第46話:降り注ぐ数万の悪意 〜天を焦がす五万の閃光と、時を止める天秤の針〜
空が、真っ赤に沸騰していた。
赤鷲平原の広大な上空――標高千メートルを超える『死竜の爪痕』から、カイザーライヒ軍が陣取る北東の断崖『鷲見の丘』へと至る数里の虚空が、視界のすべてを焼き尽くすほどの光と熱の暴流によって埋め尽くされていた。
五十門の要塞大型魔導砲『雷神の巨筒』から一斉に解き放たれたのは、太古の神話において巨人を打ち倒したとされる高密度熱線。
一本一本が巨大な神木の幹ほどもある極太の閃光が、空間をねじ曲げ、大気をプラズマ化させながら、一直線に断崖の頂上へと殺到する。
その熱線の軌道を覆い隠すようにして天を埋め尽くしたのは、数万本に及ぶ魔導火炎の矢の黒雲であった。引火性の霊油を満載した鏃が空気を裂くたびに、キリキリと引き絞られた金属の悲鳴が重なり合い、まるで空そのものが黒い刃の津波となって降り注いでくるかのような錯覚を抱かせる。
さらに、投石器から射出された数百発の重魔導炸裂弾が、音速を遥かに超える唸り声を上げて飛翔し、空中で次々と発光しながら、断崖全体を丸ごと更地へと消滅させるべく軌跡を描いていた。
ガルディニア帝国軍十万の軍勢が、自らの命と国家の全財産を削り尽くして放った、最後の飽和総攻撃。
それは、兵術の理屈や戦略の粋を集めたものなどでは断じてなかった。
大階段から転落し、鼻を粉砕された皇太子ユースティスの底知れぬ劣等感と保身の狂気(第45話)。
自らの美貌を火傷で失い、偽りの権威を剥ぎ取られた新聖女マリアベルの、ドス黒い嫉妬と怨嗟。
そして、諫言した老将軍の首を撥ねられ、自爆同然に撃鉄を引かされた兵士たちの、逃れようのない恐怖と絶望の叫び。
国家規模の純度百パーセントの「悪意の質量」が、巨大な鉄槌となって、天と地の間を叩き割らんばかりの勢いで突進していたのである。
***
断崖の頂上――『鷲見の丘』の最前線に整列していたカイザーライヒ帝国軍五万の精鋭軍団に、凄まじい衝撃波の前兆が突き刺さった。
ドォォォォォォォォッ……!!
光の速度で迫る熱線が平原の大気を引き裂き、地響きのような暴風が断崖の絶壁を激しく揺さぶる。
黒鉄の重装甲冑に身を包んだ精鋭黒竜騎兵たちですら、愛馬の轡を必死に抑え込まねば、吹き飛ばされそうなほどの突風。
大気中の魔力濃度が異常なまでに跳ね上がり、肌をチリチリと焼くオゾン臭と、飛来する砲弾が纏う高熱によって、断崖の草木が一瞬にしてチリチリと音を立てて焦げ始めた。
「な……ッ!?」
「総員、防御結界を展開せよ! 魔導重盾兵、前へ出ろ!!」
歴戦の将軍たちが血相を変え、抜刀して号令を叫んだ。
彼らは数々の激戦を勝ち抜いてきた百戦錬磨の武人たちであったが、これほどまでに無秩序で、これほどまでに狂乱じみた「全火力の集中砲火」を目にするのは、軍歴の中で一度たりともなかった。
敵軍は射程の限界すら無視し、自軍の魔導砲の炉心を限界突破で融解させながら、ただ一つの目標――この断崖の先端だけを消滅させるためだけに、すべての弾薬を叩き込んできたのだ。
直撃すれば、断崖の岩盤ごと数百メートルにわたって吹き飛び、巨大なクレーターが穿たれる。
いくら五万の精鋭軍団であっても、防御陣形を固めなければ万単位の死傷者が出ることは火を見るより明らかであった。
そして――。
円卓の席に腰掛けていた皇帝コンラートもまた、その凄まじい光景を真正面から見据え、息を呑んだ。
「…………っ!」
ガタンッ!と鈍い音を立てて、コンラートの巨体が肘掛け椅子から跳ね起きた。
歴戦の覇王の琥珀色の双眸に、戦慄の色が走る。
彼は瞬時に腰の古代魔剣の柄へと右手をかけ、全身から黄金の覇気を爆発させた。
「ヴァレリア! いくら何でも、この規模は――!!」
コンラートの叫びは、覇王としての本能的な危機感から出たものであった。
彼はヴァレリアの底知れぬ魔力を知っている。彼女が並の攻撃など意に介さないことも理解していた。
だが、眼前に迫っているのは、国家の全火力を一極に収束させた、神話の天変地異に匹敵する物理と魔力の暴力の塊なのだ。
