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第40話:因果のロックオン 〜星降るバルコニーの紫紺陣と、魂を縛る見えない照準〜

ガルディニア帝国軍が泥濘と死臭に塗れて喘ぐ『死竜の爪痕』から、北西へ数百里。

天を突き刺す竜骨山脈の険峰を軽々と飛び越えた先、覇権国家カイザーライヒの帝都郊外に佇む迎賓離宮『黒曜宮』の最頂部は、同じ夜の下とは思えぬほどの静謐と、息を呑むような星々の輝きに満たされていた。


地上数十メートルの上空へとせり出した、黒曜石を削り出して築かれた広大な空中展望バルコニー。

手すりの向こうには、雲一つない満天の天の川が銀色の砂のように広がり、冷涼な夜風が、庭園に咲き誇る月光花の甘美な芳香を運んでくる。

先刻までサロンで繰り広げられていた男たちの過剰な求愛抗争(第35話)は、筆頭侍女長グレーテの熱湯ポットの洗礼によって強制的に幕を引き、宮内には安らかな静寂が戻っていた。


そのバルコニーの欄干に、ヴァレリア・フォン・アルトハイムは優雅に背を預けていた。


身に纏うのは、夜の帳をそのまま織り上げたような、深い群青色のシルクガウン。

胸元と背中が緩やかに開かれたその意匠は、彼女の透き通るような白磁の肌と、完璧な鎖骨のラインを星光の下で妖艶に際立たせている。

右手の細い指先には、薄氷のように繊細なクリスタルグラス。皇帝コンラートが持ち込んだ最高級の果実酒『緋天の雫』が、ルビーのように深紅の光を湛えて静かに揺れていた。


――チリン。


突如として、ヴァレリアの胸元から、澄み渡る金属鈴のような微細な共鳴音が響いた。

ガウンの胸元、薄いシルク越しに、淡く妖艶な紫紺の燐光が鼓動のように明滅する。


第32話において、第二皇女セシリアが自らの血をもって忠誠の誓詞を捧げた際、ヴァレリアが直々に授けた【神気の護符】。

衣服の下に隠されたその宝珠が、遠く離れたガルディニア軍本陣からの極秘暗号通信を受信し、主の魂核へとリアルタイムで共鳴を果たしたのだ。


「……あら」


ヴァレリアはグラスを傾ける手を止め、紫紺の双眸を細めた。

彼女が左手の指先を軽く宙に滑らせると、空間に微細な魔力の波紋が広がり、セシリアが送信したばかりの思考ログが、鮮明な文字と映像の奔流となってヴァレリアの脳裏へと直接流れ込んできた。


死竜の爪痕の軍議天幕において、血を流して撤退を具申した老将軍ヴェルナーをユースティスが反逆罪で解任した狂態。

爛れた顔半分を包帯で覆い、大聖堂から盗み出した禁忌魔導書を叩きつけて全軍への大魔法を提案したマリアベルの狂乱。

そして――明日の払暁、赤鷲平原の前線基地において、十万の軍勢を集結させ、広域神聖活性魔術【聖戦の祝福(アウローラ・グローリア)】を展開するという、決定的な軍事機密の全貌。


「くすっ……あはは」


ヴァレリアの艶やかな紅唇から、鈴を転がすような、だが背筋の芯まで凍りつかせる冷酷な笑声が零れ落ちた。


「期待を裏切らない愚かさね。……泥水に塗れ、下痢と高熱で這いずり回る十万の兵士を前にして、禁忌の儀式魔術で一発逆転を狙うだなんて。本当に、絵に描いたような道化たちだこと」


「……何が届いたのですか、ヴァレリア様?」


バルコニーの入り口、大理石の円柱の影から、静かに進み出てきた男がいた。

漆黒の聖職服を着崩し、首元に生々しい火傷の痕を残した青年――元神殿筆頭司教、マティアスであった。

自室でヴァレリアの肖像画に祈りを捧げていた(第35話)この狂信の元司教は、主の神気の微細な揺らぎを敏感に察知し、音もなくバルコニーへと侍ったのだ。


ヴァレリアは指先を軽く弾き、セシリアから届いた魔導書の写しの術式図を、青白い光の文字として空中に投影してみせた。


「セシリアからの報告よ。……大聖堂が崩落する前夜、マリアベルがあの檻の奥底から盗み出した禁術書があるそうよ。明日の夜明け、全軍十万へ向けて【聖戦の祝福】なる大魔術を展開するそうよ。マティアス、貴方ならこの術式の出所をご存知でしょう?」


マティアスの端正な顔立ちが、投影された術式図を一瞥した瞬間、侮蔑と嘲弄の色に歪んだ。

元筆頭司教の怜悧な脳細胞が、神殿が数百年封印してきた禁忌の術理を一瞬で解剖する。


「……反吐が出ますね」

マティアスは吐き捨てるように呟き、首を横に振った。


「【聖戦の祝福(アウローラ・グローリア)】……初代教皇の時代、神話の魔獣軍勢を前にして、聖女が自らの命を削り、味方の士気と生命力を活性化させるために編み出された古代の秘術です。しかし、この術式には絶対の前提条件が存在します」


