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第45話:狂乱の一斉射撃命令 〜泥濘を染める諫臣の血と、孤立せし道化の引き金〜

赤鷲平原の赤土を切り裂く突風が、ガルディニア帝国軍前線指揮壇に翻る金糸の軍旗を激しく引き裂かんばかりにはためかせていた。

酸の雨が降り止んだ後の泥濘からは、未だに肉と鉄が溶け崩れた白煙と、鼻腔を麻痺させる硫黄の異臭が絶え間なく立ち上っている。

だが、その地獄絵図のただ中にそびえる指揮壇の上において、第一皇太子ユースティスの全身から放たれていた狂気は、戦場の大気すら凍りつかせるほどに濁り、煮ええたぎっていた。


「大型魔導砲を全門、即刻装填せよと言っているのが聞こえぬのか、この役立たず共がァッ!!」


鼓膜を劈く金切り声が、平原に轟いた。

壇上に仁王立ちするユースティスの顔面は、人間としての原型を失いかけていた。

大階段の転落事故(第12話)で粉砕骨折した鼻を覆う白い包帯は、激痛と阿片軟膏の乱用による脂汗で黄色く染まり、滲み出た膿が顎先からポタポタと滴り落ちている。

激痛を麻痺させるために大量の麻薬を流し込み続けた男の眼球は、毛細血管が真っ赤に破裂し、異様に肥大化した瞳孔が、北東の断崖『鷲見の丘』の頂――至高の白絹の天幕の下で優雅に紅茶を傾けるヴァレリアの姿(第44話)を、狂乱の光で射抜いていた。


許せない。

あってはならない。

十年間、地下牢で泥水を啜り、自らが「薄汚いドブネズミ」と嘲笑い、処刑谷の深淵へ蹴り落としたはずの生贄の小娘。

それがなぜ、大陸最強の皇帝コンラートを侍らせ、原初の魔王ヴォルフラムに風を調教させ、手の届かぬ雲の上から、自分を見下ろして微笑んでいるのか。

自らの十万の大軍が内側から腐り落ち、自滅していく阿鼻叫喚を、まるで極上の喜劇を観賞するかのように笑覧しているあの紫紺の双眸――。

その光景が、ユースティスの矮小なプライドと劣等感を、内側から完全に焼き尽くしていた。


「殿下! 殿下、どうか……どうかお気を確かに保ちくださいまし!!」


壇上へ駆け上がり、ユースティスの軍服の裾にすがりついたのは、帝国軍砲兵総監を務める初老の重臣、ガレル中将であった。

泥と硝煙にまみれた甲冑を軋ませ、老将軍は涙を流しながら叫んだ。


「無茶でございます! あの断崖の上の天幕まで、優に五里(約二十キロメートル)以上の距離がございます! 我が軍の現有する大型要塞魔導砲『雷神(トール)の巨筒』であっても、有効射程を遥かに超越しております! 届きませぬ、砲弾は平原の虚空に落ちるだけでございます!!」


「届かぬならば、火薬を詰めろ! 魔導結晶の炉心を限界まで励起させれば届くはずだ!!」

ユースティスは唾を撒き散らし、中将の胸ぐらを掴み上げた。


「馬鹿なことを仰らないでください!」

ガレル中将は悲鳴のような制止の声を張り上げた。

「炉心を励起させる冷却水が、先刻の毒水混入と酸雨によって完全に枯渇しております! 魔導炉に無理な魔力を過充填すれば、砲身が臨界熱量に耐えきれず、装填した瞬間に陣地ごと誘爆いたします! 平原に残る我が直属部隊数千名が、味方の魔導砲の爆発に巻き込まれて全滅いたしますぞ!!」


技術的な限界。物理的な絶対法則。

届かないものは届かない。過負荷をかければ自爆する。

一国の軍隊を預かる技官として、これ以上なく正確で、これ以上なく命がけの正論であった。


――しかし。


「……殺して。……殺してぇぇぇぇっ!!」


指揮壇の隅から、耳を塞ぎたくなるような呪詛の叫びが響いた。

現れたのは、新聖女マリアベル・ローランであった。


顔の右半分を覆う包帯の隙間から、大聖堂の爆発と油の火傷(第18話)によって赤黒くただれ果てた素肌を晒し、チリチリに焼け焦げた金髪を振り乱しながら、女は泥の上を這いずり寄ってきた。

手にした望遠魔導鏡を床に叩きつけ、自らの爛れた皮膚を爪で血が滲むほど掻きむしりながら、マリアベルはユースティスの足首へとすがりついたのだ。


「撃ちなさいよ! 全門で撃ち込みなさいよ、殿下!! あの女の顔を……あの生意気で綺麗な顔を、ドロドロに吹き飛ばしてやりなさい!! 砲身が爆発したっていいじゃない! 兵隊のクズ共が何千人死んだって関係ないわ! あの魔女を、あの大聖堂の生贄女の肉片を、この手で踏み躙らなければ、私は気が狂ってしまうわぁぁぁっ!!」


