第42話:神罰の流言と反逆の狼煙 〜泥濘に散る告発状と、白百合が編みし反逆の罠〜
漆黒の暗雲から降り注いだ【黒酸の雨】(第41話)は、約半刻にわたって前線基地『死竜の爪痕』を情け容赦なく焼き苛んだ後、大気中の魔力を使い果たしたかのように、ようやくポツポツとした黒ずんだ小雨へと衰えを見せていた。
だが、雨足が弱まった後に残された光景は、地獄の業火が通り過ぎた後の焦土そのものであった。
立ち上るのは、高熱で溶け崩れた鋼鉄の甲冑が発する鼻を突く白煙と、皮膚や筋肉が強酸によって炭化・融解した生々しい死臭。
数千、数万の前衛部隊の兵士たちが、自らの溶けゆく顔面や手足を泥水の中に擦り付け、声にならない絶叫を上げながらのたうち回っていた。
溶けた鉄と人間の肉がヘドロのように混ざり合い、岩山の窪みには赤黒い血と酸の溜まり水が無数に広がっている。六万の前衛・中衛のうち、無傷で立っていられる者など二割にも満たず、生き残った者たちの多くも片目を焼かれ、指を溶かされ、武器を失い、ただ茫然自失となって泥の海へへたり込んでいた。
その阿鼻叫喚の惨状を見下ろす白木の儀式高台。
天蓋の屋根に守られ、一滴の酸雨も浴びずに済んだ壇上で、床にへたり込んでいた第一皇太子ユースティスは、ガタガタと激しく震えながら立ち上がった。
鼻を覆う分厚い包帯の隙間から覗く血走った両目は、恐怖と屈辱によって完全に濁りきっていた。
「……な、何なのだ、この様は……! 我が十万の精鋭軍が、なぜこのような無様な姿を晒しているのだ!!」
ユースティスは取り落としていたサーベルを狂ったように拾い上げると、足元で純白の大祭服を失禁で濡らし、銀の聖杖を放り出して震える新聖女マリアベルを、憎悪に満ちた目で睨みつけた。
「マリアベル! 貴様の奇跡はどうしたのだ!? 無敵の狂戦士軍団に変えると言ったではないか! この酸の雨は一体何なのだぁぁっ!!」
「わ、私じゃありませんわ……! 私のせいじゃありませんことよ、殿下ぁっ!!」
マリアベルは爛れた顔面から黄色い膿と涙を撒き散らし、床を這いずりながらユースティスの足元にすがりつこうとした。
「私の放った光は、完璧な神聖魔術でしたわ! あの下賤な兵士どもが……あいつらの心が汚らわしく、信仰心が足りなかったせいですのよ! あいつらが私の清らかな祈りを穢したから、光が反転して雨になったのですわ! あいつらの不敬罪です! 前衛の兵士どもが、私の奇跡を邪魔したのですわぁぁっ!!」
自己保身。醜悪極まる責任転嫁。
大聖堂から盗み出した禁忌魔導書を私利私欲と憎悪の燃料で暴走させた張本人が、自らの放った毒の責任を、被害者である兵士たちへと丸ごと擦り付けたのだ。
だが――常軌を逸したユースティスの脳髄は、そのあまりにも下劣な言い訳に、救いを見出すように飛びついた。
「……そうか。そうだな! マリアベルの祈りが間違っているはずがない!」
ユースティスは包帯の下で醜悪に顔を歪め、壇上の手すりから眼下の兵士たちを指差して絶叫した。
「聞け、前衛の愚民どもめが! 貴様らの浅ましき邪念が、聖女マリアベル様の神聖なる祈りを汚し、この天変地異を引き起こしたのだ! 全軍に通達せよ! 前衛部隊の指揮官および生き残りの兵士どもを、全員『神聖儀式冒涜罪』並びに『不敬罪』に処す! 近衛兵団、生き残った前衛の首を刎ねろ! 反逆者を一人残らず処刑して、神の怒りを鎮めるのだぁぁぁっ!!」
狂気の極致。
自らの手で酸の雨を浴びせ、肉を溶かした味方兵士に対し、あまつさえ「祈りを邪魔した罪」として無差別処刑を宣告したのだ。
「「「…………っ!!」」」
泥濘の平原に、戦慄が走った。
生き残った兵士たち、そして高台の周囲を警護していた近衛兵たちですら、信じがたいものを見る目で皇太子を見上げた。
毒水を飲まされ、カビた肉を食わされ、仲間が溶けて死んでいく中で、なおも自分たちを処刑の生贄に捧げようとする支配者。
忠誠? 愛国心?
