第41話:酸雨の洗礼 〜天を裂く偽りの祝詞と、肉を溶かす漆黒の豪雨〜
東の空が白み始める前の払暁――国境赤鷲平原を眼下に見下ろす『死竜の爪痕』の岩山前線基地は、底冷えのする濃密な朝霧と、重苦しい死臭の帳に覆い尽くされていた。
吹き抜ける風は骨の髄まで凍てつかせ、泥濘の黒土には昨夜降った冷たい氷雨の水たまりが無数に口を開けている。
その荒涼たる平野へ、無理やり集結させられたのは――ガルディニア帝国軍の前衛および中衛、実に六万を超える将兵たちであった。
だが、そこに整列していたのは、大国の精鋭部隊などでは断じてなかった。
兵士たちの顔色は土気色を通り越して青白く、頬は痩せこけ、目の周囲にはドス黒い隈が張り付いている。
街道沿いの水源に仕込まれた毒草【紫斑茸】と劇症性下痢毒(第38話)の影響により、全身から水分を奪われた兵士たちの四肢は小刻みに痙攣し、立っていることすら耐えかねて長槍にすがりつく者が続出していた。
カビの生えた干し肉を胃に詰め、自らの汚物を垂れ流しながら、それでも「遅れる者は反逆罪として首を刎ねる」という皇太子の凶行に怯え、無理やり引きずり出されてきた哀れな生ける屍の群れ。
その六万の死せる軍勢の正面――岩山を削り、泥の上に突貫工事で築き上げられた、高さ十メートルの巨大な白木の高台。
高台の周囲には、純白の絹布と金糸の垂れ幕が張り巡らされ、泥まみれの戦場において異様なまでの浮世離れした豪奢さを誇示していた。
その壇上に、まず姿を現したのは第一皇太子ユースティスであった。
白銀の礼装軍服に身を包み、腰には抜刀したままの儀礼用サーベル。
顔面の中央には、大階段の転落事故(第12話)でへし折れた鼻を覆う、分厚い白い包帯が幾重にも巻き付けられている。激痛を麻痺させるために阿片軟膏を過剰摂取した男の瞳孔は異様に開き、血走った眼球が、眼下に並ぶ青ざめた兵士たちを狂乱の光で見下ろしていた。
「我が帝国の勇敢なる将兵たちよ、聞けぇぇぇっ!!」
ユースティスの嗄れた絶叫が、朝霧の岩山に響き渡った。
「貴様らが苛まれているその軟弱な腹痛など、隣国カイザーライヒの魔女が放った卑劣なる呪詛の残滓に過ぎん! だが、案ずることはない! 我が帝国には、神に愛されし真なる光の聖女がおられるのだ! 今より執り行われる聖なる大儀式によって、貴様らの病は一瞬にして浄化され、神話の狂戦士へと生まれ変わるのだ!!」
ユースティスはサーベルを天へと掲げ、狂気の笑みを浮かべて叫んだ。
「奇跡を讃えよ! 光の聖女マリアベル様の御前であるぞぉぉぉっ!!」
ユースティスの合図と共に、高台の奥から、ファンファーレの如き不協和音のラッパの音が鳴り響いた。
壇上の中央へと歩み出てきたのは――新聖女マリアベル・ローランであった。
身に纏うのは、大聖堂の宝物庫から持ち出させた、純白の儀式用大祭服。
しかし、その裾には泥の染みがこびりつき、肩口からは、大聖堂爆発事故(第8話)で半分がチリチリに焼け焦げた金髪が、藁屑のように乱雑に散らばっている。
そして――何よりも兵士たちを息呑ませたのは、その顔面であった。
顔の右半分を覆う包帯の隙間から覗く素肌は、大階段の転落による青黒い鬱血と、自室で侍女を虐待した際の油の火傷(第18話)によって赤黒くただれ果て、黄色い浸出液が固まって皮膚を引き攣らせていた。
その化け物じみた醜悪な相貌のまま、マリアベルは両手で巨大な『純銀の聖杖』を握りしめていた。
その杖の切っ先に嵌め込まれていたのは、神殿秘匿の禁忌魔導書から引き裂いた呪符を巻き付けた、赤黒い魔導結晶。
失われし古代儀式大魔術――【聖戦の祝福】(第39話)を発動するための、禁断の媒体であった。
「……ふふ、ふふふっ!」
マリアベルの唇が、下卑た悦楽に歪んだ。
眼下を埋め尽くす六万の兵士たちの、怯えと期待の入り混じった眼差し。
それらの視線が、再び自分へと注がれているという事実だけで、この女の底知れぬ虚栄心は甘美に満たされていた。
(見なさい……! この私を! 神に選ばれし唯一の聖女マリアベル様を!!)
