第48話:焦土の宴と壊滅の本陣 〜泥濘に這う道化の断末魔と、神威に平伏す数万の兵〜
天地を叩き割った白銀の閃光と轟音が去った後、赤鷲平原を支配したのは、この世の始まりか終わりかと思わせるような、完全なる静寂であった。
濛々と立ち昇る巨大な純白のキノコ雲が、秋の冷たい上空の風に流され、ゆっくりと白煙の帳となって地平線へと広がっていく。
舞い散る赤土の粉塵。空気中に充満する、超高密度の神聖粒子が放つオゾンと、焼き尽くされた大地が発する焦燥の臭気。
やがて――風が砂煙を吹き払った時、そこに現れた光景に、平原の遠巻きに見守っていた数万の人間が、息を呑み、言葉を完全に失った。
赤鷲平原の中央――先刻まで、ガルディニア帝国軍の総司令部が傲然と鎮座し、五十門の大型魔導砲『雷神の巨筒』が砲列を敷いていた場所には、何一つとして原型を留めた構造物は残されていなかった。
そこに口を開けていたのは、直径一キロメートル、深さ数十メートルにも及ぶ、すり鉢状の『超巨大クレーター』であった。
神木の如き太さだった魔導砲の砲身は、自らの放った熱線の三倍の質量を浴びて跡形もなく蒸発し、わずかに溶けたオリハルコンの残滓が、ガラス化したクレーターの底で赤いマグマのようにドロドロと泡を吹いている。
狂乱の皇太子ユースティスを取り囲み、威勢よく抜刀していた数千名の直属近衛兵団や砲兵たちの姿は、消し炭すら残さず虚空へと吹き散らされていた。
自らの放った飽和総攻撃が、寸分の狂いもなく元の座標へと逆流した結果としての――完全なる『自己消滅』。
他者を傷つけ、滅ぼそうとした悪意の総量が、そのまま自らを大地ごと削り取る鉄槌へと化けた、絶対の因果応報の爪痕であった。
だが――。
その融解したクレーターの最深部、泥水と焦土が混ざり合う窪みの底に、奇跡的に――否、因果の天秤によって「死ぬことすら許されずに」生かされた、二つの醜悪な肉塊が蠢いていた。
「あ……あぁ……っ、ぐ……っ」
泥水を啜り、自らの血反吐に塗れながら這いずり回っていたのは、第一皇太子ユースティスであった。
その姿には、かつて社交界で「帝国の太陽」と持て囃されていた頃の栄華など、塵芥ほども残されていなかった。
白銀の礼装軍服は爆風によってボロ雑巾のように引き裂かれ、露出した全身の皮膚は高熱の余波で赤黒く爛れ、泥と煤がこびりついている。
何より無残だったのは、その顔面であった。
大階段の転落事故(第12話)で粉砕骨折した鼻を覆っていた分厚い包帯は吹き飛び、歪んだまま醜く癒着し、膿を垂れ流す鼻腔が、白日の下に無防備に晒されていた。両目の周囲はドス黒く腫れ上がり、唇は裂け、前歯のほとんどが砕け散っている。
さらに、爆風の直撃を受けたらしき両足は、膝関節が人間の曲がってはならない方角へと完全にへし折れ、骨が皮膚を突き破って白く露出していた。
「あ……足が……私の足がぁぁっ……! 痛い、痛い、痛いぃぃっ……!」
ユースティスは折れた両足を引きずり、泥の底を爪で掻きむしりながら、絶望の叫びを上げた。
立ち上がることすら叶わない。
抜刀していた家宝のサーベルは折れ飛び、手元には泥水以外、何一つ残されていない。
十万の大軍の最高司令官として出陣した男が、いまや、路地裏で足を轢かれた野良犬のように、汚泥の中で無様に痙攣していた。
「た、助けて……誰か……誰か私を助けてくれぇぇぇっ! 私は皇太子だぞ……ガルディニアの皇帝なのだぞぉぉぉっ!!」
虚空へ向けて差し伸べられた血塗れの手。
だが、その叫びに応える近衛兵は、一人として存在しなかった。
そして――そのユースティスのすぐ隣。
泥水の中に顔面を突っ込み、激しい咳き込みと共に泥を吐き出していたのは、新聖女マリアベルであった。
「ゲホッ、オエェェッ……! ひっ、ひぐっ……!」
大聖堂の宝物庫から持ち出させた純白の大祭服は、爆風の熱線によって黒焦げに焼き切られ、半裸の如く無様に肌を晒していた。
自慢であった金髪は完全にチリチリに縮れ、泥水と油で固まって異臭を放っている。
