第43話:特等席の設営 〜硝煙を払う白絹の天幕と、戦場に香る至高の紅茶〜
国境赤鷲平原を一望する北の断崖――『鷲見の丘』の頂は、天を衝く黒御影石の巨岩に囲まれた天然の要塞であった。
早朝の冷たい朝霧が風に吹かれて急速に吹き払われ、昇り始めた真紅の朝陽が、地平線の彼方まで広がる広大な枯草の平原を鮮血の色に染め上げていく。
その高台の上を埋め尽くしていたのは、大陸最強の軍事覇権国家カイザーライヒ帝国が誇る、五万の精鋭軍団であった。
数千人の兵士が密集していながら、聞こえてくるのは風に棚引く軍旗の羽ばたきと、軍馬の鼻息、そして金属が擦れ合う微かな冷たい音のみ。私語を交わす者など一人もおらず、全兵士が一分の狂いもなく直立不動の姿勢を保っている。
最前列を固めるのは、黒鉄の全身板金鎧に身を包み、身の丈を超える重装ランスを掲げた漆黒騎兵団『黒竜騎兵隊』一万。
その後方に控えるのは、古代の魔導結晶を砲身に組み込んだ大型火炎魔導砲二百門と、整然と並ぶ三万の精鋭重装歩兵。
泥濘に足を取られ、カビた干し肉と毒水に悶絶していたガルディニア軍の烏合の衆(第38話)とは、比較にすらならない。
完璧なる兵站、完璧なる規律、そして完璧なる武威。国家の軍事力の頂点が、研ぎ澄まされた刃となって平原を見下ろしていた。
その丘の中央、断崖の先端に据えられた移動式指揮所において、若き覇王コンラートは、古代遺物の遠隔観測鏡『千里の水晶球』を覗き込んでいた。
「……信じられんな」
コンラートの精悍な唇から、呆れ果てたような吐息が漏れた。
黒髪短髪を朝風になびかせ、歴戦の傷跡を頬に刻んだ彫刻のような美貌に、獰猛な嘲笑が浮かぶ。
「敵軍十万は、我が軍の姿を遠目に見る前に……自らの手で前衛を焼き滅ぼしただと?」
傍らに控える女軍師ヒルデガルトが、細身の金縁眼鏡を指先で押し上げ、黒革のバインダーをめくった。
「ええ、陛下。先刻、ガルディニア本陣『死竜の爪痕』において、偽聖女マリアベルが展開した儀式大魔術が完全に暴走……【黒酸の雨】となって自軍の前衛六万の頭上へ降り注ぎました(第41話)。前衛の七割が壊滅。さらに、皇太子ユースティスが生き残りの兵士へ無差別処刑を宣告したことで、全軍の指揮系統は完全に崩壊いたしました」
ヒルデガルトは指揮棒を掲げ、平原の対岸を指し示した。
「さらに、我が方の内通者――第二皇女セシリア殿下の手腕により、後方の輜重部隊および予備兵力三万が、一斉に武器を破棄して武装解除を宣言いたしました(第42話)。現在、敵軍で戦闘態勢を維持しているのは、皇太子ユースティスの直属近衛兵と狂信的な取り巻き、わずか数千名に過ぎません」
自爆。内紛。自発的な武装解除。
十万の大軍勢を誇っていたはずのガルディニア帝国軍は、開戦からわずか三日にして、戦わずして自らの肉を削ぎ落とし、瀕死の骨だけとなっていた。
「くくっ……笑わせてくれる」
コンラートは腰の魔剣の柄に手をかけ、獰猛な覇気を全開にして振り返った。
「敵本陣は完全に孤立した。今、黒竜騎兵一万を突撃させ、左右から魔導砲で挟撃すれば――一刻も経たずに敵本陣をすり潰し、あの道化の皇太子と偽聖女の首を獲ることができるぞ! 全軍、突撃の号令を――」
「――お待ちになって、コンラート陛下」
静寂を切り裂いて、澄み渡る氷のように冷涼な、だが甘美な鈴の音の如き声が響き渡った。
指揮所の背後――高台の中央に設営されていた、漆黒と黄金の二重天幕の天蓋が、音もなく左右へと開かれた。
歩み出てきたのは、ヴァレリア・フォン・アルトハイムであった。
「……っ」
居並ぶカイザーライヒの歴戦の将軍たちが、息を呑んで一斉に視線を奪われた。
身に纏うのは、夜の帳と星屑を織り上げたような、深い漆黒の豪奢なドレス。