マリアベルの胸中で渦巻いていたのは、神への感謝でも、苦しむ兵士たちへの慈愛でも断じてなかった。
自らの爛れた顔面への屈辱。
兵士たちを「使い捨ての駒」としか見做さない冷酷なエゴ。
そして何より――地獄の底から這い上がり、今や隣国で絶世の美貌と権力を手にしたヴァレリアに対する、狂気じみた嫉妬と殺意。
(この大魔法で十万の兵を動かし、カイザーライヒを踏み潰してやる……! そして、あのドブネズミのヴァレリアを引きずり出して、この手で両目を抉り、舌を引き抜いて、私の足元に転がしてやるのよ!!)
どす黒い悪意。
他者の命を己の踏み台にすることしか考えぬ、完全なる強欲と殺戮の意志。
本来であれば、純粋無垢な祈りによってのみ成立するはずの神聖大魔術の炉へ、マリアベルは自らの魂に溜まった最悪のヘドロを、燃料として一気に注ぎ込んだのだ。
「光よ……! 我が愛しき軍勢に無限の力を与え、憎き魔女を滅ぼし給えぇぇぇっ!!」
マリアベルが絶叫し、銀の聖杖を天へと突き上げた。
キィィィィィィンッ――!!
聖杖の切っ先から、眩いばかりの閃光が噴き上がった。
黄金色の魔力光が夜明けの空を切り裂き、巨大な光の柱となって雲を貫く。
高台を取り囲んでいた兵士たちの間から、「おお……っ!」「光だ……!」「聖女様の奇跡だ!」と、歓喜のどよめきが上がった。
光の柱は上空数百メートルの天蓋で傘のように広がり、六万の軍勢の頭上を包み込む、黄金の天幕へと展開されようとしていた。
奇跡の成就。
誰もがそう信じ、マリアベル自身が勝ち誇った哄笑を上げようとした――まさにその刹那であった。
***
――カチリ。
世界の因果の天秤が、重厚な音を立てて傾いた。
ガルディニア軍の兵士たちには聞こえない。
だが、マリアベルの魂の奥底――体内の全魔導管が集中する『魔力核』の中心に打ち込まれていた、あの見えない杭(第40話)が、唐突に、冷酷なる神の雷撃を放ったのだ。
――原初固有能力【因果の天秤】。
――第二原則【因果の絶対反跳】、遠隔干渉コード起動。
――検知害意:十万の将兵を使い捨てにする私利私欲、並びにヴァレリアに対する絶対の殺意と怨嗟。
――術式反転:承認。
遥か数百里の彼方――黒曜宮のバルコニーから、ヴァレリアが指先一つで弾いた因果の波紋が、マリアベルの放った光の奔流へと、一滴の狂いもなく直撃した。
「……え?」
マリアベルの喉から、間の抜けた声が漏れた。
聖杖を握る両手が、突如として氷点下に凍りついたかのように硬直したのだ。
ズズズズズズズズッ……!!