嫉妬。狂乱。底知れぬエゴイズム。

自らの美貌が失われ、偽りの権威が地に堕ちた現実を受け入れられぬ偽聖女の、剥き出しの怨嗟。

その毒の叫びが、ユースティスの壊れかけた脳髄に、最後の一線を越えさせる決定打となった。


「……そうだ。マリアベルの言う通りだ」


ユースティスの唇が、ヘラリと歪んだ。

男はガレル中将の胸ぐらを離すと、腰の鞘から、家宝の白銀のサーベルを音もなく引き抜いた。


「殿……下……?」

ガレル中将が目を見張り、後ずさろうとした。


「届かぬなどと、誰が決めた? 爆発するなどと、誰が許した?」

ユースティスの瞳から、理性の光が完全に消え去っていた。


「我が威光ある進軍の邪魔をする者は……たとえ重臣であろうと、ただの反逆者だ」


ザシュッ――!!


鈍い肉を断つ音が、指揮壇に響き渡った。


「が……っ、は……!?」


ガレル中将の喉元から、鮮血が噴水のように吹き飛んだ。

白銀の刃は、老将軍の首の半分を骨ごと断ち割っていた。中将は両手で自らの喉を押さえ、血走った目で皇太子を見つめながら、言葉にならない泡を口から噴き散らし、大理石の壇上へと崩れ落ちた。


ドサリ。


壇上に広がる、老重臣の生温かい鮮血の池。

周囲にいた近衛将校たちや伝令兵たちが、恐怖のあまり息を呑み、顔面を真っ青にして凍りついた。

味方の最高技術責任者を、正論を吐いたというだけで、一言の問答もなくその場で斬殺したのだ。


ユースティスは血塗れのサーベルを振り払い、床に転がる中将の遺体を軍靴の爪先で無造作に蹴飛ばした。

そして、返り血を顔面の包帯に浴びたまま、震え上がる将校たちを狂気の眼差しで睨みつけた。


「命令に背く者は、この老いぼれと同じ反逆罪として一族郎党皆殺しにする!! 全門装填だ! 雷神の巨筒、攻撃魔導砲、火炎投石器、弓兵、残るすべての火力をあの天幕へ向けろ!! 最大過負荷で撃ち込めぇぇぇぇぇっ!!」


「ひ……ひぃぃぃっ!!」

「そ、装填! 大型魔導砲、全門装填ッ!!」


絶対の恐怖政治。

将校たちは狂乱の悲鳴を上げながら、通信魔導具に向かって泣き叫ぶように命令を中継した。

もはや誰も、射程の計算も、魔導炉の暴走も口にしなかった。

撃たなければ今ここで首を刎ねられる。ならば、自爆しようとも命令に従うしかないという、極限のパニックに支配された軍隊の末路。


***


平原の前線砲兵陣地。

泥濘の中に据え付けられた、五十門に及ぶ巨大な要塞魔導砲『雷神の巨筒』の周囲で、砲兵たちが泥と血にまみれながら狂乱の作業を繰り広げていた。


「装填しろ! 魔導結晶を二重に入れろ!!」

「ば、馬鹿野郎! 炉心の温度計が真っ赤だぞ! 魔力圧が限界値の三倍を超えている!!」


ギギギギギギ……ッ!!


砲身に刻まれた古代の魔導回路が、耐えきれない高熱によって白熱化し、パチパチと不穏な紫の火花を撒き散らしていた。

冷却水を失った魔導炉の内部から、金属が軋むような甲高い悲鳴が響き渡る。

砲兵たちの手は、恐怖でガタガタと震え、砲弾を押し込む鉄棒を落としかける。

だが、背後には抜刀した近衛兵たちが目を血走らせて監視しており、逃げ出すことすら叶わなかった。


さらに、平原に残る数千の一般兵たちに対しても、狂乱の命令が下されていた。

酸雨で鎧を溶かされ、手足を爛れさせた弓兵たちが、震える指で弓弦を引き絞り、火薬を満載した投石器の滑車が、軋み音を立てて巻き上げられていく。

前線本陣の周囲に密集した数千の兵力が、自らの命を削りながら、ただ一つの丘の天幕目掛けて、全火力を収束させていく地獄のカウントダウン。


――だが。

その狂乱の砲兵陣地の後方。

前線本陣と、後方宿営地を隔てる小高い丘の稜線において。


その破滅の光景を、冷徹極まる菫色の双眸で見下ろしている少女がいた。


ガルディニア帝国第二皇女、セシリア・フォン・ガルディニア。


純白のドレスの裾を泥風になびかせ、衣服の下に隠した【神気の護符】(第33話)にそっと指先を添えながら、セシリアの唇には、氷のように透き通った嘲笑が浮かんでいた。


(……ええ。お見事ですわ、愚鈍なる兄上)