最高司教ベネディクトの即死呪詛を呑み干し(第21話)、先刻マリアベルの放った十万人分の悪意を【因果反跳】の燃料として支配した(第41話)影響により、彼女の全身から立ち上る神気は、もはや神話の女神すら凌駕していた。
白磁の肌は内側から透き通るような神聖な燐光を放ち、風に靡く濡れたような黒髪は、朝陽を浴びて紫紺のオーラを揺らめかせている。
彫刻の如く研ぎ澄まされた冷艶な美貌。その中央に据えられた紫紺の双眸は、地上のあらゆる流血を侮蔑するかのように、どこまでも涼やかに澄み渡っていた。
ヴァレリアは、手にした繊細な白骨の扇子をパチンと優雅に広げると、抜刀しかけていた皇帝コンラートの前に進み出た。
「せっかくの美しい秋の平原を、血と泥で汚す必要などありませんわ。……剣を抜くことすら、下品です」
「……何?」
コンラートが片眉を跳ね上げた。
「敵は目の前で崩壊しているのだぞ、ヴァレリア。軍人として、この機を逃して全軍突撃をかけぬ理由がどこにある?」
「ふふ……短絡的ですわね、覇王様」
ヴァレリアは小さく喉を鳴らして笑い、扇子の先で平原の彼方を指し示した。
「騎兵を突撃させれば、逃げ惑う哀れな下級兵士の肉を踏み潰すことになります。我がカイザーライヒの美しい軍靴を、あのようなドブ泥の血で汚す価値などございませんわ。……彼らは勝手に、己の放った悪意の毒によって、足元から腐り果てて自滅するのです。私たちが手を下してやる筋合いなど、最初から一欠片もありませんのよ」
相手に反撃の機会すら与えず、ただ悪意を反射させて自縄自縛に陥らせる――絶対のピカレスクの哲学。
ヴァレリアは振り返り、自らの背後に控えていた筆頭侍女長へと、優雅に視線を向けた。
「――グレーテ」
「かしこまりました、我が主」
感情を削ぎ落とした陶器の仮面の如き美貌を持つグレーテが、濃紺の侍女服の裾を寸分乱さず、直立不動の姿勢から深々と一礼した。
次の瞬間、断崖の先端――血腥い戦場の最前線において、信じがたい『設営』が開始された。
グレーテが白手袋の手を軽く振ると、数十名の侍女たちが音もなく現れ、断崖の突端に敷かれていた泥や小石を、清涼な風の魔導具で瞬時に吹き飛ばした。
露出した平らな黒御影石の床の上に敷き詰められたのは、毛足の長い純白のペルシャ絨毯。
その中央に、漆黒の木肌を持つ最高級のマホガニー材で造られた円卓が据えられ、グレーテの手によって、雪のように純白な最高級の絹のテーブルクロスが、ふわりと滑らかに広げられた。
卓上には、カイザーライヒ皇室の宝物庫から持ち出された純銀の燭台が置かれ、微かな白檀の香油が灯される。
透き通るような薄い白磁のティーカップ。銀のティースプーン。
そして、直火の保温魔導具によって常に最適温度に保たれた、純銀製のティーポット。
立ち上るのは、ダージリンの最高峰『キャッスルトン茶園』の幻の茶葉が放つ、マスカットと蜂蜜を思わせる甘く気品ある芳香。
殺戮の予兆に満ちていた断崖の上が、一瞬にして、帝都の一流貴族のプライベートサロンへと塗り替えられていく。
「……な、何だこれは……」
カイザーライヒの歴戦の将軍たちが、顎が外れんばかりに目を見張った。
五万の軍勢が息を潜める戦場の最前列で、優雅な野外お茶会の設営。前代未聞。戦史の常識を根底から叩き割る光景。
だが――怪物たちの狂気は、それだけに留まらなかった。
「……フン。風が少々、主の御髪を乱すな」
低い呟きと共に、ヴァレリアの影の中から黒銀の長髪を揺らしながら進み出てきたのは、原初の魔王ヴォルフラムであった。
人外の怪物は、上等な漆黒の燕尾服の袖から、鋭利な爪を持つ右手を虚空へと翳した。
ゴオオオオオオッ……!