天空で、異変が起きた。
黄金色に輝いていたはずの光の天幕が――突如として、不気味な紫色の稲妻をバチバチと撒き散らし始めたのだ。
黄金は濁り、煤けた灰色へと変色し、やがて、見るもおぞましい『ドス黒い紫の暗雲』へと、一瞬にして反転・凝縮されていく。
マリアベルが心に秘めていた「兵士を犠牲にしてでも勝ちたい」というエゴ。
そしてヴァレリアへの「内臓を腐らせて殺したい」というどす黒い殺意。
その術者の心の底にあった悪意の質量が、因果の法則によってそのまま物質化し、神聖な光を、絶対の毒雲へと作り変えてしまったのだ。
「な……何だあれは!?」
「雲が……空が黒くなっていくぞ!?」
見上げていた兵士たちの顔から、歓喜が一瞬にして消え失せ、恐怖の色が広がった。
頭上を覆い尽くしたのは、太陽の光を完全に遮断する、粘り気のある巨大な毒の天蓋。
大気中の湿度が異常なまでに跳ね上がり、鼻腔を突く強烈な酸の刺激臭が、岩山全体へと立ち込める。
そして――。
ポツリ。
前衛の兵士の鉄兜の上に、一滴の黒い雫が落ちた。
ジュッ……!
「……あ?」
兵士が首を傾げた、コンマ一秒後のことだった。
――ドバババババババババッッ!!!!
天が割れたかのような轟音と共に、暗雲の底から、猛烈な勢いで液体が降り注ぎ始めた。
それは、恵みの雨などでは断じてなかった。
神聖魔術が反転し、十万人分の殺意とエゴが濃縮された、鉄をも瞬時に融解せしめる――漆黒の強酸の豪雨。
――【黒酸の雨】。
ジュウウウウウウウウウウッッ!!!!
「ぎゃあああああああああああああああああっっっ!?!?!?」
一瞬にして、前線平野は阿鼻叫喚の地獄絵図へと叩き落とされた。
前衛および中衛の数千、数万の将兵たちの頭上に、容赦なく黒い酸の雨が叩きつけられたのだ。
凄惨を極める破壊。
鋼鉄で鍛え上げられていたはずの重装甲冑が、黒い雨粒を浴びた瞬間、パチパチと不気味な泡を噴き上げてドロドロに溶け崩れていく。
鉄が溶け、鎖帷子が千切れ、融解した高熱の金属が、兵士たちの皮膚へとジュクジュクと焼きついた。
「熱い! 熱い熱い熱いっ!! 鎧が……鎧が皮膚に張り付くぅぅぅっ!!」
「目が! 目が溶ける! 前が見えねええええっ!!」
顔面に酸雨を浴びた兵士たちの皮膚は、まるで熱湯を浴びせられた紙のように瞬時に爛れ落ちた。
眼球は白く濁って破裂し、鼻や耳の軟骨が溶けて崩れ、肉が削ぎ落とされて白い頭蓋骨が剥き出しになる。
兵士たちが手にしていた長槍の木柄は黒焦げになって折れ、鉄の剣身はボロボロの赤錆となって砕け散る。
逃げ場など、どこにも存在しなかった。
空を埋め尽くす巨大な暗雲から降り注ぐ酸の雨は、密集陣形を組んでいた六万の軍勢の頭上へ、寸分の隙間もなく降り注ぎ続ける。
一人、十人、百人、千人――。
阿鼻叫喚の絶叫を上げながら、兵士たちが泥水の中に転がり、自らの溶けゆく顔面を掻きむしりながら息絶えていく。
大地には、溶けた鉄と人間の肉が混ざり合った、どす黒い汚泥の池が幾重にも広がり、立ち上る白煙と異臭が、岩山全体を窒息させんばかりに覆い尽くしていった。
***
「ひ……ひぃぃぃっ……!?」
高台の上。
天蓋の屋根に守られた壇上で、皇太子ユースティスは、腰を抜かして大理石の床へとへたり込んでいた。
手にした儀礼用サーベルを取り落とし、ガタガタと歯の根を鳴らしながら、眼下に広がる地獄絵図を見つめている。
眼下で転がり、肉を溶かされ、白骨を晒して死んでいく自軍の兵士たち。
