第47話:【絶対反跳】――空前絶後の反転 〜白銀に染まりし数万の弾幕と、道化を呑み込む因果の逆流〜
世界から色彩が剥ぎ取られ、白と黒のモノクロームの静寂が支配する赤鷲平原の上空。
天を衝く断崖『鷲見の丘』の頂、純白の絹布を張った天幕のわずか数十メートル手前の虚空において、時間そのものが分厚い氷の底へと封じ込められていた。
五十門の大型要塞魔導砲『雷神の巨筒』から撃ち放たれた、神木の幹ほどもある極太の熱線。
数万本におよぶ魔導火炎の矢の黒雲。
そして、音速を超えて回転しながら飛来していた数百発の重魔導炸裂弾。
国家の全火力を一極集中させた数万発の飽和攻撃のすべてが、空中に彫刻されたガラス細工の如く、一ミリの微動すら許されずに完全静止していた。
熱線の表面で爆ぜるはずのプラズマの火花が、空中で静止したまま燐光を放っている。
矢の先端に塗られた引火性の霊油の炎は、燃え上がる形のまま凍結し、投石器から放たれた炸裂弾の砲尾から噴き出す黒煙すら、渦を巻いたまま静止している。
直撃までコンマ零秒。あと一呼吸でも進めば、断崖の巨岩ごと数万の将兵を更地へと蒸発させていたはずの絶対の暴力。
それが今、長椅子に腰掛ける一人の女性の指先――閉じた扇子の切っ先から数十センチの虚空において、見えない壁に額を押し付けられた哀れな野獣のように、無様に宙吊りにされていた。
「…………な」
カイザーライヒ帝国皇帝コンラートは、抜刀しかけていた古代魔剣の柄を握り締めたまま、全身の筋肉を硬直させていた。
歴戦の覇王として、幾千もの戦場を駆けてきた男の理性が、目の前で繰り広げられている超常現象を拒絶し、悲鳴を上げていた。
防壁で受け止めたのではない。
相殺したのでもない。
物理法則、魔法理論、時間と空間の連続性――この世に存在するあらゆる理をねじ伏せ、飛来した質量と熱量のすべてを「停止」させているのだ。
「……信じられん。魔導障壁の反発音すら存在しないだと……? これだけの質量を空中で制止させておきながら、魔力の波紋一つ立っていないというのか……!?」
コンラートの背後で、女軍師ヒルデガルトが金縁の眼鏡を震える指先で押し上げ、口元を戦慄のあまり歪めていた。
数値化など不可能。軍事国家カイザーライヒが誇るいかなる魔導観測儀をもってしても、この現象の出力を測定することなど叶わない。なぜなら――ヴァレリア自身は、自らの魔力を「一滴たりとも消費していない」からだ。
「くくっ……あはははは! 見よ、これぞ我が神の御業ぞ!!」
背後に控える原初の魔王ヴォルフラムが、歓喜のあまり黒銀の長髪を波打たせ、喉を震わせて哄笑した。
金色の双眸を爛々と輝かせ、魔王は平原の泥濘を見下ろして唾を吐き捨てる。
「哀れな羽虫どもめが! 我が主を害そうと放ったその全力の殺意が、今まさに自らの首根っこを締め上げる万力の鎖となるとも知らずに! 貴様らが束ねた悪意の質量こそが、我が主が振るう天秤の最大の錘なのだ!!」
足元の絨毯の上では、銀髪の少年暗殺者キリアンが、ヴァレリアの膝に頬をすり寄せ、陶酔の吐息を漏らしていた。
少年は宙に静止する数万の弾幕を見上げ、無邪気極まりない冷酷な笑みを浮かべる。
「ねえ、ヴァレリア様……。あんなにいっぱい、ヴァレリア様へのプレゼントが集まりましたね。……あのお馬鹿な皇太子、自分の撃った弾でどんな風に潰れるのかな。ぐちゃぐちゃにミンチになって、泥水の中に溶けちゃうのかなぁ……」
怪物たちの狂喜と賛美が響き渡る中。
当のヴァレリアは、長椅子の背もたれに優雅に身体を預けたまま、静かに息を吸い込んだ。
彼女の胸の奥底――肉体ではなく、魂の深淵に刻み込まれた【因果の天秤】が、カチリ、カチリと冷たく重厚な歯車を回転させていた。
――第一原則【悪意の神聖精製】。
――第二原則【因果の絶対反跳】。
十年間、地下牢で理不尽な呪詛と瘴気を吸い続け、生贄として奈落へ落とされた瞬間に覚醒した絶対のチートコード。
そのシステムは、今まさに完全なる臨界駆動を果たしていた。
敵が放った悪意の規模が大きければ大きいほど。
込められた殺意の純度が高ければ高いほど。
ヴァレリアは自らの身を削る必要など一切なく、相手が撃ち出したエネルギーを百パーセント自らの支配下に置き、増幅して送り返す権利を獲得する。
――ギギギギギギッ……!!
