第36話:玉座の落日と宣戦の狂気 〜倒れし老皇帝と、滅びの鐘を鳴らす道化の太刀〜
ガルディニア宮殿の最深部、歴代皇帝の私室である『紫金の間』は、重苦しい死の臭気と、安息香の甘ったるく煙る匂いに満たされていた。
厚手のビロードのカーテンは隙間なく閉ざされ、昼なお暗い寝所の中央には、天蓋から四方に絹の帳を垂らした巨大な寝台。
そのシーツの上に横たわっていたのは、ガルディニア帝国現皇帝――アウグスト・フォン・ガルディニアであった。
かつて大陸中原に威を唱え、冷徹な統治者として君臨していたはずの老皇帝の肉体は、見る影もなく干からびていた。
頬は削げ落ち、皮膚は土気色に変色し、呼吸をするたびに喉の奥からヒュー、ヒューと苦しげな喘鳴が漏れ出ている。
老齢であったことだけが原因ではない。
この数週間のうちに祖国を襲った、悪夢のような大災厄の連鎖――。
大聖堂が紅蓮の業火に包まれて崩壊し、最高司教ベネディクトが自らの呪詛に焼かれて消滅したこと(第19話、第21話)。
地下水路から噴き出す有毒な黒瘴気が帝都の貴族街すら蝕み、疫病と暴動が連日宮殿の城壁を揺るがしていること(第7話、第17話)。
東部国境の古代防壁『アイアン・ウォール』の結界が消失し、五万頭の古代魔獣が沃野へと雪崩れ込んだこと(第24話)。
そして、帝国の食糧の四割を支えていたアルトハイム公爵領が地下の呪詛泥流によって全滅し、実父ハインリヒが貴族院で発狂自白して公爵家が完全取り潰しとなったこと(第28話、第34話)。
それら天文学的な破滅の報告がもたらされるたび、老皇帝の心臓は激しい発作に見舞われ、吐血を繰り返していた。
そして今朝未明、帝都全域の銀行がカイザーライヒによる経済封鎖(第16話)によって連鎖倒産し、国家財政が完全に破綻したという凶報を聞いた瞬間――老皇帝は激しく血反吐をぶちまけ、意識を失って卒倒したのである。
「……だ、駄目です。脈が……魔力流が極限まで衰弱しております」
寝台の脇に控えていた宮廷侍医長が、震える手で聴診器具を外した。
「帝都を満たす黒瘴気が、陛下のお弱体化した肺腑を完全に侵食しております。……心苦しいですが、意識の回復は絶望的。いつ御命が尽きてもおかしくありません」
寝所を取り囲んでいた数名の重臣たちが、息を呑み、絶望に顔を見合わせた。
皇帝の退場。
国家が未曾有の国難に直面しているこの極限の局面に、帝国の舵取りを行うべき最高指導者が、完全に失われたのだ。
――そして。
その寝台の足元に立っていた男が、ゆっくりと顔を上げた。
「……そうか。父上は、もう目を覚まさぬのだな」
第一皇太子、ユースティス・フォン・ガルディニア。
その声音には、父親の危篤に対する哀悼の情など、塵芥ほども含まれていなかった。
あるのはただ、長い間待ち焦がれていた絶対の権力が、ついに自分の両手へと転がり込んできたことに対する――濁った歓喜の震え。
ユースティスの顔面の中央には、未だに分厚い白い包帯が幾重にも巻き付けられていた。
大階段の転落事故(第12話)で粉砕された鼻骨は、歪んだまま醜く癒着し、包帯の隙間からは黄色い膿と悪臭が漂っている。
腫れ上がった両目の周囲にはドス黒い鬱血が広がり、激痛を抑えるための阿片軟膏の影響で、血走った瞳孔は異様に拡大していた。
だが、その道化師の如き無残な顔のまま、ユースティスは豪奢な軍服の胸元を張り、重臣たちを見下ろして傲然と言い放った。
「ならば、これより先――皇太子たるこの私が、臨時最高権力者として全権を掌握する! 直ちに玉座の間へ朝議を招集せよ! 我が即位と、新秩序の確立を天下に布告するのだ!!」
***
ガルディニア宮殿の中心――『黄金の玉座の間』。
百本の白大理石の円柱が立ち並び、天井には歴代皇帝の武勲を描いた巨大なフレスコ画が広がるその広間に、残存する宮廷貴族、軍務官、将校たちが重苦しい面持ちで集結していた。
玉座への階段の最上段。
純金で鋳造された巨大な玉座へ、ドカリと腰を下ろしているのはユースティスであった。
