第38話:泥濘の進軍と見えない刃 〜カビた干し肉と毒の井戸、泥水に沈む十万の屍列〜
天を衝く竜骨山脈の切り立った険峰から、国境の赤鷲平原へと緩やかに下る軍用街道は、朝から降り続く冷たい秋雨によって、底なしのドブ色の泥沼へと変わり果てていた。
粘土質の黒土は馬の蹄や兵士たちの軍靴に重たくまとわりつき、一歩踏み出すたびにズブズブと膝下まで足を取られる。泥濘の底からは、腐った植物と泥水が混ざり合った不快なガスが立ち上り、鉛色の雲が立ち込める薄暗い空の下、果てしなく続く軍勢の列を重苦しく呑み込んでいた。
ガルディニア帝国軍、総勢十万。
名目上は、隣国カイザーライヒの不敬なる侵略工作を叩き潰し、奪われた元聖女ヴァレリアの身柄を奪還するための、帝国史上最大規模の征討大軍勢であった。
だが――その長大な隊列のどこを見渡しても、大国の威容や、敵国を焦土とせんと燃え盛る兵士たちの高揚感など、塵芥ほども存在しなかった。
そこに広がっていたのは、ただ飢えと寒さに震え、泥に塗れながら足を引きずる、十万の「歩く死体」の行進であった。
「……おい、止まるな! 列を乱すな、足を動かせ!!」
泥まみれの鎧を着込んだ下級将校が、嗄れた声で怒鳴り散らしていた。
だが、その手にした鞭を振り上げる腕すら、寒さと疲労で小刻みに震えている。
兵士たちの足取りは、鉛のように重かった。
無理もなかった。彼らの背嚢には、戦場を駆けるための十分な食糧など、最初から一欠片も詰められていなかったのだ。
帝国の食糧生産の四割を一手に担っていた東部アルトハイム公爵領の作物は、地下の呪詛泥流の大噴出によって一夜にして全滅した(第28話)。さらに、公爵邸を包囲した数万の飢民の蜂起の際、暗殺者キリアンの手によって巨大な地下兵糧庫と備蓄穀物は跡形もなく爆破炎上していた(第29話)。
帝都ルテティアの国庫は神殿の崩壊と金融封鎖によって底をつき、食糧価格は十倍に暴騰。
そんな極限の飢餓状態の中で、狂乱した皇太子ユースティスが強行した十万人の大動員。
兵士たちに配給された日当の糧食は――一握りの、青黒いカビがびっしりと生えた干からびた古肉と、コクゾウムシの死骸が大量に混ざり合った、酸っぱい異臭を放つ腐りかけのライ麦の粉だけであった。
「くそっ……こんなもの、食えるかよ……!」
隊列の中ほどを歩いていた一人の歩兵が、泥水に濡れた革袋から取り出した干し肉を見つめ、吐き捨てるように呟いた。
肉は石のように硬く、爪で削ればポロポロと崩れてカビの胞子が煙のように舞い散る。口に含めば、泥と防腐用の粗悪な灰の味、そして舌を麻痺させる腐敗臭が口内いっぱいに広がり、胃袋が激しく痙攣して吐き気を催す。
「文句を言うな、食わなきゃ歩けねえぞ」
隣の古参兵が、泥にまみれた髭を震わせながら、硬い肉片を歯で無理やり噛み砕いた。
「カイザーライヒに着けば、豊かな敵の領地からいくらでも略奪できる……殿下はそう仰っている。それまでの辛抱だ」
「略奪だと? 冗談だろ……! 国境に着く前に、俺たちの胃袋のほうが腐り落ちちまうよ……!」
兵士たちの間で交わされるのは、絶望と呪詛の言葉ばかりであった。
だが――彼らを真に地獄の底へと突き落としたのは、腐った兵糧だけでは断じてなかった。
***
「水だ……! 街道沿いに、宿場町の共同井戸があるぞ!!」
隊列の先頭から上がったその叫び声は、喉を渇きに焼き切られかけていた数千の兵士たちにとって、天上の慈雨の如く響いたはずであった。
重い鉄の甲冑を着込み、底なしの泥濘を何十里も歩き続けた兵士たちの身体からは、汗と共に水分が完全に奪い去られていた。泥水を啜って喉を湿らせようとする者すら出始めていた限界の状況。
打ち捨てられた廃村の広場。
そこにある石造りの共同井戸目掛けて、数百名の兵士たちが我先にと押し寄せた。
釣瓶を乱暴に巻き上げ、木桶に汲み出された水。
一見すれば、透き通った、冷涼で清らかな地下水に見えていた。
「う、うめぇ……! 生き返る……っ!」
「おい、押すな! 俺にも飲ませろ!!」
兵士たちは奪い合うように桶に顔を突っ込み、喉を鳴らして冷たい水を胃袋へと流し込んだ。
