「真なる聖女ヴァレリア様を裏切り、泥の底へ突き落とした罪。……その因果の代償を、今こそ貴方たち自身の血と肉で支払いなさい」
セシリアが身を翻した。
そして、その背後から――。
ドォォォォォォォォォッ……!!
地響きのような、重低音の怒号が響き渡り始めた。
「……え?」
ユースティスとマリアベルが、凍りついたように振り返った。
街道の彼方。
北の地平線、そして街道沿いの廃村や森の影から。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……!!
足音が迫っていた。
十人ではない。百人ではない。
数千、数万に及ぶ、泥と煤にまみれた人間の大群衆。
城壁から撒き散らされた告発状を手にし、錆びた鎌、薪割り斧、棍棒、鉄パイプを手にした、飢えと疫病に狂った帝都の民衆、難民、そして戦場から命からがら逃げ帰ってきた生き残りの兵士たちが――。
血走った目で、歯を剥き出しにし、逃げ場のない城門前の袋小路へと、怒濤の津波となって雪崩れ込んできていたのだ。
『いたぞ……! あそこだ!!』
『皇太子と偽聖女だぁぁぁっ!!』
『俺たちの家族を殺した悪魔どもめ! 生かして返すな!!』
空を震わせる、数万人の殺意の咆哮。
背後には、閉ざされた巨大な城門と、高く跳ね上げられた跳ね橋。
前からは、復讐の刃をギラつかせて迫る、数万の怒れる民衆の包囲網。
逃げ場など、世界のどこにも存在しなかった。
泥水の中に這いつくばったまま、ユースティスとマリアベルは、互いの引き攣った顔を見合わせ――かつて味わったことのない、真なる絶望の寒気に、全身をガタガタと震わせるしかなかった。




