第37話:道化の宣戦布告 〜黒鉄の謁見と、破り捨てられし最後通牒〜
大陸最強の軍事覇権国家カイザーライヒ帝国の帝都ベルンシュタイン。その中心にそびえ立つ皇城『黒鉄城』の主謁見の間は、隣国ガルディニアの饐えた退廃とは対極をなす、鋼鉄と規律の冷徹な威容に支配されていた。
天を衝く黒御影石の円柱が幾十本も整然と立ち並び、磨き上げられた黒大理石の床には、鏡のように窓外の冷涼な青空が映り込んでいる。
広間の両脇を埋め尽くすのは、漆黒の重装甲冑に身を固めた帝国筆頭近衛騎士団の精鋭数百名。彼らが佩く長剣の柄には一分の乱れもなく、放たれる研ぎ澄まされた戦意は、ただ立ち並んでいるだけで常人を圧殺するほどの重圧となって空間を満たしていた。
さらにその奥、階段状の列席に居並ぶのは、幾多の対外戦争を勝ち抜いてきたカイザーライヒの歴戦の諸侯、軍団長、そして冷徹な高級官僚たち。彼らの胸元に輝く無数の武功勲章が、朝の光を浴びて鈍く反射していた。
だが――この軍事国家の心臓部において、何よりも異様であり、何よりも絶対の存在感を放っていたのは、玉座の壇上に鎮座する二つの人影であった。
一段高く設けられた黒鉄の玉座に、脚を組み、不遜極まりない姿勢で腰を下ろしているのは、若き覇王コンラート。
歴戦の傷跡を頬に刻んだ彫刻の如き精悍な顔立ちに、漆黒の軍服。肩に羽織った真紅のマントを無造作に流し、琥珀色の双眸には、地上のあらゆる敵を睥睨する冷徹な覇気が宿っていた。
そして――その玉座のすぐ真横。
皇帝と同等の高さに並べられた、白銀と群青の天鵞絨を張った豪奢な安楽椅子。
そこに、深々と優雅に身を沈めていたのは、ヴァレリア・フォン・アルトハイムであった。
身に纏うのは、夜の帳をそのまま切り取ったような漆黒のドレスに、古代竜の鱗を極細の糸として織り込んだ真紅のストール。
最高司教ベネディクトの放った即死呪詛【魂喰らいの黒釘】を丸ごと呑み干し、神聖精製した影響(第21話)により、彼女の全身から立ち上る神気はもはや神話の領域に達していた。白磁の肌は内側から淡い燐光を放つかのように透き通り、肩へと流れる艶やかな黒髪は、微かな空気の揺らぎにすら神聖な余韻を残す。
紫紺の双眸は、手にした繊細な扇子を指先で弄びながら、気だるげに広間の大扉の方角へと向けられていた。
ヴァレリアの背後には、黒銀の長髪を揺らし、金色の瞳を爛々と光らせる原初の魔王ヴォルフラム。
壁の影に片足をかけ、無表情にダガーの切っ先を弄ぶ銀髪の少年暗殺者キリアン。
さらには、白銀の祭服を着崩して陶酔の祈りを捧げる元筆頭司教マティアスと、感情を削ぎ落とした陶器の仮面の如き美貌で銀のポットを保持する筆頭侍女長グレーテ。
世界を傾けかねない怪物たちを侍らせ、皇帝と肩を並べて微笑むその姿は、一国の皇后すら足元に及ばぬ、絶対の支配者としての神々しさを放っていた。
「――ガルディニア帝国よりの特使、入室ッ!!」
近衛兵の鋭い号令が、大謁見の間に雷鳴の如く轟いた。
ギギギ……と重厚な黒鉄の二重扉が押し開かれる。
入ってきたのは、数名の供連れを従えた一人の男であった。
ガルディニア帝国特使、フェルディナンド伯爵。
かつては帝都の社交界で華美な衣服を着飾り、大聖堂の利権に群がっていた高級貴族の一人である。
だが、今その男の姿には、大国の使節としての威厳など微塵も残されていなかった。
身に纏う緋色の使節服は、竜骨山脈の泥濘を越えてきた旅路の汚れで煤け、裾は泥にまみれて破れている。
額からは滝のような脂汗が流れ落ち、両足は生まれたての小鹿のようにガタガタと激しく震えていた。
無理もなかった。
足を踏み入れた瞬間、数百名の黒甲騎士団から放たれる殺気の濁流、歴戦の諸侯たちの侮蔑の視線、そして何より――玉座の壇上から見下ろす皇帝コンラートと、深淵の怪物たちを従えたヴァレリアの放つ超常の威圧感。
それらの重圧が、一歩歩みを進めるごとに、使者の肺腑を万力で押し潰すかのように圧迫していたのだ。
「ひ……っ、ひぐっ……」
使者は大理石の床の上に、文字通り這いつくばるようにして進み出た。