マティアスは自らの胸元に手を当て、かつて大聖堂で培った神学の知識を冷徹に解説した。


「神聖魔術とは、術者の精神状態がそのまま術式の効果に直結する鏡のようなもの。この術式を十万人規模で成功させるには、術者たる聖女の魂に、一片の曇りもない『純粋なる信仰』と、味方の苦痛をすべて背負う覚悟を持った『私心なき慈愛の祈り』が不可欠なのです。……あのような、愛嬌と嘘泣きだけで男を籠絡し、自作自演の毒殺詐術で肥え太ってきた男爵令嬢ごときが、十万人分の神聖魔力を束ねられるはずがありません」


マティアスの瞳の奥に、背徳の愉悦がギラギラと燃え上がった。


「今、マリアベルの胸中にあるのは何でしょうか? 自分が助かりたいという浅ましい自己保身。醜く爛れた顔面への屈辱。そして何より――地獄から戻られたヴァレリア様に対する、ドス黒い嫉妬と殺意だけです。……そのような毒泥のようなエゴを燃料にして神聖大魔法を展開すれば、魔力の暴走は免れません。術式は内側から反転し、自軍を焼き尽くす破滅の引き金となるでしょう」


「……その通りよ、マティアス」


ヴァレリアは満足げに目を細め、果実酒を一口、喉へと流し込んだ。


その時であった。


ゴオオオオオオッ……!


バルコニーの床に落ちていたヴァレリアの影が、突如として巨大な漆黒の渦を巻いて立ち上がった。

夜気を焼き焦がす、数千度の原初の黒炎。

影の中から姿を現したのは、黒銀の長髪を夜風になびかせる原初の魔王――ヴォルフラムであった。


ヴォルフラムは、マティアスを一瞥して鼻を鳴らすと、音もなくヴァレリアの前へと進み出た。

そして――何のためらいもなく、大理石の床の上に両膝を折り、ヴァレリアの足元へと平伏したのだ。

魔王は金色の双眸を爛々と輝かせ、ヴァレリアの空いた左手を両手で恭しくすくい上げると、その白磁の手の甲へ、自らの額をすり寄せるように押し当てた。


「我が主……我が唯一の至高の神よ」


人外特有の濃密な魔力と、狂おしいまでの熱情が、ヴォルフラムの喉から漏れ出る。


「あの羽虫ども……いまだに自らがどのような絶対捕食者の手のひらの上で踊らされているのか、理解すらしておらぬようだな。……我を呼び出していただければ、今夜のうちに竜の姿となり、死竜の爪痕の岩山ごと、あの十万の軍勢を黒炎で蒸発させて参りますが?」


「ふふ、せっかちね、ヴォルフラム」


ヴァレリアは左手を引くこともせず、手首を預けたまま、愛おしそうに魔王の黒銀の髪を指先で梳いてやった。

絶対の魔王が、ただ一人の少女の愛撫に目を細め、喉を鳴らして歓喜に震える。


「貴方の炎を使うまでもないわ。……相手が自ら、首を絞めるための極上の縄を編んでくれたのですもの。こちらがやるべきことは、その縄の結び目を、少しだけ強く引き絞ってあげることだけよ」


「……我が主の、遠隔調教か」

ヴォルフラムの唇が、獰猛な牙を覗かせて三日月形に吊り上がった。

「自らが放った悪意の毒に塗れて死んでいく哀れな羽虫ども……。くくっ、なんと甘美で、なんと残酷な余興か。我が神のその冷徹なる美しさに、我が魂のすべてが震えておりますぞ」


「さて……」


ヴァレリアはヴォルフラムの手から優雅に自らの指先を抜くと、手にしたクリスタルグラスを、バルコニーの欄干の大理石の上へとコトリと置いた。


彼女はゆっくりと背筋を伸ばし、夜空を見上げた。

その紫紺の双眸の奥底で――世界の因果を司る絶対のチートコードが、静かに、だが神話級の威圧感を伴って目を覚ます。


「攻撃魔法でなくとも、構わないのよ」


冷涼なる女帝の独白が、星降る夜空に響いた。


「敵が放つものが、炎の弾丸であろうと、雷撃であろうと、あるいは全軍を鼓舞するための『祝福の光』であろうと……関係ありませんわ。――その術式の根底にあるものが、私に対する害意、私を殺害するための戦意、そして私から略奪するための悪意であるならば」


ヴァレリアの胸元に刻まれた不可視の天秤が、カチリと音を立てて傾いた。


「――それはすべて、私の【因果の天秤(カルマ・イーター)】の支配下に入ります」


スッ、と。

ヴァレリアが右手を前方の虚空へと掲げた。


その瞬間――。


――キィィィィィィィンッッ!!!!


