第39話:偽聖女の最後の賭け 〜夜の軍議天幕と、黒き憎悪に染まる禁忌の光〜
国境赤鷲平原の手前、標高千メートルを超える『死竜の爪痕』と呼ばれる荒涼たる岩山地帯に、ガルディニア帝国軍十万の本陣が設営されていた。
だが、夜の帳が降りた陣営を支配していたのは、決戦を控えた軍勢の覇気などでは断じてなかった。
降り続く氷雨は、泥濘の黒土を冷たく濡らし、岩肌を伝って濁流となって天幕の間を這い回っている。天幕の外からは、夜風に乗って絶え間なく聞こえてくるのだ。下痢の激痛に腹を抱えて悶絶する兵士たちの呻き声、四十度の高熱に意識を奪われた者たちの譫言、そして自らの排泄物と腐肉が混ざり合った、吐き気を催すほどの死臭。
前日、キリアンの暗殺ギルドが街道沿いの水源に仕掛けた遅効性の霊的毒草【紫斑茸】と劇症性下痢毒(第38話)は、飢餓とカビた干し肉によって免疫を失っていた兵士たちの五臓六腑を、完璧に破壊し尽くしていた。
すでに前衛・中衛の四割が脱水症状によって戦闘不能。夜陰に乗じて武器を捨てて逃亡した兵士は、確認できているだけでも八千名を超えていた。
その腐臭漂う本陣の中央――周囲を厳重な近衛兵の歩哨で固められた、巨大な深紅の天幕『総司令部軍議室』。
金糸の刺繍が施された二重の天幕の内部には、寒さを遮るための大型の魔導暖炉が赤々と燃え盛り、外の地獄とは別世界の暖気と、高価な香煙の匂いが満ちていた。
だが、卓を囲む者たちの表情は、氷点下よりも冷たく凍りついていた。
「……撤退を、全軍の即時反転撤退を具申いたします! 殿下!!」
大理石の軍議机を拳で叩き、悲痛な叫びを上げたのは、帝国軍東部方面軍総司令官――歴戦の重鎮、ヴェルナー上級大将であった。
白髪を泥水で濡らし、泥まみれの甲冑を着込んだ老将軍は、血走った眼で玉座の間の如く設えられた長椅子を見据えていた。
「この進軍は、もはや軍事作戦の体を成しておりません! 兵の四割が激しい疫病で倒れ、輜重隊の食糧はカビと泥に塗れて配給すら滞っております! これ以上前進すれば、敵国カイザーライヒの影を見る前に、我が十万の将兵は道端で自らの汚物に塗れて全滅いたしますぞ!!」
「そうだ、ヴェルナー将軍の仰る通りだ!」
隣に立つ軍務卿の伯爵も、青ざめた顔で追従した。
「カイザーライヒ軍五万は、赤鷲平原の向こうで万全の補給線を維持し、陣を整えて待ち構えているとの偵察報告が入っております! 飢えと病で這いずる我が軍が平原へ踏み出せば、迎撃の魔導砲と黒甲騎兵によって、わずか半日で一方的に屠殺されるだけです! 殿下、どうかご英断を! 直ちに兵を帝都へ引き返し、防衛線を再構築するべきです!!」
居並ぶ従軍貴族、将軍、参謀たちのほぼ全員が、悲痛な面持ちで頷き、長椅子へ向けて深々と頭を垂れた。
合理的判断。常識ある軍人であれば、誰一人として疑いようのない、唯一の生き残り策。
十万の命を預かる最高司令官であるならば、この満場一致の撤退進言を受け入れることこそが、最低限の義務であった。
――しかし。
「…………」
豪奢な長椅子の肘掛けに身を沈め、銀の酒杯を揺らしていた男――第一皇太子ユースティスの反応は、正気のものとは程遠かった。
ユースティスの顔面中央には、大階段の転落事故(第12話)で粉砕骨折した鼻を覆う、分厚く薄汚れた白い包帯が幾重にも巻き付けられていた。
激痛と恐怖を抑え込むために過剰に摂取し続けている阿片軟膏の影響で、血走った両目の瞳孔は極限まで拡大し、狂気じみた光が爛々と燃え盛っている。
頬の筋肉はピクピクと痙攣し、整えられていたはずの金髪は乱れ、軍服の胸元は汗と吐瀉物の飛沫で黄ばんでいた。
ユースティスは、撤退を懇願する老将軍たちを、値踏みするようにじっと見つめた。
そして――。
「……撤退、だと?」
低く、湿り気のある声。
「この私に……神に選ばれしガルディニア帝国の主権者たるこの私に、敵の前で尻尾を巻いて逃げ帰れと……そう言っているのか? 貴様らは」
「殿下! 面子や誇りの問題ではございません!」
ヴェルナー将軍が声を荒らげる。
「兵士たちの命の問題です! 我が軍はすでに内側から崩壊しているのですぞ!!」
「黙れぇぇぇぇぇッ!!!!」
ガシャァァァンッ!!