壇上から十数歩の距離で膝から崩れ落ち、震える両手で、紫の絹布に包まれた一巻の羊皮紙を頭上へと掲げた。
「カ、カイザーライヒ帝国皇帝陛下に……申し上げます……! 我がガルディニア帝国、臨時最高権力者たる第一皇太子ユースティス殿下より……親書を、最後通牒をお届けに上がりました……!」
使者の声は、恐怖で裏返り、情けなく上ずっていた。
「読め」
玉座のコンラートが、短く、低く命じた。
その一言だけで、謁見の間の温度が数度下がったかのような錯覚を使者は覚えた。
「は、ははっ……! これより……読み上げさせていただきます……!」
使者は震える指先で絹布を解き、羊皮紙を広げた。
そこに記されていたのは、病床の父皇帝に代わり全権を掌握した(第36話)ユースティス皇太子の直筆署名と、血のように赤い皇室の印章。
使者は唾を飲み込み、自らの喉を締め上げるような恐怖に耐えながら、狂乱の皇太子が認めた要求の数々を、声を震わせて朗読し始めた。
『――不遜なる隣国カイザーライヒの王に告ぐ。過日、我が帝国の至宝たる大聖堂が灰燼に帰し、国境の防壁が破れ、東部沃野が壊滅せる未曾有の大災厄は、すべて貴国が我が国の大罪人を匿い、卑劣なる呪詛の毒を撒き散らしたがゆえの侵略行為であると断定せり』
前文が読み上げられた瞬間、カイザーライヒの諸侯の間から、ざわざわと低く不穏な地鳴りのようなざわめきが漏れ出た。
自らの失政と偽聖女の無能によって招いた自滅を、すべて隣国の侵略工作として擦り付ける、あまりにも浅ましく、あまりにも稚拙な言いがかり。
だが、使者が次に読み上げた要求の条項は、居並ぶ諸侯の常識すら遥かに超越していた。
『――よって、我がガルディニア帝国は、貴国に対し以下の二条を即時履行することを要求す!
第一条。大聖堂を穢し、帝国の呪詛を扇動した元凶たる大罪人――魔女ヴァレリア・フォン・アルトハイムの身柄を、手枷足枷を嵌めた罪人として、直ちに我が帝国の使節へ引き渡すべし!』
「…………」
ピシリ、と。
玉座の周囲の空気が、完全に凍結した。
ヴァレリアの背後で、魔王ヴォルフラムの金色の双眸が縦スリットの凶眼へと変貌し、背中から数千度の黒炎の触手が音もなく立ち上がる。
キリアンが弄んでいたダガーの回転がピタリと止まり、少年の碧眼から感情の一切が消え去った。
使者の首筋に、触れれば命を刈り取る不可視の死神の鎌が、すでに何重にも突きつけられている。
しかし、使者は自らの死期を悟りながらも、引き裂かれた喉から最後の条項を叫ばざるを得なかった。
『――第二条! 我が帝国が被った莫大なる損害への賠償金として、純金貨一億枚を、三日以内に無条件で帝都ルテティアへ献上すべし!
もし……もし右の要求を一分でも遅延、あるいは拒絶せし場合……我がガルディニア帝国は十万の大軍をもって即座に進撃を開始し、貴国の全領土を焦土と化し、草木の一本すら残さず踏みにじるものである!!』
静寂。
最後の一節が読み上げられた瞬間、広大な大謁見の間は、水を打ったような静まり返りに包まれた。
国家予算の数倍に匹敵する金貨一億枚の要求。
そして、覇権国家の国賓として迎えられたヴァレリアの引き渡し。
拒絶すれば十万の大軍で焦土にするという、あまりにも一方的で、あまりにも誇大妄想に満ちた全面戦争の恫喝。
使者は羊皮紙を取り落とし、床に額を擦り付けて、激しく息を乱しながら平伏していた。
返答を待つ数秒の時間が、永遠の拷問の如く使者を苛む。
そして――。
「……ぷっ」
吹き出したのは、列席の最前列にいた老将軍であった。
それを合図にしたかのように。
「……くくっ、あはははは!」
「はっはっはっはっ! 金貨一億枚だと!? 十万の大軍で焦土だと!?」
「聞いたか、おい! 神殿が燃え、食糧すら尽きかけた泥舟の国家が、我が帝国を焦土にすると抜かしたぞ!」
「魔女の引き渡しだと? 十年間地下牢に閉じ込めて泥水を啜らせていた至宝を、どの面下げて要求してくるのだ、あの豚どもは!!」
ドォォォォォォッ!!