顔の右半分を覆っていた包帯も剥ぎ取られ、以前侍女を虐待した際の油の火傷(第18話)と、先刻の酸の雨(第41話)によって融解した皮膚が引き攣り、まるで墓場から掘り起こされた腐乱死体のような醜悪な相貌を晒し出していた。
「嫌……嫌ぁぁぁっ! 私の顔が……私のドレスがぁぁっ!!」
マリアベルは泥水に映った自らの化け物じみた顔を見て、狂乱の金切り声を上げた。
手足は震え、右手の指は数本が骨折して変な方向に曲がっている。
かつて愛嬌と嘘泣きで皇太子を籠絡し、大聖堂の頂点で民衆を見下ろしていた偽聖女は今、自らの放った悪意の毒に窒息し、泥を啜りながら白目を剥いて失禁していた。
「助けて……ユースティス様、助けてぇっ……!」
「寄るな! 寄るな、この疫病神がァッ!!」
すがりつこうとしたマリアベルの顔面を、ユースティスは泥まみれの肘で力任せに殴りつけた。
ドカッ、と鈍い音が響き、マリアベルは泥水の中へと頭から突っ伏した。
かつて互いのエゴを甘やかし、ヴァレリアを生贄へと突き落とした共犯者たちが、今や泥の底で互いを罵り合い、醜く傷つけ合っている。
これ以上ないほどに無様で、これ以上ないほどに滑稽な、道化たちの断末魔の喜劇。
***
だが――そのクレーターを取り囲む平原の周囲において、二人を助けようと駆け寄る者は、誰一人として現れなかった。
平原の西の岩陰。
第二皇女セシリアの手引きによって、事前に前線本陣から五里以上後退し、難を逃れていた後方輜重部隊および予備兵力――三万を超えるガルディニアの将兵たち(第45話)。
さらに、酸の雨を辛うじて生き延び、平原の端へと逃げ惑っていた数千の敗残兵たち。
彼らは、巨大なクレーターの底でのたうち回る皇太子と偽聖女の姿を、ただ冷酷な、そして底知れぬ恐怖の眼差しで見つめていた。
「…………」
誰の手にも、武器は握られていなかった。
槍は泥の中に突き刺され、弓の弦は切られ、剣は地面へと投げ捨てられていた。
セシリアが事前に流布させた「神罰の流言」(第42話)のすべてが、今、目の前で完璧な現実となって証明されたのだ。
本物の聖女ヴァレリア様を裏切り、深淵へ突き落とした大罪。
その天罰として、五十門の魔導砲の熱線すら空中で静止させられ、三倍の威力となって元凶たちの頭上へと逆流したという、神話の如き超常の奇跡。
「……あいつらが、招いたんだ」
一人の古参兵が、震える声で呟いた。
「俺たちの仲間を飢えさせ、毒水を飲ませ、酸の雨で焼き殺し……そして最後は、自分たちの撃った大砲で自滅したんだ」
「神罰だ……。本物の、神の裁きだ……!!」
ざわざわと広がった呟きは、瞬く間に、数万人の兵士たちの魂を貫く絶対の確信へと変わった。
皇室への忠誠など、完全に灰となった。
兵士たちは誰から命じられるともなく、泥濘の上に次々と両膝をつき、平原の北東――『鷲見の丘』の頂上へ向けて、祈るように両手を組み、平伏し始めたのだ。
***
その、地獄の焦土を見下ろす『鷲見の丘』の頂上。
平原を吹き荒れた凄まじい爆風と熱波の嵐は、原初の魔王ヴォルフラムが展開した漆黒の結界によって完全に霧散し、この高台の上には、一粒の砂、一筋の煙すら届いていなかった。
秋の爽やかな風が、純白の白絹の天幕を優雅に揺らしている。
ペルシャ絨毯の上に置かれたマホガニーの円卓には、塵一つ落ちていない。
銀の燭台に灯された白檀の香煙が甘く漂い、小型オルガンの前に座るマティアスが、戦勝を告げる厳粛な讃美歌の和音を静かに奏でていた。
その円卓の中央。
肘掛け椅子に深く身を沈めるヴァレリア・フォン・アルトハイムの元へ、筆頭侍女長グレーテが音もなく進み出た。
グレーテは、氷で冷やされた純銀のクーラーから、深紅のボトルを恭しく引き抜いた。
カイザーライヒ皇室の秘蔵酒『緋天の雫』。
トクトクトク……と、透き通るようなクリスタルグラスへと、ルビー色の美酒が並々と注ぎ込まれる。
ヴァレリアは、白磁の指先でそのグラスを優雅に持ち上げた。
傷一つない滑らかな素肌。濡れたように艶やかな黒髪。