ユースティスが手にした銀の酒杯が、ヴェルナー将軍の額目掛けて投げつけられた。
重厚な金属の角が老将軍の皮膚を切り裂き、鮮血が飛び散って泥まみれの胸甲を赤く染める。
「誰の許しを得て、この私に指図しているのだ、老いぼれめが!!」
ユースティスは長椅子から跳ね起き、抜刀した儀礼用サーベルを大理石の机に突き立てた。
唾を撒き散らしながら、鬼のような形相で将軍たちを睨みつける。
「撤退など絶対に許さん! 帝都へ逃げ帰って、あの愚民どもに何と言い訳するのだ!? 『大軍を率いて出陣したが、腹を下して逃げ帰りました』とでも言えというのか!? 笑い者になるのは私だぞ! 私の顔に泥を塗る気かぁぁっ!!」
狂乱。
兵士たちの命など、この男の歪みきった肥大化したプライドの前には、紙屑ほどの重みすら持っていなかった。
第33話において、妹セシリアから「お兄様こそが真の征服王」「カイザーライヒは我が軍を恐れて籠城している」という甘美な毒を注ぎ込まれたユースティスにとって、撤退することは、自らの虚栄心の死刑宣告に他ならなかったのだ。
「ヴェルナー将軍! 貴様を今この瞬間をもって総司令官の任から解任する!」
ユースティスは切っ先を血を流す老将軍へと突きつけた。
「反逆罪および敵前逃亡教唆の罪で、その階級を剥奪し、近衛兵の監視下に置く! ……他に撤退を口にする奴はおるか!? 名乗り出ろ! この場で反逆者として首を刎ねてやる!!」
息を呑む静寂。
諸侯や将軍たちは青ざめ、口を噤んで視線を床へと落とすしかなかった。
完全なる暴君の狂気。諫言した重鎮が一瞬で解任され、刃を向けられた今、誰一人として正論を口にする勇気を持つ者はいなかった。
だが――破滅の軍勢が完全に手詰まりに陥った、まさにその時であった。
「……ふふ。……あはははは!」
軍議天幕の奥――天蓋付きの小部屋を仕切るビロードの垂れ幕を押し退け、甲高い、神経を逆撫でするような哄笑が響き渡った。
現れたのは、新聖女マリアベル・ローランであった。
その姿に、天幕内の将校たちは一斉に戦慄し、思わず半歩後ずさった。
数日前まで、社交界で「天上の光を宿す清純な乙女」と讃えられていた可憐な面影など、どこを探しても見当たらなかった。
身に纏うのは、裾が泥にまみれ、破れた純白の儀式用ドレス。
大聖堂前の爆破事故(第8話)でチリチリに縮れた金髪は、乱雑に肩に散らばり、異臭を放っている。
そして何より――顔面の右半分を覆う、薄汚れた包帯。
大階段の転落事故(第12話)による青あざと、自室で侍女エマを虐待した際の油の火傷(第18話)によって赤黒く爛れ果てた素肌から、黄色い膿が絶え間なく滲み出ている。
その化け物じみた醜悪な相貌のまま、マリアベルは血走った青い瞳を爛々と輝かせ、大理石の机の前へと滑り出てきたのだ。
「情けないですわね、将軍の皆様。……敵の姿すら見ぬうちから、腰を抜かして撤退を泣き喚くなんて。それでもガルディニアの武人と言えますの?」
「マ、マリアベル様……!?」
将校の一人が息を呑む。
マリアベルは将校たちの軽蔑と恐怖の視線を意にも介さず、大股でユースティスの足元へと歩み寄った。
そして、皇太子の軍服の腕に、自らの痩せこけた指先を絡みつかせ、甘ったるく、だが狂気に満ちた声で囁きかけた。
「殿下……怯える必要など、どこにもございませんわ。あの無能な兵隊たちが腹を下して倒れているのは、ただの些細な試練に過ぎません。……私が、この光の聖女マリアベルが、すべてを解決して差し上げます!」