嘲笑。爆笑。失笑の嵐。
大謁見の間のステンドグラスをビリビリと震わせるほどの、百名を超える歴戦の諸侯たちによる、容赦のない哄笑が炸裂したのだ。
激怒すら湧かない。
あまりにも滑稽で、あまりにも身の程を知らない道化の妄言に対し、軍事大国の首脳陣はただただ腹を抱えて笑い転げるしかなかった。
「ひ……ひぃぃぃっ……!」
使者は自らの衣服を汚しながら、嘲笑の嵐の中でただただ小さく縮こまる。
「……静粛に」
コンラートの低く、地を這うような一声が響いた。
その瞬間、あれほど激しく渦巻いていた諸侯たちの哄笑が、一秒と経たずにピタリと止んだ。完璧なる軍律の静寂。
皇帝コンラートは、組んでいた脚をゆっくりと解き、肘掛けに頬杖をつきながら、不遜に片眉を吊り上げた。
その琥珀色の瞳には、冷酷無比な侮蔑と、獲物を解剖する猛獣の残虐な光が宿っていた。
「十年間、ドブの底に捨てていた至宝を奪い返しに来るとは……厚顔無恥にも程があるな、ガルディニアの無能共めが」
コンラートは壇上から立ち上がると、一段、また一段と、大理石の階段をゆっくりと降りてきた。
軍靴の重厚な音が、平伏する使者の耳元で死刑の鐘の如く響く。
「金貨一億枚だと? 十万の軍勢で我が国を焦土にするだと? ……ふん、笑わせてくれる。東部防壁を魔獣に破られ、公爵領を暴徒に焼かれ、帝都の城門前で自国の民に投石されているようなボロ雑巾の分際で、よくぞそこまで大言壮語を吐けたものだ」
コンラートは使者の目の前で立ち止まると、床に転がっていた最後通牒の羊皮紙を、軍靴の爪先で無造作に踏みつけた。
「ユースティスとかいう道化の皇太子に伝えておけ。我が帝国が欲するものは、貴様らの汚らわしい命乞いでも、紙屑同然の通貨でもない。――我が至宝ヴァレリアを害したすべての罪人どもの、首の皮一枚だ」
コンラートの背後で、安楽椅子に深く身を預けていたヴァレリアが、小さく喉を鳴らして笑った。
カチリ、と扇子が閉じられる。
彼女は足を組み替え、真紅のストールを肩から滑らせながら、平伏する使者へと、鈴を転がすような、だが絶対零度の声音を落とした。
「……結構ですわ」
ヴァレリアの紫紺の双眸が、月光の如く冷涼に輝く。
「哀れな道化が、自ら掘った底知れぬ墓穴へ向けて、わざわざ十万の軍勢を引き連れて飛び込んできてくださるのですもの。――盛大に、最高のおもてなしをして差し上げなくてはね」
その言葉に含まれた、底知れぬ悪意の深淵。
ヴァレリアは、第二皇女セシリアを自らの猟犬として送り返し(第32話、第33話)、愚鈍なユースティスの耳元に毒を注がせて、この無謀な宣戦布告へと誘導したのだ。
神殿を解体し、実家公爵家を自滅させた次なる一手――国家規模の軍事衝突という名の、自業自得の完全なる自殺劇。
「ヴァレリア様……! あのような羽虫の言葉、一秒たりとも耳に入れる必要はございません!」
マティアスが陶酔の笑みを浮かべて進み出る。
「今すぐこの使者の舌を引き抜き、神殿を冒涜した罪状を額に刻んで送り返しましょう!」
「僕がやるよ」
キリアンが無邪気に微笑み、ダガーの切っ先を使者の項へとピタリと当てた。
「耳と鼻を削ぎ落として、手紙と一緒に皇太子の枕元に届けてあげる。……ねえ、ヴァレリア様、いいでしょ?」
「お待ちなさい、キリアン」
ヴァレリアは優雅に手を挙げて少年を制した。
「使者の首を刎ねるなど、野蛮人のすることですわ。……この哀れな伝令には、無傷で祖国へ帰っていただかなくては。自分が持ち帰った返答が、いかなる破滅の引き金を引いたのかを、その目で最後まで見届けていただくためにね」
ヴァレリアの冷酷な慈悲に、キリアンは頬を染めて「仰せのままに」とナイフを引いた。
コンラートは不敵に笑うと、足元の羊皮紙を拾い上げた。
そして――使者の目の前で。
ビリッ、ビリビリッ!!