水筒に水を詰め、水飛沫を浴びて歓声を上げる兵士たち。
――しかし。
彼らは知る由もなかったのだ。
この街道沿いに点在する数十箇所の給水拠点、井戸、湧水地――そのすべての水源の奥底に、前夜のうちに、ある「見えない刃」が仕込まれていたことを。
かつて大聖堂が、偽聖女マリアベルの自作自演の奇跡を演出するために帝都の共同井戸へ混入させていた、遅効性の霊的微毒草【紫斑茸】の濃縮抽出液(第17話)。
そして、暗殺ギルド『影の旅団』が独自に調合した、無色無臭にして、腸壁を内側から激しく痙攣させる劇症性の下痢毒。
ヴァレリアの命を受けた銀髪の少年キリアンと配下の暗殺者たちが、進軍ルートのすべての水源を、事前に完璧な「毒の罠」へと作り変えていたのである。
変異は、水を飲んでからわずか半刻ののちに訪れた。
「ぐ……っ、あ……!?」
泥濘を踏み締めていた一人の槍兵が、唐突にその場に立ち止まり、自らの下腹部を両手で抱え込んだ。
顔面からサッと血の気が引き、土気色の皮膚に脂汗が滝のように噴き出す。
「お、おい、どうした……? 足を挫いたのか?」
同僚が声をかけた、その瞬間。
ボタボタボタッ!!
「ひぐっ、あ、あぁぁぁっ……!?」
槍兵の股間から、抑えようのない汚物が、生温かい悪臭と共にズボンを突き抜けて泥の上へと撒き散らされた。
腸を万力で雑巾のように絞り上げられるような、凄まじい激痛。
男は槍を取り落とし、自らの排泄物の海の中へと顔面から倒れ伏した。
それは、孤立した一人の悲劇などではなかった。
まるで目に見えぬ呪詛の波が隊列を撫で上げたかのように、あちこちで同時に、兵士たちが腹を押さえて崩れ落ち始めたのだ。
「痛い! 腹が……腹が引き裂かれるぅぅっ!!」
「ゲホッ、オエェェェッ……!!」
嘔吐と下痢の連鎖。
口から黄色い胃液と血の混ざった泡を吐き出し、腸内の水分をすべて泥水のように垂れ流しながら、兵士たちが次々と泥濘の中に転がっていく。
さらに、毒草【紫斑茸】の霊的毒素が作用し、兵士たちの皮膚には赤黒い斑点が急速に浮き上がり、四十度を超える猛烈な高熱が彼らの意識を奪っていった。
「水だ……水に毒が盛られていたんだ!!」
「カイザーライヒの奴らの仕業か!? 歩けない、足が震えて立てねえよぉっ!!」
阿鼻叫喚の地獄絵図。
戦闘など一回も起きていない。矢の一本すら飛んできていない。
それにもかかわらず、進軍開始からわずか二日目にして、十万の帝国軍の前衛・中衛の三割を超える兵士たちが、脱水症状と激痛によって戦闘不能に叩き落とされ、泥濘の街道脇に転がるただの汚物と化していた。
***
その腐臭と汚濁にまみれた地獄の隊列のただ中を――信じがたい、異様な光景が通り過ぎようとしていた。
ガラガラ、ガラガラ……ッ。
重厚な車輪の軋み音と共に、泥濘を蹴散らして進んできたのは、純金で豪奢に装飾された巨大な『四頭立ての天蓋付き馬車』であった。
ガルディニア皇室の最高級馬車。
車内には防音と衝撃吸収の古代魔導結界が張り巡らされ、泥道の上であっても絹の絨毯の上を滑るように揺れ一つなく進んでいる。
その馬車の窓枠に、肘をついて外を見下ろしていたのは、第一皇太子ユースティスであった。
車内には、帝都の地下酒庫から持ち出させた最高級のヴィンテージワインの甘い香りと、香水の濃厚な匂いが充満していた。
ユースティスはクリスタルグラスを片手に持ち、ワインを呷りながら、泥に倒れ伏す兵士たちを、虫けらを見るような底冷えする眼差しで見下ろしていた。
彼の顔面の中央には、未だに分厚い白い包帯が幾重にも巻き付けられている(第36話)。
鼻骨を砕かれた傷口の激痛を抑えるため、軍医に命じて処方させた高濃度の阿片軟膏を過剰に摂取した結果、血走った瞳孔は爛々と見開かれ、頬の筋肉は狂気じみた痙攣を繰り返していた。
「……ええい、目障りなゴミ共めが! 何を道端で寝転がっているのだ!!」
ユースティスは窓から身を乗り出すと、手にした銀の柄の乗馬鞭を、泥に倒れていた兵士の顔面目掛けて力任せに振り下ろした。
ピシィッ!!