そんなものは、この瞬間、ガルディニア帝国軍のすべての将兵の胸の中から、一欠片の残滓すら残さず完全に消滅した。
残されたのはただ一つ――この狂った道化と偽聖女を、八つ裂きにして泥の中に叩き落とさねば、自分たちが皆殺しにされるという、冷徹極まる生存本能と殺意であった。
***
――そして。
前線基地が怒りと絶望の沸点に達したまさにその瞬間、後方陣地において、ある「見えない罠」が一気に発動した。
酸雨の被害が及ばなかった後方輜重隊および予備兵力の宿営地。
そこには、三万を超える比較的無傷の兵士たちと、輜重部隊、そして中堅将校たちが集結していた。
前線から届く爆発音と凄惨な悲鳴、そして立ち上る白煙と異臭に、後方の兵士たちは青ざめ、動揺を隠せないでいた。
その混乱のただ中を、突如として吹き抜けた冷たい突風。
バサバサバサッ――!!
「うわっ!? な、何だ!?」
見張りの歩兵が空を見上げた。
岩山の稜線から、無数の白い紙片が、まるで吹雪のように舞い散ってきたのだ。
一枚や二枚ではない。何万枚、十万枚に及ぶ紙の嵐が、後方陣地の天幕という天幕、荷馬車の上、そして泥の地面へと雪崩を打って降り注ぐ。
暗躍していたのは、銀髪の少年キリアンが率いる暗殺ギルド『影の旅団』の精鋭たちであった。
彼らはヴァレリアの指示に基づき、ガルディニア大聖堂の金庫から奪い取った『神殿最高機密の裏帳簿』(第14話)、偽聖女マリアベルによる毒殺自作自演の契約書(第17話)、そして最高司教ベネディクトが自白したヴァレリアへの冤罪工作の全記録を、一夜にして何万枚も複写し、後方陣地の頭上から一斉に散布したのだ。
「こ、これは……大聖堂の正式な告発文だ!」
「マティアス筆頭司教様の血判が押してあるぞ……!?」
「読め! 何が書いてあるんだ!?」
兵士たちが泥まみれの手で紙片を拾い上げ、貪るように文字を追った。
そこに記されていたのは、帝都を揺るがし、大聖堂を灰にしたあの動かぬ真実の数々であった。
『新聖女マリアベルの奇跡は、調剤部と結託して井戸に毒草【紫斑茸】を混ぜた完全なる詐術である』
『近衛騎士長ボリスの粉砕された両膝を癒やすことすら叶わず、激痛で発狂させた公式医療記録』
『そして――十年間、帝国全土の呪詛と黒瘴気を一身に引き受け、国を支え続けていた本物の聖女は、アルトハイム公爵の長女ヴァレリア様であったという事実』
「な……なんだって……!?」
「マリアベルは……最初から聖女なんかじゃなかったのか!?」
「俺たちの妹や親父が帝都で苦しんでいたのは、神殿があいつを聖女に見せかけるために毒を撒いていたからだったのか!!」
怒濤の波紋が、後方陣地全体を揺るがした。
だが、決定的な一撃は、その文書の末尾に、大書されていた予言のような告発であった。
『――神聖なる契約を破り、十年間国を支え続けた真なる聖女ヴァレリア様を「魔女」と偽って深淵へ突き落としたガルディニア皇室と偽聖女に、神の加護など一片も存在しない。
偽聖女が放つ光は、神聖な奇跡ではなく、神の怒りを招く穢れの火種である。
彼女が祈りを捧げる時、天からは祝福ではなく、自らの悪意が反転した【神罰の酸雨】が降り注ぎ、軍勢を頭上から溶かし尽くすであろう――!』
「…………っ!!」
静寂。
そして、文字を読み上げた古参の輜重兵の喉から、ヒュッと息が引き攣る音が漏れた。
神罰の酸雨。
まさに今、目と鼻の先の前線基地で起きたあの悪夢そのもの。
前衛の六万の将兵が、肉を溶かされ、白煙を上げて叫び狂っているあの現実の地獄。
「本当だったんだ……!」
誰かが、震える声で叫んだ。
「予言の通りだ! あいつの光は奇跡なんかじゃない、神罰を引き寄せる悪魔の呪いだ!」
「ヴァレリア様を深淵に落とした天罰が下ったんだ!」
「大聖堂が爆発したのも、帝都に黒瘴気が漏れ出たのも、東部防壁が破られたのも、公爵領の麦が全滅したのも……全部、全部本物の聖女様を殺そうとした天罰じゃないか!!」