ヴォルフラムが指先をわずかに鳴らした瞬間、断崖の周囲を取り囲むように、不可視の半球状の障壁が展開された。
平原から吹き上がってくる泥臭い突風、戦場の硝煙の臭気、そして酸の雨の有毒な残滓――そのすべてが、結界の表面でチリチリと音を立てて弾き飛ばされる。
結界の内部には、深淵の底の清涼な霊的微風が満ち、ヴァレリアの肌に最も心地よい二十二度の室温が、完璧な精度で維持された。
「我が主。風の羽虫どもはすべて調教いたしました」
ヴォルフラムはヴァレリアの足元に膝をつき、金色の双眸を蕩けるような歓喜に濡らしながら、椅子をそっと引いた。
「我が神の美しいドレスが、塵一つ被ることなど断じて許しはいたしません」
「ありがとう、ヴォルフラム」
ヴァレリアは微笑み、引き出された豪奢な肘掛け椅子へと、優雅に腰を下ろした。
「ヴァレリア様、僕も! 僕も近くにいていいですよね!?」
サッと影から飛び出してきた銀髪碧眼の少年キリアンが、ヴァレリアの足元の純白絨毯の上に、子犬のようにペタリと座り込んだ。
少年は、手にしたダガーで果物の皮を器用に剥きながら、ヴァレリアの膝の端に自らの頭をすり寄せる。
「ガルディニアの皇太子が撃ってきたら、飛んできた弾丸、僕が全部空中で切り刻んであげますからね」
さらに、円卓の斜め後方では、白銀の祭服を着崩した元筆頭司教マティアスが、自ら持参した小型のオルガンの前に腰掛け、恍惚とした表情で鍵盤に指を這わせていた。
「おお……戦場を聖域に変える、生ける女神の御姿……。この至高の瞬間に捧げるための讃美歌を、私が即興で奏でて差し上げましょう……」
ポロロン……と。
清らかな聖歌の旋律が、硝煙の漂う平原の上空へと、優雅に響き渡り始める。
「…………」
皇帝コンラートは、抜刀しかけていた魔剣の切っ先を地面に突き刺したまま、開いた口が塞がらない様子で立ち尽くしていた。
歴戦の覇王として、大陸中のあらゆる修羅場を潜り抜けてきた男であったが、これほどまでに常軌を逸した光景は、生まれて初めて目にするものであった。
「……戦場で……敵の大軍を眼前にして、優雅にティータイムだと?」
コンラートは額を押さえ、乾いた笑いを漏らした。
「おい、ヴァレリア。俺は五万の大軍を率いて、お前の復讐を支援するためにここへ来たのだぞ? それを……ただの茶会の観客にしろと言うのか?」
ヴァレリアは、グレーテが銀のポットから注ぎ入れたばかりの琥珀色の紅茶を受け取り、上品にカップを傾けた。
微かな蒸気が、彼女の白磁の頬を撫でる。
彼女はカップをソーサーに戻すと、紫紺の双眸を細め、呆然と立ち尽くす皇帝を、極上の冷酷さを湛えて見上げた。
「ええ。約束でしたもの、コンラート陛下」
ヴァレリアの唇が、妖艶な弧を描く。
「第11話でお話ししましたはずよ。『彼らは勝手に内側から腐り落ち、自らひれ伏して領土を差し出してきます』……とね。自業自得で首を絞め合う道化たちの断末魔を、最前列の特等席から、美酒と紅茶を片手に笑覧する……それこそが、この盤面の真のルールですわ」
ヴァレリアは、空いている向かいの席を、扇子の先で軽く示した。
「立ち話はおよしになって、陛下。お茶が冷めてしまいますわよ」
「…………」
コンラートは数秒の間、ヴァレリアの底知れぬ美貌と狂気をじっと見つめていた。
そして――。
「……ふっ、ははっ! あーっはっはっは!!」
覇王の豪胆な哄笑が、断崖の空を叩き割った。
男は魔剣を鞘へと乱暴に収めると、大股で歩み寄り、ヴァレリアの真正面の席へと、ドカリと腰を下ろしたのだ。
「気に入った! まったく、とんでもない悪女を味方に引き入れたものだ!」
コンラートは差し出されたカップを無造作に掴み、熱い紅茶を一息に呷った。
「よかろう! 全軍に抜刀を禁じ、その場に待機を命じる! カイザーライヒ帝国軍五万は、今日この時より――ただ一人の女帝のための、贅沢すぎる『観客』となる!!」
「賢明なご判断ですわ、陛下」
ヴァレリアの冷涼な笑みが深まる。
断崖の頂上、最高級の白絹の天幕の下。
甘い紅茶の香りと、マティアスが奏でる背徳の聖歌が漂う特等席に、世界の覇王コンラート、深淵の魔王ヴォルフラム、裏社会の頂点キリアン、そして背教の元司教マティアスが腰掛け、侍る怪物たちと共に、眼下の地獄絵図を見下ろしていた。
そして――。
その優雅なるテラス席の視線の先。
数里離れた赤鷲平原の泥濘の向こうから、怨嗟と狂乱に狂ったガルディニア軍の残党――包帯まみれの皇太子ユースティスと、爛れ顔の偽聖女マリアベルの率いる本陣が、最後の破滅の舞台へと向けて、這うようにして姿を現そうとしていた。