虚空に静止していた数万発の弾幕の表面で、異変が起き始めた。
五十門の魔導砲の熱線が纏っていた濁った真紅の光条。
数万本の矢の鏃で揺らめいていた黒煙の混ざる汚濁の炎。
そして、炸裂弾から漂っていた硫黄と火薬の悪臭。
それらの「ドス黒い暴力の残滓」が、まるで純水の中に落とされた一滴の墨汁が瞬時に中和されるかのように、急速にその色を塗り替えられていったのだ。
赤が消え、黒が霧散する。
現れたのは――息を呑むほどに美しく、神々しいまでに澄み渡った『純白の神気』。
ユースティスの劣等感、マリアベルの嫉妬、兵士たちの恐怖――ドブ泥のように濁りきっていた十万人分の怨嗟が、ヴァレリアの魂のフィルターを通過した瞬間、触れる者を救済するかのように清らかな、白銀の神聖粒子へと百八十度反転変換されたのだ。
空を埋め尽くす数万発の死の兵器の群れが、今や、神話の天空を照らす無数の星屑の如く、純白の輝きを放ちながら虚空に整然と浮かび上がっていた。
そして――。
その神聖精製に伴い、弾幕の纏うエネルギー総量は、元の破壊力の「三倍」へと、爆発的な増幅を遂げていた。
***
――数里離れた赤鷲平原の泥濘、ガルディニア軍前線陣地。
「な……」
指揮壇の上で、抜刀した白銀のサーベルを天へ掲げたまま、皇太子ユースティスは石像のように凍りついていた。
包帯の隙間から覗く血走った両目が、望遠魔導鏡すら必要としないほど眩く天空を照らし出す『純白の光の群れ』を捉えていた。
なぜだ。
五十門の大型魔導砲は、確かに撃ち放たれたはずだ。
数万本の矢も、投石器の炸裂弾も、平原を揺るがす轟音と共に、間違いなくあの断崖の上の天幕目掛けて殺到したはずなのだ。
爆発が起きていない。
土煙一つ上がっていない。
それどころか――撃ち込まれたはずのすべての砲弾が、あの白い天幕の数十メートル手前で、まるで天上の天井に突き刺さったかのように、ピタリと静止している。
「な、何が起きているのだ……!? なぜ着弾せん!? なぜ爆発せんのだぁぁっ!!」
ユースティスは唾を撒き散らし、足元に平伏する砲兵将校を軍靴で狂ったように蹴り飛ばした。
「おい、答えろ! 不発弾か!? 全門揃って不発だと抜かすのか!!」
「わ、分かりません……! 分かりません殿下ぁっ!」
将校が泥に額を擦り付け、悲鳴を上げる。
「魔導炉のテレメトリーが完全に途絶いたしました! 放たれた砲弾との魔力パスが……すべて、何者かによって『上書き』されております! 制御不能です、我が軍の砲弾でありながら、我々の魔力信号を一切受け付けません!!」
「上書きだと……!? 誰が、誰がそんな真似を――」
「あ……あぁ……っ、あぁぁぁぁっ!!」
ユースティスの怒号を切り裂いて、指揮壇の床から、耳を塞ぎたくなるような金切り声が響いた。
新聖女マリアベルであった。