自らが前へ出て魔剣を抜き、カイザーライヒの全魔導士に防御障壁を重ねさせなければ、この白絹の天幕ごと灰燼に帰してしまう――コンラートが自らの肉体を盾にしてヴァレリアの前へ立ちはだかろうと、半歩踏み出した、その瞬間であった。
コトリ。
地鳴りの如き爆音と熱波の嵐の中にあって、信じがたいほどに澄み渡った、硬質な陶器の音が響いた。
「……え?」
コンラートの足が、ピタリと止まった。
断崖の突端、純白のペルシャ絨毯の中央。
白絹の天幕の下で、ヴァレリア・フォン・アルトハイムは――一度たりとも、その腰を椅子から浮かせようとはしていなかった。
彼女は、右手の白磁の指先で持っていた白磁のティーカップを、銀のスプーンの横――ソーサーの窪みへと、寸分の狂いもなく優雅に戻したところであった。
カップの表面に波紋一つ立っていない。
世界を焼き尽くすほどの光と熱が目と鼻の先まで迫り、空が紅蓮に染まり、大地が軋みを上げているというのに、彼女の動作には、朝露の一滴ほどの乱れすら存在しなかった。
ヴァレリアは、そっと紫紺の双眸を伏せ、そして、ゆっくりと持ち上げた。
その双眸に宿っていたのは、恐怖でも、緊張でも、ましてや防衛の焦りでもない。
退屈なチェスの盤面の上で、相手が自らキングの首を差し出してきた瞬間を確かめたかのような――絶対の冷淡さと、底知れぬ静謐。
「――動かないで、コンラート」
涼やかな、鈴を転がすような声音。
ヴァレリアは薄い紅唇をかすかに綻ばせ、立ち塞がろうとしていた皇帝を、横目で優雅に見上げた。
「お茶が、冷めてしまいますわ」
「な……」
コンラートの喉が、息を呑んで詰まった。
目の前に、数十万度の熱線と数万発の砲弾が殺到しているのだ。
それに対して返された言葉が、「お茶が冷める」だと?
常軌を逸している。狂気。だが――そのあまりにも泰然自若とした佇まいに、大陸の覇王たるコンラートすら、金縛りに遭ったかのようにその場に縫い止められてしまった。
ヴァレリアの背後。
大理石の円柱の影から身を乗り出していた原初の魔王ヴォルフラムは、金色の双眸を縦スリットの凶眼へと細め、鋭利な牙を剥き出しにして、獰猛な恍惚の笑みを浮かべていた。
「くくっ……くはははは! 愚かしい、あまりにも愚かしい羽虫どもよ!」
魔王の喉から、歓喜の重低音が漏れ出る。
「我が神の御前に向けて、これほどの極上の悪意を束ねて差し向けるとはな! 死に損ないの豚どもめ、貴様らが全力で撃ち出したその一撃こそが、自らの頭蓋を粉砕する最大の鉄槌になるとも知らずに!!」
ヴァレリアの足元の絨毯の上では、銀髪の少年暗殺者キリアンが、手にしたダガーを胸に抱きしめ、頬を薔薇色に染めながら、夢見るような瞳で主の横顔を見上げていた。
「あぁ……綺麗……。ヴァレリア様、すっごく綺麗です……」
キリアンは恍惚と息を呑み、少年の柔らかな吐息を漏らす。
「あんな汚い光、ヴァレリア様の一本の髪の毛に触れることすら許されないのに……。全部、全部跳ね返って、あの皇太子の身体がミンチになるのが、僕、楽しみで仕方ありません……」
さらに斜め後方では、元筆頭司教マティアスが、小型オルガンの鍵盤から両手を離し、両手を天へと高く掲げて陶酔の祈りを叫んでいた。
「来なさい、愚者たちの怨嗟よ! 貴方たちの浅ましき殺意のすべてが、生ける女神ヴァレリア様の御神威を讃える最高のリフレインとなるのだ! ああ、なんと完璧な因果! なんと甘美なる背徳の福音か!!」
そして、ヴァレリアの真横に控える筆頭侍女長グレーテは――。
飛来する巨大な閃光の照り返しを浴びながらも、眉毛一つ動かさず、白手袋の手で銀のティーポットの蓋を静かに押さえ、温度計の針を事務的に確認していた。
「我が主。お茶の蒸らし時間、あと三十秒でございます」
「ええ、ありがとう、グレーテ。ちょうどいい潮時ね」
ヴァレリアは微笑み、手にした白骨の扇子を、パチンと心地よい音を立てて閉じた。
その瞬間であった。
――ズギャァァァァァァァァンッッッッ!!!!