無造作に、力任せに、ユースティスの署名が入った最後通牒を八つ裂きに引き裂いたのだ。
紙屑が、使者の青ざめた顔面へとパラパラと降り注ぐ。
「――持ち帰れ、使者」
コンラートの冷徹な宣告が、大謁見の間に響き渡った。
「カイザーライヒ帝国皇帝コンラートの名において、ガルディニア帝国の要求をすべて破棄・拒絶する。……貴様らが一方的に仕掛けてきたこの戦、我が帝国は喜んで受けて立とう。即時開戦だ。十万の大軍とやらを率いて、竜骨山脈を越えてくるがいい。一兵残らず、我が帝国の肥やしに変えてくれる」
「ひ……ひぃぃぃぃぃっ!!」
使者は悲鳴を上げ、破片を拾い集める余裕すらなく、床を這うようにして後ずさった。
失禁の染みを床に残しながら、転がるようにして大謁見の間から逃げ出していく。
ドォォォォンッ!!
黒鉄の二重扉が重々しく閉ざされ、道化の使節団は完全に排除された。
***
静まり返った広間の中央で、女軍師ヒルデガルトが、細身の金縁眼鏡を指先で押し上げながら、音もなく壇上へと歩み寄ってきた。
その怜悧な美貌には、勝利を確信した参謀特有の、冷徹な微笑が湛えられていた。
「……完璧ですわ、ヴァレリア閣下」
ヒルデガルトは小脇に抱えていた黒革のバインダーを開き、卓上に広げられた大陸全土の情勢図を指し示した。
「ガルディニア側が、一方的に最後通牒を突きつけ、宣戦布告を行ったという動かぬ事実が、これによって大陸全土の大商工ギルド、並びに周辺諸国へと公式に伝達されます。……我がカイザーライヒ帝国には、侵略者に対する完全なる自衛防衛権、並びに道義的・法的大義名分が百パーセント成立いたしました」
国際金融の封鎖(第16話)に続き、国際法における大義名分の完全掌握。
ガルディニア帝国は、自ら「理不尽な侵略者」の仮面を被り、世界中を敵に回した状態で、破滅の進軍を開始することになるのだ。
「我が軍の黒甲軍団五万は、すでに国境要塞への展開を完了しております」
ヒルデガルトは細身の指揮棒を手に取り、国境の赤鷲平原のシンボルをカツンと叩いた。
「十万の敵軍は、東部公爵領の作物の全滅(第28話)により兵糧が尽き、キリアン殿の暗殺工作によって街道の井戸に微毒が仕込まれております。士気は最悪、疫病が蔓延する烏合の衆。……閣下、迎撃の布陣はいかがなさいますか? 包囲殲滅の陣を敷き、竜骨山脈の出口を火炎魔導砲で封鎖すれば、半日で敵本陣をすり潰すことが可能ですが」
軍事国家カイザーライヒの筆頭軍師が導き出した、完璧な迎撃作戦。
だが――。
「ふふ……」
安楽椅子の上で、ヴァレリアは扇子をパチンと鳴らし、優雅に首を横に振った。
「布陣など、不要よ。ヒルデガルト」
「……と、仰いますと?」
ヒルデガルトが怪訝そうに眉をひそめた。
ヴァレリアはゆっくりと立ち上がり、玉座の壇上の手すりへと歩み寄った。
真紅のストールが風に揺れ、彼女の紫紺の双眸が、遠く南東の空――哀れな十万の軍勢が進軍を開始するはずの地平線を見据える。
「なぜ、自らの手を汚す必要がありますの? 剣を抜くことすら、下品ですわ。……彼らは勝手に、自らの放った悪意とエゴによって、足元から腐り果てて自滅していくのですから」
ヴァレリアは振り返り、皇帝コンラート、そして配下の怪物たちを見渡して、極上に艶然と微笑んだ。
「迎撃の布陣など、すべて解きなさい。……貴方たちが準備すべきなのは、ただ一つ」
冷涼なる女帝の勅命が、大謁見の間に心地よく響き渡った。
「――赤鷲平原を見下ろす最も美しい丘の上に、最高級の白絹の天幕を張り、冷えた美酒と紅茶を用意なさい。……ただの『観劇』の準備をいたしましょう」