鼓膜を破壊するような、超高周波の神聖魔力の共鳴音が、黒曜宮のバルコニー全体に炸裂した。

夜風が止んだ。

原生林のざわめきが凍りついた。

ヴァレリアの白磁の掌の前方、虚空の空間が、ガラス細工のようにピキピキと美しい亀裂を走らせる。


現出したのは、直径三メートルを超える、息を呑むほどに精密で豪奢な『紫紺と黄金の二重魔法陣』であった。

内側には、太古の神聖文字と深淵文字が織り混ざった因果律の数式が幾重にも回転し、外周には、巨大な天秤の針を象った絶対の神聖幾何学模様が、冷徹な燐光を撒き散らしている。

ヴァレリアがこれまでに【悪意の神聖精製】によって呑み干してきた、数万人分の怨嗟、大聖堂の呪詛、そして最高司教ベネディクトの三十年分の寿命(第21話)。それら天文学的な質量を持った神気が、魔法陣の核石へと収束していく。


「――【因果の天秤】、第二原則【絶対反跳(カルマ・リフレクション)】」


ヴァレリアの紫紺の瞳が、黄金の神気を宿して妖艶に発光した。


「――長距離因果照準器(カルマ・サイト)、起動」


ズズズズズズ……ッ!!


空間が歪曲した。

魔法陣の中央から、肉眼では捉えきれぬほど極細の、だが銀河を貫く光の矢の如き『紫紺の因果の糸』が射出された。

物理的な距離など、この能力の前には何の意味も持たなかった。

山脈も、国境の防壁も、大気の層すらも紙屑のように透過し、光速を遥かに超える速度で、南東の彼方――数百里離れたガルディニア軍本陣『死竜の爪痕』へと、因果の糸が一瞬にして到達する。


***


――同じ時刻。

死竜の爪痕、深紅の総司令部天幕。


軍議机の前で、ユースティスに抱きつきながら狂乱の笑声を上げていたマリアベル(第39話)の身体が――唐突に、ビクリと激しく跳ね上がった。


「……え?」


マリアベルの笑みが、凍りついた。

心臓を、氷の指先で直接ギュッと鷲掴みにされたかのような、異様な悪寒。

彼女の胸の奥底――体内の全魔導管が集中する『魔力核(霊核)』の中心に、目に見えぬ冷酷な「杭」が、音もなく打ち込まれたような戦慄。


「ど、どうしたマリアベル?」

ユースティスが怪訝そうに眉をひそめる。


「い、いえ……何でもございませんわ、殿下……」

マリアベルは爛れた顔面を痙攣させ、自らの胸元を手で押さえた。

気のせいだ。疲れているだけだ。

明日の朝には、自分は十万の狂戦士軍団を手に入れ、世界の頂点に立つ聖女となるのだから――。


哀れな俗物は、気づくことすらできなかった。

自らの魂の核に、何千キロも離れた場所から、逃れようのない絶対の死の照準が、寸分の狂いもなく「完全固定(ロックオン)」されたという事実に。


***


――黒曜宮のバルコニー。


虚空に浮かぶ紫紺の魔法陣の中央で、回転していた天秤の針が、カチリと重厚な音を立てて静止した。

照準完了。

標的ログ:新聖女マリアベル・ローラン。

因果座標:死竜の爪痕・中央祭壇予定地。

同調術式:広域神聖活性魔術【聖戦の祝福】。


「……捕捉完了(ロックオン)ですわ」


ヴァレリアの唇が、この世のいかなる毒よりも甘美に、そして冷酷に吊り上がった。


「明日の夜明け、貴女が放つその光……。私への殺意と、自らの強欲にまみれたその浅ましい祈りのすべてを、この天秤が余すところなく受け止めてあげますわ」


彼女に向けられた悪意の総質量が大きければ大きいほど、反跳する災厄の威力は倍加する。

十万の軍勢の運命を巻き込み、偽聖女が自ら編み上げた禁忌の術式。

それは、明日、放たれた瞬間に――自らの軍勢を頭上から溶かし尽くす、最悪の『酸の雨』へと反転することになるのだ。


ヴァレリアが右手を軽く握り込むと、空中に展開されていた巨大な魔法陣は、淡い光の粉となって夜風の中へと静かに溶け散っていった。


背後で、マティアスが恍惚のあまり両膝をついて咽び泣き、ヴォルフラムが「我が神の完全なる掌握」に狂喜して牙を剥く。

夜の帳が、ゆっくりと白み始める前の最も深い闇。

バルコニーの欄干から東の地平線を見据えるヴァレリアの紫紺の双眸は、黄金の神気を爛々と輝かせ、その胸中で、絶対の因果の針が――「破滅」の側へと、深く、重厚に、不可逆の角度で傾ききっていた。


道化たちの命運は、すでに尽きていた。

夜明けと共に赤鷲平原を襲うのは、奇跡の祝福などではない。

自らが蒔いた悪意の毒によって、十万の軍勢が骨まで溶け崩れる――空前絶後の自滅の洗礼であった。

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