空間が、断末魔の悲鳴を上げた。
五十門の大型魔導砲の熱線、数万本の火炎の矢、そして数百発の炸裂弾が、ついに『鷲見の丘』の断崖の突端――白絹の天幕の、わずか数十メートル手前の虚空へと、一斉に突入したのだ。
熱風がヴァレリアの漆黒のドレスの裾を激しく煽る。
閃光が彼女の白磁の素肌を眩い白銀の色に染め上げ、迫り来る砲弾の風圧が、天幕の絹布をビリビリと震わせる。
直撃まで、コンマ零秒。
常人の動体視力では、すでに死を認識することすら叶わぬ、絶対の終焉の刹那。
だが――。
その、滅びの切っ先がヴァレリアの伸ばした扇子の先端から数十センチの空間へと触れた、まさにその瞬間。
――カチリ。
世界から、すべての音が消え去った。
「…………っ!?」
平原にいた十万の将兵、逃げ惑う敗残兵、後方に待機するセシリア、そしてカイザーライヒの五万の軍勢――その場に存在する数万、数十万の人間の脳髄の奥底に、直接、巨大な金属の天秤が傾く重厚な音が鳴り響いた。
肉体で聞く音ではない。
魂の核に直接刻み込まれた、絶対の因果律の作動音。
次の瞬間――世界が、その色彩を完全に失った。
視界のすべてが、白と黒の二色へと反転する。
轟音も、熱波も、風のうねりも、心臓の鼓動すらも、極限まで引き延ばされた時間の中で、完全なる無音の深淵へと吸い込まれていく。
――原初固有能力【因果の天秤】。
――第一原則【悪意の神聖精製】、全出力励起。
――対象ログ:ガルディニア帝国軍前線部隊、皇太子ユースティス、新聖女マリアベルによる国家規模の総力殺害意志。
――加害総質量:計測不能(神話級)。
――因果判定:完全なる一方的加害。反跳権利の行使を――承認。
ヴァレリアの胸の奥底で、十年間耐え抜いた呪詛の質量が、黄金の神気となって静かに脈動した。
彼女に向けられた悪意が大きければ大きいほど、その攻撃が暴力的であればあるほど――【因果の天秤】にとって、それは防ぐべき脅威ではなく、ただ自らの糧となり、敵を滅ぼすための無尽蔵の燃料に他ならなかった。
ヴァレリアは、長椅子に深く腰掛けたまま、ゆっくりと右手を持ち上げた。
閉じた扇子の切っ先を、迫り来る数万発の弾幕の中心目掛けて――トス、と虚空を軽く突くように、ただ一押しした。
その刹那。
ピタリ。
息を呑むような静寂。
天幕の数十メートル手前、空を焼き尽くしていたはずの数万発の飽和攻撃のすべてが――まるで、分厚い透明な氷の壁に激突したかのように、虚空に完全静止したのだ。
光速で迫っていたはずの五十門の魔導砲の熱線が、空中に固定された光の彫刻の如く固まっている。
空を埋め尽くしていた数万本の火炎の矢が、炎の揺らめきすら静止させ、矢尻を天幕に向けたまま空中に浮遊している。
音速を超えて回転していた数百発の炸裂弾が、噴き出す火薬の煙ごと、空中でピタリと制止している。
一ミリも前へ進まない。
一欠片の熱量すら、ヴァレリアの元へ届かない。
天を覆う数万の死の兵器の群れが、ただ一人の女性の扇子の先で、完全に世界から切り離されたかのように、沈黙の檻の中に閉じ込められていた。
「…………な」
コンラートの口から、掠れた声が漏れた。
魔王ヴォルフラムが歓喜に目を細め、キリアンが息を呑む。
自らの放った最大の悪意の嵐を、空中で完全静止させられた平原のユースティスとマリアベルは――望遠鏡の向こうで、ただ白目を剥き、言葉を失って震え上がっていた。
そして――。
静止した数万の弾幕を見上げ、ヴァレリアは、紫紺の双眸を冷酷に細めると、艶やかな紅唇を、至高の嗜虐の笑みへと綻ばせたのであった。