恐怖は確信へ。
そして、確信は凄まじい反逆のエネルギーへと変貌を遂げていった。
さらにその時、後方の天幕の間を、風のように駆け巡る噂があった。
キリアンの配下が、兵士たちの耳元へ巧妙に吹き込んだ周到なる流言。
『聞いたか? カイザーライヒに亡命されたヴァレリア様は、あちらで神話の神気を覚醒させ、隣国の皇帝と魔王を従えていらっしゃるそうだ』
『ヴァレリア様は、仇敵である皇太子と偽聖女だけを滅ぼそうとしておられる。武器を捨てて平伏する兵士には、一滴の危害も加えないとお約束されているそうだ』
『このまま進軍すれば、次は俺たち全員が天罰の業火に焼かれて消滅するぞ!』
「もう戦えるか!」「皇太子と偽聖女のために死んでたまるか!」「武器を捨てろ!!」
後方陣地の三万の将兵の間で、一斉に武器を地面へ投げ捨てる金属音が鳴り響き始めた。
戦意の完全なる瓦解。
敵の姿を見る前に、ガルディニア帝国軍は、神罰への恐怖と自軍首脳への殺意によって、完全に内側から自壊していたのだ。
***
その混乱を極める後方陣地の一角――厳重に幕で仕切られた、第二皇女セシリアの私設天幕。
外の喧騒を遮断したその薄暗い天幕の内部で、セシリアは豪奢な肘掛け椅子に静かに腰掛けていた。
身に纏うのは、汚れ一つない純白のドレス。
胸元には、衣服の下に隠された【神気の護符】(第33話)が、ヴァレリアとの接続を保ちながら、微かに紫紺の燐光を明滅させている。
彼女の背後の影には、キリアン配下の二名の特級暗殺者が、音もなく息を潜めて控えていた。
バッ――!!
天幕の入り口の垂れ幕が荒々しく跳ね上げられた。
飛び込んできたのは、甲冑に泥と煤をこびりつかせた、五名の軍人たちであった。
後方輜重部隊の連隊長、第二魔導大隊長、工兵小隊長、そして前線から辛うじて逃げ延びてきた中堅の騎兵大隊長たち。
帝国の屋台骨を実質的に支えている、現場の最高責任者たちであった。
「セシリア皇女殿下ッ!!」
先頭に立つ連隊長が、天幕の敷物の上に両膝を激しく打ち付けた。
彼の背後の将校たちも、雪崩を打つようにして床に平伏する。
将校たちの手には、先ほど空から降り注いだ神殿の告発文の紙片が、血の滲む指先で握りしめられていた。
「無礼を承知で押し通りました! 殿下、どうか……どうか我が軍をお救いください!!」
「……何事ですか、将校の皆様」
セシリアは静かに視線を向けた。
その菫色の双眸には、驚きも動揺も浮かんでいない。すべてが自らの描いた脚本通りに進んでいることへの、冷徹な絶対の確信。
だが、彼女の口から紡ぎ出されたのは、慈愛に満ちた、悲痛な憂いを湛えた皇女の声であった。
「前線で起きたあの酸の雨……そして、兄上のご乱心。私も胸が張り裂ける思いで見守っておりました。皆様、お怪我はございませんか?」
その優しく気遣う言葉に、歴戦の連隊長の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「殿下……! 前線は壊滅いたしました! ユースティス殿下と偽聖女マリアベルは、自らが招いた酸の雨の責任を前衛部隊に擦り付け、生き残った兵士たちを反逆者として皆殺しにしようとしております!」
連隊長は床に額を擦り付け、歯を食いしばりながら絶叫した。
「狂っております! あの二人には、人の心など微塵も残されておりません! 空から降ってきた告発文を読みました……神殿の欺瞞も、マリアベルの偽りも、そして本物の聖女であられたヴァレリア様への大罪も、すべて真実であったと悟りました! 我が軍を襲っているこの疫病も酸雨も、すべてあの二人が招いた神罰でございます!!」
将校たちが一斉に顔を上げ、セシリアに向けて縋るような目を向けた。
「皇女殿下! 我らはもう、あの狂った皇太子と偽聖女には従えません!!」
「これ以上、あいつらの虚栄心のために兵士たちを泥水の中で野垂れ死にさせるわけにはいかないのです!」