「マリアベル……? お前、一体何を言っているのだ?」
ユースティスが怪訝そうに眉をひそめた。
昼間、治療を求めてすがりついてきた衛生兵たちを「薄汚いドブネズミ」と罵倒し、蹴り飛ばして拒絶したはずの女(第38話)が、唐突に何を言い出したのか。
「ふふっ……これをご覧になって、殿下!」
マリアベルは胸元のドレスの懐から、一冊の古色蒼然とした羊皮紙の書物を引き出し、机の上にバサリと叩きつけた。
表紙は黒い山羊の革で覆われ、中央には禍々しい真紅の魔導印章。
大聖堂が崩落する前夜、マティアスが金庫を爆破して出奔した混乱の最中(第9話)、マリアベルが大聖堂調剤部の最奥の隠し書架から、自らの保身のために密かに盗み出していた――神殿禁忌の古代魔導書の写本であった。
「これは……神殿の禁術書か!?」
参謀長が目を見張った。
「ええ、そうですわ!」
マリアベルは勝ち誇った笑みを浮かべ、書物の特定のページを白く長い爪でピシャリと叩いた。
「ここに記されているのは、初代教皇の時代に封印された、失われし奇跡の大魔術……【聖戦の祝福】! 聖女の光の魔力を極限まで増幅し、天蓋を覆う巨大な光の幕として、十万の軍勢の頭上へ一斉に注ぎ込む、広域神聖活性魔術ですわ!!」
「広域神聖活性魔術……!?」
ユースティスの血走った目が、ピクリと反応した。
「そうです! 私の放つ聖なる光が軍勢全体を包み込めば、兵士たちの腸の毒など一瞬にして浄化されます! それだけではありませんわ……光を浴びた兵士たちは、肉体の痛覚を完全に遮断され、筋力と魔力が数倍に跳ね上がり、死をも恐れぬ無敵の『神聖狂戦士』へと変貌を遂げるのです!」
マリアベルは身を乗り出し、ユースティスの包帯の耳元へ、甘美な悪魔の囁きを吹き込んだ。
「十万の無敵の狂戦士軍団……! それさえ手に入れば、カイザーライヒの五万など、ただの肉片に変えることができますわ! 敵軍を一撃で粉砕し、皇帝コンラートを捕縛し……そして、あの忌々しい魔女ヴァレリアを引きずり出し、私の足元で惨殺してやるのです!!」
「おお……! おおおおっ!!」
ユースティスの呼吸が、激しく荒くなった。
全軍の病気の治癒。痛覚の遮断。筋力の増幅。
追いつめられた無能な男にとって、これ以上ないほどに都合が良く、これ以上ないほどに魅力的な、一発逆転の奇跡のカード。
「す、素晴らしい……! さすがは我が愛しき聖女マリアベルだ! それだ、その大魔法をもって、全軍を一気に進撃させるのだ!!」
「お待ちください、殿下ッ!!」
解任されたヴェルナー将軍が、血を流しながら悲鳴のような制止の声を上げた。
「禁忌の古代術式など、あまりにも危険すぎます! それに、その【聖戦の祝福】という術式は……術者たる聖女の『純粋なる信仰』と『私心なき慈愛の祈り』のみを燃料にして成立する、極めて繊細な儀式魔術のはず! もし術者の心にわずかでも邪念や歪みがあれば、魔力は制御を失って暴走し――」
「黙りなさいッ!!」
マリアベルの金切り声が、老将軍の警告を叩き潰した。
女は爛れた顔面を怒りに歪め、唾を吐き捨てるように喚き散らす。
「私に邪念があると言うのですか!? この神に選ばれし光の聖女マリアベルに、私心があるとでも言いたいわけ!? 万死に値するのは貴方よ、この老いぼれが! 私の光は、神そのものの純白の奇跡よ!!」
マリアベルの胸中で渦巻いていたもの――。
それは、神への信仰などでは断じてなかった。
民への慈愛でも、兵士への哀れみでもない。
(許さない……絶対に許さないわ、あの女……ッ!)
