第44話:赤鷲平原の対峙 〜泥濘の地獄に蠢く敗残兵と、雲上に微笑む絶対の女帝〜
国境赤鷲平原を東西に分かつのは、かつて数多の英雄たちの血を吸い尽くしてきた広大な赤土の荒野であった。
秋の冷たい突風が吹き抜けるたび、枯れ果てた芒の穂が擦れ合い、まるで無数の亡霊が啜り泣くかのような陰鬱な音を立てる。
だが、今この平原を覆い尽くしていたのは、戦士たちの勇壮な咆哮などでは断じてなかった。
西から漂うのは、先刻の【黒酸の雨】(第41話)によって焼き爛れた数万の将兵たちの肉が発する、鼻腔を麻痺させるような生々しい焦臭と腐敗臭。
泥濘の黒土には、融解した装甲の鉄屑と、皮膚を溶かされて白骨を晒した兵士たちの死骸が無数に散乱し、立ち上る白煙が朝陽の光をドス黒く濁らせていた。
その地獄絵図のただ中を、車輪を泥に取られながら、軋んだ音を立てて這うように進んでいたのは――ガルディニア帝国軍総司令部、皇太子ユースティスの直属本陣であった。
「押せッ! 車輪を泥から引き抜かんか、この役立たず共が!!」
近衛将校の嗄れた怒号が響く。
だが、黄金の天蓋馬車を押す近衛兵たちの手足は、寒さと恐怖で小刻みに震えていた。
かつて十万を数えた大軍勢の偉容は、いまやどこを探しても存在しなかった。
前衛六万は自軍の聖女が放った酸の雨によって壊滅。さらに後方の輜重部隊三万は、空から降り注いだ神殿の告発状と神罰の流言によって完全に戦意を喪失し、第二皇女セシリアの手引きによって一斉に武器を破棄して武装解除を宣言していた(第42話)。
いま、皇太子ユースティスの周囲に残されているのは、後退の機会を逸し、ただ処刑の恐怖に縛り付けられた直属近衛兵と、狂信的な取り巻き貴族――わずか数千の瀕死の敗残兵たちに過ぎなかった。
黄金の馬車の内部、乱雑に散乱したワインボトルと阿片軟膏の空き瓶のただ中で、ユースティスは血走った目を剥き出しにし、窓枠を爪が割れるほど強く握りしめていた。
その顔面の中央には、大階段の転落事故(第12話)で粉砕骨折した鼻を覆う、分厚い白い包帯が幾重にも巻き付けられている。
激痛を抑えるための薬物の乱用により、瞳孔は極限まで拡大し、土気色の皮膚には脂汗がテラテラと光っていた。
彼の隣には、大祭服の裾を自らの失禁で汚し、顔の半分を覆う包帯から黄色い膿を滴らせた新聖女マリアベルが、爪を噛みながらガタガタと震えていた。
「殿下……前方に、敵の陣地が見えてまいりました……!」
馬車の窓の外から、青ざめた近衛隊長が震える声で告げた。
「敵だと……!? カイザーライヒの軍勢か!?」
ユースティスは身を乗り出し、手にした最高級の古代遺物『遠隔望遠魔導鏡』を乱暴に構えた。
望遠鏡の水晶レンズが、平原の対岸――北東の断崖絶壁『鷲見の丘』の頂を捉える。
ユースティスの予想では、そこには血気盛んな敵の黒甲騎兵団が殺到の構えを取り、大型魔導砲が牙を剥いて待ち構えているはずであった。
もしそうであれば、まだ理解できた。大軍同士の軍事衝突という、予測の範疇にある現実であったからだ。
――しかし。
水晶レンズが映し出した光景を目撃した瞬間。
「…………は?」
ユースティスの喉から、間抜け極まりない掠れた吐息が零れ落ちた。
呼吸が止まった。
眼球の奥で、カチリと理性の歯車が外れるような強烈な違和感。
「な……何だ、あれは……? 何を見せられているのだ……!?」
断崖の頂上。
数万のカイザーライヒ軍が整然と直立不動の待機列を敷くその中央――断崖の突端に、忽然と姿を現していたのは、血腥い戦場とは天と地ほどに乖離した、息を呑むような『純白の異空間』であった。
敷き詰められた毛足の長い純白のペルシャ絨毯。
風に優雅に棚引く、最高級の白絹で編まれた天幕の屋根。
マホガニーの円卓の上には、銀の燭台と、白磁のティーカップ。
そして――。
その円卓の傍ら、深々と豪奢な肘掛け椅子に身を沈め、優雅に紅茶の湯気を細い指先で弄んでいる、一人の女性の姿。
「…………っ!!」
ユースティスの心臓が、早鐘のように狂乱の鼓動を打ち始めた。
魔導鏡の倍率を最大まで引き上げる。
水晶レンズの焦点が、その女性の貌へとピタリと合わさった瞬間――ユースティスの全身の毛穴から、凍りつくような冷や汗が噴き出した。
(ば……バカな……! 嘘だ……あり得ん……あり得んぞぉぉぉっ!!)