セシリアは、胸元から極秘の通信魔導具を取り出し、背後の影に控えるキリアン配下の暗殺者たち、そして前話で自分に忠誠を誓った後方部隊の将校たち(第42話)へ向けて、静かに合図を送った。


「――今です。全軍、直ちに後退を開始しなさい」


セシリアの冷酷なる勅命。

それは、前線本陣を完全に見捨てる合図であった。


「後方輜重部隊、予備兵力、工兵隊、三万の全将兵を、平原の西の岩陰へと五里以上後退させなさい。……ユースティス兄上とマリアベルの周囲から、我が軍の戦力を完全に離脱させるのです」


「ははっ!!」


暗殺者たちが影を走り、中堅将校たちが音もなく指示を伝達した。

後方に待機していた三万の将兵たちは、すでに武器を破棄し、セシリアの指示に従う覚悟を完了していた。

彼らは前線の砲兵たちが狂乱の装填作業に追われている隙に、泥濘を踏み締め、一言の喚声も上げず、蜘蛛の子を散らすように整然と西の山影へと後退を開始したのだ。


完璧なる孤立トラップ。

セシリアの緻密な誘導により、赤鷲平原の中央に取り残されたのは――狂乱した皇太子ユースティス、爛れた偽聖女マリアベル、そして彼らに盲従する数千名の直属近衛兵と砲兵部隊『だけ』となった。


これによって、断崖の上のヴァレリアが【絶対反跳】を解放した際、跳ね返る災厄の直撃を受けるのは――無辜の一般兵たちではなく、ヴァレリアを十年間虐げ、深淵へと蹴り落とした元凶たちだけに完全に限定される舞台が、ここに完璧に完成したのである。


「踊りなさい、兄上」

セシリアは冷ややかに囁き、懐の護符を握りしめた。

「貴方が全力を注ぎ込めば注ぎ込むほど……我が主の放つ神罰は、貴方の頭蓋骨を木っ端微塵に粉砕するのですから」


***


前線砲兵陣地。

後方の三万が退避したことすら気づかぬほど、前線指揮壇のユースティスは狂乱の極致に達していた。


ピキピキ、バチバチッ!!


五十門の大型魔導砲の砲身全体が、真紅の熱線を発して夜明けの薄暗がりを不気味に照らし出していた。

魔導炉心は臨界限界を突破し、砲尾からは黒い高圧蒸気がプシューッと吹き飛んでいる。

弓兵たちの数万本の矢の先端には、引火性の魔導油が塗りたくられ、投石器には高熱の炸裂弾が装填された。

十万の軍勢が残した、ありとあらゆる破壊のエネルギー。

国家規模の暴力の総質量が、ただ一つの目標――断崖の上の、ヴァレリアが座る白絹の天幕へと向けられていた。


「装填……全門、装填完了いたしましたぁぁっ!!」

砲兵隊長が、血の涙を流しながら絶叫した。


指揮壇の上で、ユースティスは手にしたサーベルを天へと掲げた。

男の喉から、理性の欠片すら残っていない、悪魔の断末魔の如き咆哮が迸る。


「死ねぇぇぇっ! 死ね、死ね、死ねぇぇぇっ!! あの魔女を、生意気なドブネズミを、塵一つ残さず消し去ってしまえぇぇぇぇぇっっっ!!!!」


ユースティスが、血塗れのサーベルを断崖の天幕へ向けて、力任せに振り下ろした。


「――全門、一斉射撃ッ!!!! 撃てぇぇぇぇぇぇぇぇぇッッッッ!!!!」


震える砲兵の手が、魔導砲の撃鉄(トリガー)を叩き落とした。


次の瞬間。


――ドォォォォォォォォォォォォンッッッッ!!!!


天地がひっくり返るような、空前絶後の爆音と衝撃波が、赤鷲平原の大地を叩き割った。


五十門の大型魔導砲から一斉に放たれた、極太の閃光の濁流。

数万本の火炎の矢が空を埋め尽くし、漆黒の雲となって天を覆う。

投石器から射出された数百発の炸裂弾が、空間を焼き焦がしながら音速を超えて飛翔する。

平原の大地が地震の如く激しく波打ち、爆風によって巻き上げられた赤土の津波が、前線陣地を白煙の底へと呑み込んでいく。


数万発の飽和攻撃。

放たれたのは、単なる火薬の弾丸ではなかった。

ユースティスの底知れぬ劣等感。

マリアベルの狂気じみた嫉妬と殺意。

そして、恐怖に支配された兵士たちの絶望の叫び。


国家規模の純度百パーセントの「悪意の嵐」が、一直線に――断崖の上で紅茶の湯気を楽しむ、絶対の女帝ヴァレリアの天幕目掛けて、凄まじい轟音と共に殺到していったのである。

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