無敵の狂戦士軍団になるはずだった十万の大軍が、味方の聖女が放った光によって、一歩も進軍せぬまま自滅していく悪夢。
「な……何なのだ、これは……! マリアベル! 貴様、一体何を召喚したのだぁぁっ!!」
ユースティスの血走った目が、隣に立ち尽くす女へと向けられた。
「あ……あぁ……っ」
マリアベルは、両手から銀の聖杖を取り落とした。
カラン、と乾いた音を立てて床を転がる杖。
女の瞳孔は完全に開き、血の気の引いた土気色の顔面を、絶望と恐怖が支配していた。
なぜ。
どうして。
自分は神殿の禁術書通りに光を放ったはずだ。
兵士たちを狂戦士に変え、ヴァレリアを殺すための光を放ったはずなのに――なぜ、自軍の上に酸の雨が降り注いでいるのか。
「う、嘘よ……嘘よ嘘よ嘘よぉぉぉっ!!」
マリアベルは自らの頭を抱え込み、ヒステリックに絶叫した。
「私の光よ!? 神に選ばれし聖女の奇跡なのよ!? なんでこんな……なんで雨なんかに化けるのよぉぉっ!!」
だが、その叫び声は――眼下から湧き上がってきた、凄まじい地鳴りのような怒号にかき消された。
『……聖女が……!』
酸の雨がわずかに小降りになった、泥濘の平原。
顔を火傷で爛れさせ、片目を失い、鎧を溶かされた数千の生き残りの兵士たちが――ゆっくりと、血塗れの顔を持ち上げたのだ。
その瞳に宿っていたのは、神への祈りでも、皇室への畏怖でもなかった。
騙され、毒水を飲まされ、カビた肉を食わされ、そして最後は頭上から酸の雨を浴びせられて仲間を殺された者たちの――骨の髄まで煮えたぎる、圧倒的な「殺意」。
『聖女が……俺たちを殺そうとしたんだ……!』
『祝福なんかじゃない! 毒の雨だ! あいつが俺たちを皆殺しにするために罠にハメたんだ!!』
ざわざわと広がった殺意の波は、瞬く間に、数万人の怒号の津波へと変貌を遂げた。
『偽聖女を引きずり下ろせぇぇぇっ!!』
『人殺し! 俺たちの仲間を返せ!!』
『あいつを殺せ! 肉を削いで泥水に沈めろぉぉぉっ!!』
ドォォォォォォッ!!
武器を捨てて逃げ惑っていたはずの兵士たちが、棍棒や折れた槍を握りしめ、血走った目で高台を取り囲み始めた。
数千、数万の怒れる兵士の波が、壇上のマリアベル目掛けて、泥濘を蹴散らして殺到してくる。
「ひっ……! 来ないで! 近寄らないでぇぇっ!!」
マリアベルは恐怖に顔を引き攣らせ、ドレスの裾を濡らしながら、高台の床の上を無様に後ずさった。
失禁の生温かい染みが、純白の大祭服を汚していく。
かつて民衆を見下ろし、愛嬌と嘘泣きで権力を貪っていた偽聖女は今、自らが放った悪意の報いによって、何万もの兵士たちの復讐の刃の前に、丸腰で晒し上げられていた。
***
その大混乱の軍勢の後方。
安全な丘の上の天幕の影から――第二皇女セシリアは、その地獄絵図を冷ややかに見つめていた。
ドレスの胸元にそっと手を添える。
衣服の下で、ヴァレリアから授けられた【神気の護符】(第33話)が、任務の成功を告げるかのように、静かに、優美に紫紺の光を脈打たせていた。
「……ふふ」
セシリアの唇から、氷のように透き通った嘲笑が零れ落ちる。
彼女は背後の影に控えるキリアン配下の暗殺者たちへ向けて、静かに、だが決定的な次の命令を下した。
「始めなさい。……兵士たちに、真なる『神の言葉』を教えてあげるのです」
崩壊した指揮系統。
酸の雨によって自滅した十万の軍勢。