顔の半分を覆う包帯から黄色い膿を垂れ流し、チリチリに焼け焦げた金髪を振り乱しながら、マリアベルは泥の上を這いずり、天空を見上げてガタガタと歯の根を鳴らしていた。
彼女の体内の魔力回路が、魂の奥底に打ち込まれた因果の杭を通じて、天上の白銀の光が放つ「正体」を、誰よりも正確に感知してしまっていたのだ。
「あ……あの光……! 神聖魔力よ……! 私の光なんか比べ物にならない、本物の……神話級の神聖魔力だわ……!!」
マリアベルの瞳孔が、極限まで見開かれる。
「ヴァレリアよ……! あの女が、私たちの撃った砲弾のすべてを、自分の力に変えてしまったのよ!!」
「何だと……!?」
ユースティスの贅肉のついた顎が、激しくガクガクと震え始めた。
「あいつが……あの大聖堂の生贄が、十万の飽和攻撃を丸ごと呑み干したというのか!? バカな……そんなことがあってたまるか! 人間業ではない、化け物だ……あいつは本物の化け物だぁぁっ!!」
恐怖。
自らが犯した大罪の深さが、物理的な質量となって眼前に突きつけられた瞬間であった。
十年間、地下牢で泥水を啜らせていた女は、自分たちが手を下せる領域を遥か何万光年も超越した、絶対の神の玉座へと君臨していたのだ。
***
断崖の頂上――『鷲見の丘』。
純白の白絹の天幕の下、心地よい秋風がヴァレリアの漆黒のドレスの裾をさらさらと揺らしていた。
卓上の白磁のカップから立ち上る紅茶の湯気は、未だに温もりを失っていない。
皇帝コンラートが息を呑み、五万のカイザーライヒ将兵が刮目する中――ヴァレリアは、ゆっくりと右手に持った白骨の扇子を胸元へと引き寄せた。
そして。
天を埋め尽くす白銀の弾幕を見上げ、鈴を転がすような、だが地獄の底まで凍てつかせるような冷涼なる声音を、静かに平原へと投げ下ろしたのである。
「――お返ししますわ」
ヴァレリアの紫紺の双眸が、黄金の神気を宿して妖艶に細められた。
「貴方たちの、浅ましく醜悪な悪意のすべてを」
トン、と。
ヴァレリアの白磁の指先が、扇子の親骨をわずかにスライドさせ、優雅に宙を撫でるように――前方へ向けて、軽やかに一振りされた。
その、刹那であった。
――ギギギギギギギギッッッッ!!!!
空間が、軋みを上げて悲鳴を上げた。
虚空に完全静止していた数万発の弾幕のすべてが、寸分の狂いもなく一斉に、ギチギチと音を立てて『百八十度回頭』したのだ。
五十門の大型魔導砲の熱線の先端が。
数万本の火炎の矢の鏃が。
数百発の重魔導炸裂弾の信管が。
その切っ先を、断崖の天幕から――遥か彼方、赤鷲平原の泥濘の中央に鎮座する『ガルディニア軍本陣』へと、一分の狂いもなく反転固定させたのである。
「…………あ」
平原の指揮壇の上で、ユースティスの喉から、掠れた空気の抜ける音が漏れた。
マリアベルが白目を剥き、その場に失禁の海を広げる。
次の瞬間――世界のタガが、完全に外壊した。
――ドォォォォォォォォォォォォンッッッッ!!!!