マリアベルの脳裏に焼き付いて離れないのは、ただ一つの忌まわしき影――ヴァレリア・フォン・アルトハイム。
十年間、地下牢で泥水を啜っていたはずのドブネズミ。
それなのに、なぜあの女は死なずにカイザーライヒの皇帝に庇護され、絶世の美貌を取り戻し、自分をこのような惨めな姿へと追い詰めたのか。
神殿が燃えたのも、最高司教が死んだのも、民衆が自分に石を投げるのも、自分の顔に火傷がついたのも――すべて、あの女の呪いのせいに違いない。
(私が勝つのよ! この大魔法で十万の軍を動かし、カイザーライヒを滅ぼして、あの女の首を私の足元に転がしてやるの! そして、ユースティス殿下の正妃となり、この大陸の絶対の皇后として君臨するのよ!!)
自己保身。
底知れぬ強欲。
剥き出しの虚栄心。
そして、ヴァレリアに対する、狂気じみたドス黒い殺意と怨嗟。
神聖魔術の根幹である「純粋な祈り」とは、真逆の極み。
術者の魂の全細胞が、猛毒のようなエゴと殺戮の意志によって真っ黒に濁りきっていた。
これほどまでに巨大で、これほどまでに醜悪な「悪意の塊」を燃料にして神聖大魔法を展開すれば、一体いかなる破滅の化学反応が引き起こされるか――。
愚鈍なユースティスにも、狂乱したマリアベル自身にも、それを察知する知性など欠片も残されていなかった。
「決まりだ!」
ユースティスは狂喜乱舞し、サーベルを天へと掲げた。
「明日の払暁! 赤鷲平原の前線基地において、全十万の軍勢を集結させ、マリアベルによる【聖戦の祝福】の大儀式を執り行う! 光の奇跡をもって全軍を無敵の軍団へと変貌させ、その勢いのままカイザーライヒへと雪崩れ込むのだ!!」
「きゃはっ! ありがとうございます、殿下!」
マリアベルは爛れた顔を歪めて歓喜の笑声を上げ、ユースティスの胸元へと抱きついた。
狂気の道化と、破滅の偽聖女。
二人の怪物が手を取り合い、自ら仕掛けた最悪の時限爆弾の上で、勝利の美酒に酔いしれる光景。
天幕内の将校たちは、ただ青ざめ、口を覆って絶望の震えに身を任せるしかなかった。
――だが。
その軍議天幕の最奥、暗い支柱の影。
将校たちの背後に紛れ、息を潜めて立ち尽くしていた一人の人影があった。
第二皇女、セシリア・フォン・ガルディニア。
純白のドレスのフードを目深に被り、気配を完全に遮断していた彼女は、大理石の机の上で繰り広げられた茶番劇のすべてを、その菫色の双眸で冷徹に見届けていた。
セシリアの唇の端が、微かに、嘲弄の三日月形へと吊り上がる。
(……愚かな。救いようのない、哀れな豚たち)
セシリアは音もなく右手をドレスの胸元へと滑り込ませた。
衣服の下、素肌に触れる冷たい金属の感触――ヴァレリアから授けられた【神気の護符】(第33話)。
そして、その傍らに忍ばせていた、カイザーライヒ軍直通の超長距離通信魔導具『紫紺の水晶玉』。
セシリアは誰にも気づかれぬよう、指先にわずかな魔力を込め、水晶玉の表面を三度、トントンと軽く叩いた。
護符を通じて、何千里も離れたカイザーライヒの迎賓離宮『黒曜宮』の特等席――今まさに優雅な夜宴を終えようとしているはずの、絶対の女帝ヴァレリアの意識へと、極秘の暗号通信が光速で送信される。
『――我が敬愛する主、ヴァレリア様。
獲物は完全に罠にかかりました。明日の払暁、偽聖女マリアベルが、己のどす黒いエゴと殺意のすべてを注ぎ込み、全軍十万へ向けた大規模儀式魔術【聖戦の祝福】を展開いたします。……最高の餌が、整いました』
送信完了。
セシリアの胸元で、紫紺の護符が淡く、妖艶な光を瞬かせた。
それは、遠く離れた黒曜宮のバルコニーで、極上の美酒を傾けるヴァレリアの、冷酷なる了承の合図であった。
天幕の外では、冷たい雨が降り続いていた。
飢えと疫病に呻く十万の兵士たちの断末魔。
彼らの頭上に明日降り注ぐのは、偽聖女の約束した奇跡の光などでは断じてない。
己の放った悪意が何倍にも増幅され、自らを焼き尽くす――空前絶後の自滅の業火であることを、哀れな道化たちはまだ誰も知る由もなかった。