そこに座っていたのは。
誰あろう――ヴァレリア・フォン・アルトハイムであった。
だが、その姿は、ユースティスの記憶の底にこびりついていた「薄汚いドブネズミ」の面影など、微塵も残されていなかった。
十年間、大聖堂の地下牢で冷たい石畳の上に縛り付けられ、泥水を啜り、骨と皮ばかりに痩せ衰え、ボロボロの襤褸切れを纏っていた生贄の娘(第1話)。
自らの足で立つことすら叶わず、近衛騎士に膝裏を蹴り砕かれ、処刑谷の深淵へと無残に蹴り落としたはずの、使い捨ての道具(第2話)。
それなのに。
今、望遠鏡のレンズの向こうで微笑んでいるその女性は――。
身に纏うのは、夜の帳と星屑を織り上げたような、深い漆黒と黄金の豪奢なシルクドレス。
胸元と肩口は大胆に開かれ、触れれば熱を奪われそうなほどに滑らかな、完全無欠の白磁の肌が朝陽を浴びて神々しく輝いている。
かつて枯れ枝のようだった黒髪は、触れれば指が滑り落ちるほどの濡れたような艶を湛えて肩へと零れ落ち、毛先からは、不可視の神聖魔力の燐光が粉雪のように絶え間なく立ち上っていた。
そして、彫刻刀で削り出したかのように鋭利で、息を呑むほどに冷艶な美貌。
その中央に据えられた紫紺の双眸は、遠く離れた平原の泥濘の中に蠢く自分たちを――まるで、足元に這い回る不潔な羽虫を眺めるかのような、絶対の退屈と冷徹さを湛えて見下ろしていた。
美しい。
あまりにも美しく、あまりにも神々しく、一国の皇后や神殿の聖母すら足元に及ばない、世界の頂点に君臨する真なる女帝の偉容。
それだけではなかった。
ユースティスの脳髄を真に焼き焦がしたのは、そのヴァレリアを取り囲む「異常極まりない顔ぶれ」であった。
円卓を挟んだ向かいの席。
魔剣の鞘を肘掛けに立てかけ、自ら淹れられた紅茶を豪胆に呷りながら、ヴァレリアと対等に笑い合っているのは――大陸最強の軍事大国カイザーライヒの頂点に君臨する若き覇王、皇帝コンラート。
ヴァレリアの椅子のすぐ背後。
黒銀の長髪を風になびかせ、金色の瞳を爛々と光らせながら、主に風が当たらないよう、手にした黒炎の障壁で優しく空気を調教しているのは――神話の時代に人類連合を震撼させた、原初の魔王ヴォルフラム。
ヴァレリアの足元の絨毯の上。
甘える子犬のように膝に頭をすり寄せ、手にしたダガーで剥いた果物を、恍惚とした表情で主の口元へ差し出しているのは――裏社会を牛耳る暗殺ギルドの若き頭領、銀髪のキリアン。
そして、円卓の斜め後方で、小型オルガンの鍵盤に恍惚と指を走らせ、戦場に甘美な讃美歌を響かせているのは――かつて大聖堂でヴァレリアを監視していたはずの、元筆頭司教マティアス。
皇帝が傍らに侍り、魔王が風を遮り、暗殺者が足元に跪き、大司教が祈りを捧げる。
世界最高峰の武力、権力、人外の力、そして信仰のすべてを手綱で繋ぎ、その中心で、優雅にカップをソーサーに戻す一人の女性。
「ぎ……ぎぎぎっ……!?」
ユースティスの喉の奥から、壊れた歯車が軋むような異音が漏れ出た。
望遠鏡を持つ両手が、ガタガタと激しく痙攣する。
理解が追いつかない。
現実が、男の矮小な脳髄を許容量を超えて圧殺していく。
「あ……あいつは……何なのだ……!? 誰なのだ、あれはぁぁっ!!」
ユースティスは望遠鏡を取り落としそうになりながら、血走った眼球を剥き出しにして絶叫した。