「殿下、どうか貴女様が全軍の指揮を執ってください! 我らは貴女様に命を捧げます!!」
中堅将校たちの、魂を絞り出すような忠誠の懇願。
軍の主力が、正式に最高司令官である皇太子ユースティスを反逆者と見做し、妹であるセシリアへと寝返った瞬間であった。
天幕の影で、キリアンの暗殺者が冷酷な笑みを浮かべる。
計画は、完璧であった。
セシリアが軍内部の反乱分子を完全に掌握し、十万の軍勢を「戦わずして瓦解するハリボテ」へと仕立て上げるという、ヴァレリアから下された指令(第32話)の完全なる達成。
セシリアはゆっくりと立ち上がった。
純白のドレスの裾を引いて将校たちの前まで歩み寄ると、膝をつく連隊長の肩へ、自らの華奢な手をそっと置いた。
その相貌に浮かべたのは――神の如き慈悲深さと、聖母のような哀切の微笑み。
だが、その胸の奥底で、セシリアは冷徹極まる毒蛇の笑みを浮かべていた。
「……よくぞ、決断してくださいました。勇敢なる帝国の将校たちよ」
セシリアの澄んだ声が、天幕内に染み渡る。
「兄上とマリアベルの犯した大罪は、もはや天地の法によっても赦されるものではありません。神の怒りは頂点に達し、天罰の天秤はすでに傾ききっております。……これ以上、あの者たちに従えば、貴方方の命だけでなく、故郷で待つご家族の魂までもが業火に焼かれることでしょう」
「では……我らはどうすれば……!? 今すぐ兵を挙げ、本陣の皇太子とマリアベルを討ち取りますか!?」
騎兵大隊長が腰の剣に手をかける。
「いいえ」
セシリアは首を横に振った。
優雅に、だが絶対の命令権をもって将校たちを制止する。
「貴方方が、自らの手を血で汚す必要はありません。あの者たちには、間もなく――神そのものの手による、最も正当にして残酷な断罪が下されます」
セシリアは将校たちの目を一人ずつ見つめ、静かに宣告した。
「全軍に通達しなさい。――命が惜しいなら、武器を捨てて待ちなさい。弓の弦を緩め、魔導砲の火を落とし、ただ陣地に留まって膝をつきなさい。真の裁きが下る、その時まで」
「ぶ、武器を捨てて……待つ……?」
将校たちが息を呑む。
「ええ。真なる神の御使い――ヴァレリア様が、この地に絶対の正義を執行されるその瞬間を、ただ特等席で見届けるのです。刃を引いた者に、神罰が下ることは決してありません」
「……ははっ!!」
将校たちは一斉に、神託を受けた信徒の如く床に額を擦り付けた。
「仰せのままに、セシリア皇女殿下! 直ちに全軍へ武器の破棄を徹底させます!!」
将校たちは歓喜と安堵に涙を流しながら、天幕を飛び出していった。
命令は瞬く間に陣地全体へ伝達され、ガルディニア軍三万の後方部隊は、完全に「自発的な武装解除」を果たしたのである。
「…………」
静まり返った天幕の中で、セシリアは一人、胸元の【神気の護符】に触れた。
宝珠から伝わる、主ヴァレリアの至高の満足感。
「ふふ……これで、盤面の掃除は完了いたしましたわ。ヴァレリア様」
セシリアは天幕の窓の垂れ幕を、指先でわずかに押し上げた。
雨は完全に上がり、夜明けの冷たい朝霧が、風に流されて急速に晴れ渡っていく。
その視線の先――国境赤鷲平原の広大な稜線の向こう側。
突如として、朝陽の逆光を浴びながら、地平線を埋め尽くすように現れたものがあった。
――ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……!!
一分の乱れもない、地響きの如き軍靴の行進音。
朝霧を切り裂いて姿を現したのは、深紅の朝焼けを背にして整然と並ぶ、漆黒の重装甲冑に身を包んだカイザーライヒ帝国軍五万の精鋭軍団。
そして、その中央に天を衝くように林立する、漆黒の布地に黄金の双頭竜を刺繍した――皇帝コンラートの直轄軍旗。
ガルディニアの十万の軍勢が自滅と反乱によって崩壊した平原の前に。
満を持して、絶対の覇王の軍勢が、静かにその威容を現した瞬間であった。