「ぎゃっ!?」
高熱に喘いでいた兵士の頬が裂け、鮮血が飛び散る。
「進軍を急げと言っているのが聞こえぬのか、この怠け者共が!!」
ユースティスは唾を撒き散らしながら、鬼のような形相で喚き散らした。
「遅れる者は反逆罪だ! 我が威光ある戦進軍の足を引っ張る者は、一人残らずその場で首を刎ねて軍律の肥やしにしてやる! 立て! 立って走れ! カイザーライヒの国境まで、あと二日のうちに辿り着けぇぇぇっ!!」
狂乱の怒号。
兵士たちの命など、この男にとっては自らの虚栄心を運ぶための車輪の下の小石ほどにしか思っていなかった。
馬車の周囲を固める近衛将校たちも、皇太子の狂気に怯え、倒れる兵士たちを軍靴で蹴り飛ばし、無理やり前へと押し出していく。
だが、その暴虐が極限に達した時――兵士たちの心の中で、何かが完全にブチ切れた。
「……やってられるか」
闇の中、一人の兵士が鉄の槍を泥の中へと投げ捨てた。
「進軍したって敵と戦う前に飢え死にするだけだ。……逃げるぞ」
「ああ、都へ戻ろう」「こんな狂った皇太子に付き合えるか!」
夜の帳が降りるたび、街道の後方から、十人、百人、千人と、武器を捨てて山中へと逃走する脱走者が相次いだ。
指揮系統は完全に崩壊し、軍律などという言葉は、泥水の中に溶けて消え去っていた。
***
そして――兵士たちの絶望に、最後のとどめを刺す事件が起きた。
「マリアベル様……! 聖女マリアベル様ぁっ!!」
ユースティスの黄金馬車のすぐ後ろ――純白の幌を張った『聖女専用馬車』の扉に、血相を変えた衛生兵の一団がすがりついたのだ。
担架の上には、高熱で白目を剥き、激しい下痢によって脱水症状に陥った十数名の下級兵士たちが横たわっていた。
「お願いでございます、マリアベル様! 兵士たちの命が持ちません! どうか……どうか貴女様の『光の奇跡』をもって、彼らの病を癒やしてやってくださいまし!!」
衛生兵たちは泥濘の中に土下座し、涙を流しながら馬車の扉を叩いた。
かつて帝都の民衆の前で「奇跡の聖処女」と讃えられ、あらゆる病を祈りによって平癒させると豪語していた新聖女。
彼女の慈愛の光があれば、この苦しみから救われるはずだと――無知な兵士たちは、最後の希望を抱いてすがりついたのだ。
――しかし。
バタンッ!!
荒々しく押し開かれた扉の隙間から、外へと吐き出されたのは――慈愛の言葉などでは断じてなかった。
「……五月蝿い! 五月蝿いわよ、この薄汚いドブネズミ共がァッ!!」
ヒステリックな金切り声。
現れたのは、顔の半分に包帯を巻き付け、爛れた皮膚から黄色い膿を滴らせた、新聖女マリアベルの醜悪な貌であった(第36話)。
大聖堂の爆発事故でチリチリに縮れた金髪を振り乱し、血走った青い瞳で、泥に塗れた衛生兵たちを、汚物を見るような眼差しで睨みつける。
「ひ……っ!?」
衛生兵たちが、その化け物じみた聖女の素顔に息を呑んだ。
「見なさいよ、この悪臭を! 泥と排泄物の臭いが、私の特注のシルクドレスに移ったらどうしてくれるのよ!!」
マリアベルは手にした扇子で鼻を覆い、土下座する衛生兵の頭を、サテンの靴先で力任せに蹴り飛ばした。
ドカッ!!