「ヴァレリア……!? あれが、あの薄汚いドブネズミのヴァレリアだと抜かすのか!? あり得ん、あり得んぞ! あいつは地下牢で泥水を啜っていた生贄だ! 私が崖から蹴り落として殺したはずの、ただのゴミ屑だぁぁっ!!」
ユースティスの胸の奥底で、ドス黒い劣等感と恐怖が、マグマのように噴き上がった。
自分が十年間見下し、嘲笑い、足蹴にしてきた女。
それが今や、自らが喉から手が出るほど欲してやまない大陸最強の皇帝を手玉に取り、神話の魔王を飼い犬にし、自分など手の届かない天上の特等席から、冷たい笑みを投げ下ろしている。
包帯の下の砕けた鼻の激痛が、ドクドクと脈打つ。
あの階段から転落した屈辱(第12話)も、帝都が黒瘴気に呑まれた恐怖も、すべて――眼前のあの女の、優雅な指先一つによって引き起こされていたのだという現実。
「殿下、何を仰って……! 私にも見せなさいよ!!」
隣にいたマリアベルが、爛れた顔面を歪め、ユースティスの手から強引に望遠魔導鏡を奪い取った。
女は震える手でレンズに目を押し当て、丘の上の光景を覗き込んだ。
そして――。
「…………っっっ!!!!」
マリアベルの息が、喉の奥で完全に氷結した。
女の青い瞳が、信じがたい狂気の色に染まり、限界まで見開かれる。
水晶レンズ越しに飛び込んできた、ヴァレリアの至高の美貌。
傷一つない、陶器のように透き通る白磁の素肌。
神聖な燐光を放つ、濡れたような漆黒の長髪。
そして、世界のいかなる宝石よりも気高く輝く、紫紺の双眸。
鏡を見ずとも分かる。
今、自分自身の顔面がどうなっているのかを。
大聖堂の爆発でチリチリに縮れ焦げた金髪。大階段の転落による青あざ。そして自室で侍女を虐待した際の油の火傷によって赤黒くただれ、黄色い膿を垂れ流す醜悪な皮膚。失禁で汚れ、異臭を放つドレス。
天上の女神と、路地裏に転がる腐肉の如き、絶望的な格差。
「う……嘘よ……」
マリアベルの唇が、ガタガタと激しく震えた。
「嘘よ、嘘よ、嘘よぉぉぉぉぉっっっ!!!!」
鼓膜を劈く金切り声が、馬車の中に木霊した。
マリアベルは手にした望遠魔導鏡を床へと叩きつけ、自らの爛れた顔面を爪で掻きむしりながら狂乱した。
「あんなのヴァレリアじゃないわ! あんな女、私の足元にも及ばない生贄の分際で! 泥水を啜って穴の底で野垂れ死ぬはずのドブネズミのくせに! なんで……なんであんなに美しくなっているのよぉぉっ!!」
嫉妬。
屈辱。
そして、自らのアイデンティティの完全なる崩壊。
彼女の唯一の武器であった「愛らしい美貌」も、「光の聖女」としての偽りの権威も、眼前のヴァレリアの神々しい実存の前には、一瞬にして粉々に砕け散るメッキに過ぎなかったのだ。
「認めない……! 絶対に認めないわ!!」
マリアベルは床に落ちたユースティスのサーベルの柄を両手で掴み、血走った目で皇太子にすがりついた。
「殿下! 殺してください! あの女を殺してくださいまし!! あの顔をズタズタに切り裂いて、あの黒髪を全部引き抜いて、私の足元で泥を舐めさせてくださりませぇぇぇっ!!」
***
――同じ時刻。
赤鷲平原を見下ろす『鷲見の丘』の頂上、白絹の天幕の下。
ヴァレリアは、筆頭侍女長グレーテが注ぎ足したばかりの紅茶を一口、優雅に口に含んでいた。