音の壁を突き破る衝撃波が、天空を真っ二つに引き裂いた。
反転した数万発の弾幕が一斉に、射出された元の場所目掛けて、猛烈な逆流を開始したのだ。
それも――放たれた時とは、完全に別次元の速度と威力をもって。
第二原則【因果の絶対反跳】によって付与された速度は、元の弾速の実に「三倍」。
音速を遥かに超越した白銀の光弾の群れは、大気との摩擦熱によって青白い衝撃波のリングを幾重にも撒き散らしながら、地平線を一瞬で飛び越えた。
空が割れる。
大気が悲鳴を上げる。
白銀の閃光の濁流が、まるで天から降り注ぐ裁きの雷霆の如く、一直線にガルディニア軍本陣の頭上へと逆流していく。
「ひ……ひぃぃぃっ!?」
「戻ってくる……!? 俺たちの撃った砲弾が、戻ってくるぞぉぉぉっ!!」
前線陣地に残されていた数千の近衛兵や砲兵たちが、武器を取り落とし、我先にと泥濘の中を這いずり回って逃げ惑った。
だが、逃げ場など世界のどこにも存在しなかった。
音速の三倍で迫る数万発の飽和攻撃。一歩を踏み出す猶予すら、運命は彼らに与えはしなかった。
「助けて……助けてぇぇぇっ! 誰か助けてくれぇぇぇっ!!」
ユースティスは血塗れのサーベルを放り出し、指揮壇の床に這いつくばって、涙と鼻水を撒き散らしながら絶叫した。
隣では、マリアベルが両手で頭を抱え込み、喉が引き裂けんばかりの金切り声を上げている。
「嫌ぁぁぁっ! 死にたくない! 死にたくないわぁぁぁぁっ!!」
だが――二人の哀れな道化の断末魔は、天地を粉々に叩き割るような、絶対の破滅の轟音によって、跡形もなく掻き消された。
――ズガァァァァァァァァァァァァァァァンッッッッ!!!!
直撃。
ガルディニア帝国軍本陣を中心に、平原の赤土が、直径数キロメートルにわたって天高く吹き飛んだ。
白銀に精製された五十門の魔導砲の熱線が本陣の指揮壇を呑み込み、数万本の神聖の矢が泥濘を余すところなく刺し貫き、数百発の炸裂弾が連鎖爆発を起こして大地を更地へと削り取る。
自らの放った最大火力が、三倍の質量となって自らの頭上へと叩き落とされたのだ。
迎撃陣地は一瞬にして粉微塵に消滅し、五十門の大型魔導砲は炉心ごと大爆発を起こして火柱を噴き上げ、近衛部隊の兵舎や馬車は木っ端微塵となって夜明けの空へと吹き散らされた。
ドォォォォォォォォォォッ……!!
凄まじい爆風が平原を舐め尽くし、濛々たる白煙が天を覆い尽くす。
破壊の中心地――先ほどまでガルディニア軍本陣が傲然と鎮座していた赤鷲平原のど真ん中には、太陽の如く眩い純白の巨大なキノコ雲が、轟音と共にゆっくりと立ち昇り、地平線のすべてを白銀の光で呑み込んでいった。
***
断崖の上の白絹の天幕。
吹き荒れる爆風は、ヴォルフラムが展開した漆黒の結界の表面でチリチリと音を立てて霧散し、ヴァレリアの黒髪の毛先一本すら揺らすことはなかった。
ヴァレリアは、平原を覆い尽くす純白のキノコ雲を見下ろしながら、手にした扇子をパチンと心地よい音を立てて閉じた。
「……ごちそうさまでした」
鈴を転がすような、冷酷にして優雅なる吐息。
彼女に向けられた国家規模の悪意のすべてが、今、完璧な等価交換――否、三倍の質量の自滅となって清算された瞬間であった。
向かいの席で、皇帝コンラートが呆然と口を開けたまま立ち尽くし、将軍たちが腰を抜かして平伏する中。
筆頭侍女長グレーテが、無駄のない神業のような所作で、ヴァレリアの前の空になったカップへと、湯気を立てる新たな紅茶を静かに注ぎ入れた。
「我が主。お茶の蒸らし、完璧に完了いたしました」
「ええ、ありがとう、グレーテ」
ヴァレリアは微笑み、立ち昇る極上の香気を楽しみながら、白磁のカップを唇へと運んだ。
眼下の焦土から響いてくるのは、自らの攻撃によって壊滅した帝国軍の、言葉を失うほどの阿鼻叫喚と、自滅の爪痕。
絶対の女帝の特等席における優雅なる観劇は――今まさに、最も華々しいクライマックスを迎えようとしていた。