「ぐああっ!?」
「治療しろですって!? 馬鹿じゃないの!? あんたたちみたいな平民のクズ共が何百人腹を下そうが、私の知ったことじゃないわよ! 私の清らかな光の魔力を、あんたたちみたいな家畜に浪費できるわけないでしょうが!!」
マリアベルの口から、本音のすべてが汚泥のようにぶちまけられた。
当然であった。
彼女には、最初から重病や疫病を癒やす力など欠片も存在しなかったのだ。
帝都で行っていたのは、事前に井戸に毒を撒き、初歩的な解毒魔法をかけて治ったフリをしていただけの、完全なる自作自演の詐術(第17話)。
大階段の転落事故で両膝を砕かれたボリス騎士長の足一つ接合できず、発狂させた無能な女が、数千人規模の劇症性の毒を浄化できるはずがなかった。
「近寄りなさいッ! 二度と私の馬車の前に汚い面を見せるんじゃないわよ! 衛兵、このゴミ共を谷底へ放り出しなさい!!」
バタンッッ!!
重厚な扉が叩きつけるように閉ざされ、内側から激しい鍵の掛かる音が響いた。
「…………」
泥濘の上に倒れ伏した衛生兵は、蹴られた額から血を流しながら、閉ざされた扉を呆然と見つめていた。
担架の上で苦しむ若い兵士が、震える手で衛生兵の腕を掴んだ。
「……おい。……聖女様は……俺たちを、助けてくれないのか……?」
「…………ああ」
衛生兵の目から、涙が枯れ果てた。
その瞳に宿ったのは、神殿への信仰の完全なる死。
そして――自分たちを使い捨ての駒としてしか見ていない、皇族と偽聖女に対する、底知れぬ憎悪。
「助けてくれないさ。……あの女は、聖女なんかじゃない。俺たちを飢えさせて殺そうとしている、ただの化け物だ」
その言葉は、冷たい秋雨に乗って、瞬く間に十万の隊列の隅々へと広がっていった。
奇跡など初めから存在しなかった。
自分たちは、無能な皇太子の虚栄心と、醜悪な偽聖女のエゴのために、泥水の中で野垂れ死ぬために連れてこられたのだと。
***
その混乱と怨嗟の渦巻く軍勢の後方。
輜重隊の安全な護衛馬車の窓辺から――一人の少女が、その光景を静かに見つめていた。
第二皇女、セシリア・フォン・ガルディニア。
乱れ一つない純白のドレスを纏い、衣服の下に隠した【神気の護符】にそっと指先を触れながら、彼女の菫色の瞳は、氷のように冷たく研ぎ澄まされていた。
「……愚かな兄上。そして、哀れなマリアベル」
セシリアの唇から、微かな、だが至上の悦楽を含んだ嘲笑が零れ落ちた。
馬車の影の中から、キリアン配下の暗殺者が音もなく現れ、耳元に囁く。
「殿下。兵士たちへの流言工作、順調に進んでおります。『この疫病は、本物の聖女ヴァレリア様を深淵へ突き落とした天罰だ』という噂が、すでに全軍の八割に浸透いたしました」
「ええ、よくやってくれました」
セシリアは満足げに頷いた。
「兵站は崩壊し、水は腐り、指揮系統は麻痺した。……敵軍カイザーライヒの姿を見る前に、我が軍はすでに、内側から完璧に死に絶えていますわ」
セシリアは窓の外――前方で泥濘に足を取られながら進む、ユースティスの黄金の馬車を見据えた。
「あとは……国境の平原で、あの男に最後の引き金を引かせるだけね」
冷たい雨が、地平線を白く煙らせていた。
泥まみれの十万の兵士たちの、血走った怨嗟の視線。
その何万本もの殺意の視線が、いまや敵国カイザーライヒではなく――自分たちを泥水の中に踏みにじりながらワインを呷る、皇太子ユースティスの黄金の馬車目掛けて、逃れようのない切っ先となって突き刺さっていた。
戦う前にして、すでに自滅のカウントダウンを終えた哀れな帝国軍。
彼らが辿り着く先――赤鷲平原の稜線の向こうには、至高の特等席で美酒を傾ける絶対の女帝ヴァレリアが、冷酷な微笑みを浮かべて待ち構えていた。