ヴォルフラムの結界によって完全に遮断されたテラス席には、マスカットのように爽やかな茶葉の香りと、マティアスが爪弾くオルガンの清涼な調べだけが満ちている。
「……ふふ」
ヴァレリアはカップをソーサーに戻し、扇子を広げて口元を覆った。
彼女の紫紺の双眸は、平原の泥濘の奥底で、黄金の馬車の周囲を右往左往し、望遠鏡を投げ捨てて狂乱しているユースティスとマリアベルの姿を、寸分の狂いもなく捉えていた。
「随分と、熱心にご観賞くださっているようですわね」
ヴァレリアの涼やかな声に、向かいの席で果実酒を傾けていた皇帝コンラートが、面白そうに口角を吊り上げた。
「ふん、遠目からでも伝わってくるぞ。あの哀れな皇太子の絶望と劣等感がな。……十年間足蹴にしてきた女が、手の届かぬ雲の上から自分を見下ろしているのだ。奴のちっぽけな自尊心など、今頃粉微塵に消し飛んでいるだろうよ」
「主よ、目障りな羽虫どもの視線が鬱陶しゅうございます」
背後に立つヴォルフラムが、金色の瞳を眇めて低く唸る。
「あの黄金の箱ごと、我が黒炎で蒸発させて参りましょうか?」
「僕が首を獲ってきますよ」
足元の絨毯に座るキリアンが無邪気に微笑み、ダガーの切っ先をペロリと舐める。
「あの皇太子の耳と鼻、綺麗に削ぎ落として、ヴァレリア様の足元に並べてあげます」
「お待ちなさい、二人とも」
ヴァレリアは扇子を軽く揺らし、侍る怪物たちを優雅に制した。
「慌てる必要などありませんわ。……見なさいな、あの男の顔を」
ヴァレリアの視線の先。
黄金の馬車の扉が蹴破られ、中から狂乱したユースティスが転がり出てくる姿があった。
「追いつめられた愚者ほど、己の無力さを認めることができず、自ら破滅の引き金を引くものよ。……ねえ、ユースティス。貴方のその浅ましく醜悪なプライドは、一体どのような断末魔を奏でてくださるのかしら?」
***
平原の泥濘の上。
馬車から飛び出したユースティスは、泥水に足を取られながら、本陣の司令壇へと駆け上がった。
包帯の隙間から覗く男の顔面は、ドス黒い怒りと恐怖によって、完全に鬼の如く引き攣っていた。
劣等感。
恐怖。
そして、己のすべてを否定されたことに対する、底知れぬ狂気。
あんな女に。
あんな生贄のドブネズミに、この私が嘲笑われている。
皇帝を侍らせ、魔王を従え、紅茶を片手に、私を見下ろしている――。
「許さん……許さんぞ……! 万死に値する、万死に値するぞぉぉぉっ!!」
ユースティスは壇上に突き刺さっていたガルディニア帝国の軍旗を、力任せに引き抜いた。
そして、それを赤鷲平原の向こう――優雅に紅茶を飲むヴァレリアの天幕目掛けて、渾身の力で振り下ろしたのだ。
血管が破裂せんばかりに目を見開き、口から白い泡と唾を撒き散らしながら、男は残存する全軍へ向けて、狂乱の咆哮を轟かせた。
「――全軍、大型魔導砲を全門装填せよッ!!」
耳を劈く絶叫が、赤鷲平原を叩き割った。
「弓兵、投石器、攻撃魔法部隊、残るすべての火力をあの丘へ向けろ!! あの白い天幕を、あの生意気な女を、跡形もなく焼き払えぇぇぇぇぇっ!!」
自滅への最終宣告。
理性を完全に失った道化の手によって、十万の軍勢が残した最後の破滅の引き金が――今まさに、力任せに引き絞られようとしていた。