そして、眼下の巨大なクレーターで泥を啜る元婚約者と偽聖女を、まるで足元に転がる石ころを見るかのように見下ろす、冷涼極まる紫紺の双眸。
ヴァレリアは、長椅子からゆっくりと立ち上がった。
漆黒と黄金のドレスの裾をさらりと翻し、断崖の手すりへと歩み寄ると、手にしたグラスを、朝陽の光へ向けて高く掲げたのだ。
「――素晴らしい花火でしたわね、皆様」
鈴を転がすような、だが大陸の覇者すら傅かせる絶対の声音。
ヴァレリアは艶やかな紅唇を綻ばせ、背後に侍る者たちを振り返って微笑んだ。
「十万の軍勢が、自らの悪意で自らを焼き尽くす……。これほど滑稽で、これほど美しい喜劇、そうそう観られるものではありませんわ。――さあ、祝杯をあげましょう」
「「「おお……ッ!!」」」
その言葉に応じ、円卓を囲んでいた四人の男たちが、一斉に立ち上がった。
皇帝コンラートは、自らのグラスを豪快に掲げ、歴戦の傷跡を刻んだ精悍な顔に獰猛な笑みを浮かべた。
「全軍突撃など、最初から無粋な考えだったな! 指一本触れず、敵の全火力を逆流させて自滅させる……これぞ真の覇道、真の支配だ! ヴァレリア、君のその冷徹なる知略に、我が帝国の全軍を賭けて乾杯しよう!」
「我が主……我が唯一の至高の女神よ!」
ヴォルフラムが黒銀の長髪を揺らし、金色の瞳を狂信の炎に燃え上がらせながらグラスを捧げ持つ。
「羽虫どもが自らの毒で溶け崩れる様、実に見事な余興でございました! 貴女の御神威を曇らせる愚者どもに、相応しき無惨な結末! 我が魂のすべてを、貴女の美酒に捧げますぞ!」
「ヴァレリア様、僕も乾杯します!」
銀髪の少年暗殺者キリアンが、足元から飛び起き、無邪気な笑みを浮かべて小さなグラスを掲げた。
「あいつらの叫び声、とってもいい音でしたね! いつでもあのクレーターに飛び込んで、皇太子の耳と鼻を切り落としてきますから、命じてくださいね!」
「神などただの妄想……生ける唯一神ヴァレリア様に、永遠の信仰と賛美を!」
マティアスがオルガンから身を乗り出し、陶酔の面持ちで聖杯を掲げる。
カラン――。
五つのクリスタルグラスが、朝陽の下で澄んだ音を立てて打ち合わされた。
世界最高峰の男たちを侍らせ、冷酷なる美酒を一息に飲み干すヴァレリア。
その横顔には、十年の苦難を乗り越えた者だけが宿す、一片の揺らぎすらない絶対の全能感が満ちていた。
傍らで、女軍師ヒルデガルトがバインダーを開き、冷徹な事務的報告を告げる。
「……報告いたします、ヴァレリア閣下。ガルディニア帝国軍の前線司令部は完全に壊滅。敵の軍事指揮系統は消滅いたしました。……これにより、ガルディニア帝国が我がカイザーライヒ、並びに貴女様に対して行使し得る軍事的な脅威は、完全に『ゼロ』となりました」
軍事衝突の完全なる終焉。
カイザーライヒ軍は、弓矢の一本、魔導砲の一発すら撃つことなく、ただ特等席で紅茶とワインを飲んでいただけで、敵国十万の大軍を完膚なきまでに自滅させたのだ。
――そして。
その祝杯の余韻を破るように、平原の彼方から、地鳴りのような響きが押し寄せてきた。
ドォォォォォォォォッ……!!
「……ん?」
コンラートが眉をひそめ、断崖の下を見下ろした。
平原を埋め尽くしていた数万のガルディニア兵士たち。
彼らが、クレーターの周囲で泥に平伏したまま、断崖の上の白絹の天幕――そこに立つヴァレリアの姿を見上げ、一斉に、喉が張り裂けんばかりの絶叫を上げていたのだ。
『カイザーライヒ万歳ッ!!』
一人の叫びが、十人、千人、数万人へと連鎖していく。
『真の聖女ヴァレリア様、万歳ッッ!!』
『俺たちをお救いくださった、本物の神の御使い様だぁぁぁっ!!』
『ヴァレリア様! ヴァレリア様万歳!! 万歳ッ!!』
平原を叩き割らんばかりの大歓声。
敵国の軍勢であったはずの兵士たちが、自国の皇太子を見捨て、自分たちを自滅から救い、偽聖女を撃ち破ったヴァレリアを、本物の救世主として狂熱的に讃え、平伏していたのだ。