父皇帝の代理として腰掛けたその姿は、包帯まみれの顔面と、狂気じみた獰猛な視線も相まって、威厳どころか玉座を冒涜する怪物のようにすら見えていた。
だが、朝議の広間を支配していたのは、新体制への祝福などでは断じてなかった。
軍務卿をはじめとする将軍たちが、脂汗を流しながら進言の列を作っていた。
「殿下! 即位の儀礼などを行っている場合ではございません!」
歴戦の老将軍が進み出て、床に膝をついた。
「東部防壁を突破した五万頭の古代魔獣(第24話)が、アルトハイム公爵領を蹂躙し、帝都の喉元であるアウグスト平原へと接近しております! さらに帝都内では、食糧価格の暴騰に怒った数万の市民が暴徒化し、宮殿の第一外郭門に火を放ちました! 即座に全軍を動員し、防衛体制を整えねば、我が国は今夜にでも滅亡いたします!!」
「そうだ、金だ!」
財務卿もまた、青ざめた顔で書類を掲げた。
「神殿の債権凍結と公爵家の破産(第34話)により、帝国国庫は完全に底をつきました! 近衛兵団への給与すら滞っており、兵の脱走が止まりません! 諸外国への支援要請、あるいはカイザーライヒへの講和使節を派遣しなければ――」
「黙れッ!! 騒ぐな、無能どもが!!」
ドガァンッ!!と、ユースティスは玉座の肘掛けを手にした黄金の笏で力任せに叩きつけた。
笏の先端が歪み、甲高い金属音が広間に木霊する。
「講和だと!? 隣国の田舎皇帝に、この私が頭を下げろと言うのか! 魔獣など堀に油を撒いて焼き払え! 愚民どもなど反逆者として一人残らず射殺せ! この私が玉座に就いたのだ、我が偉大なる采配に従えば、すべての問題など一瞬で解決するのだぁぁっ!!」
唾を撒き散らし、地団駄を踏んで喚き散らすユースティス。
第33話において、妹セシリアから「カイザーライヒは我が軍を恐れて籠城している」「お兄様こそが真の征服王」という甘美な毒を注ぎ込まれた男の脳髄は、肥大化した万能感と恐怖によって、完全に常軌を逸していた。
重臣たちが絶望的な沈黙に包まれた――その時であった。
「……殿下ぁっ……! ユースティス殿下ぁぁぁっ!!」
玉座の間の大扉を押し破るようにして、耳を劈く金切り声が響き渡った。
広間の視線が一斉に注がれる中、回廊から駆け込んできた人影に、居並ぶ諸侯たちは息を呑み、後ずさった。
現れたのは――新聖女マリアベル・ローランであった。
だが、その姿は、かつて社交界を熱狂させた可憐な聖処女の面影など、微塵も残っていなかった。
身に纏うのは、裾が汚れ、引き裂かれた純白のドレス。
自慢であった豊かな金色の巻き髪は、大聖堂前の爆破事故(第8話)で半分がチリチリに焼け焦げたまま乱雑に肩に散らばっている。
そして――何より周囲を戦慄させたのは、その顔面であった。
大階段の転落事故(第12話)による左頬の黒ずんだ打撲痕。
さらに、自室でヒステリーを起こして侍女エマを虐待した際(第18話)、跳ね返った高熱の香油と粗悪な美容軟膏によって肌全体が赤黒くただれ、痛々しい水泡が幾重にも潰れて黄色い浸出液を垂れ流していた。
その無残な爛れ顔を隠すように、包帯を顔半分に巻き付けた姿は、まるで墓場から這いずり出てきた怨霊のようであった。
「殿下ぁっ! お助けください、ユースティス殿下ぁっ!!」
マリアベルは諸侯を押し退け、階段を這い上がるようにしてユースティスの足元へとすがりついた。
骨ばった指先で皇太子のズボンの裾を鷲掴みにし、血走った瞳から涙と鼻水を撒き散らしながら絶叫する。
「外が……外の愚民どもが、私の命を狙っておりますの! 『偽聖女を出せ』『井戸に毒を撒いた人殺しを引き渡せ』と、下品な平民どもが私の離宮を取り囲んで投石をしてきますのよ! 侍女どもも全員逃げ出しました! このままでは、私が……神に選ばれしこの私が、あの薄汚い虫けらどもに殺されてしまいますわぁぁっ!!」
「マ、マリアベル……!?」
ユースティスはすがりついてきた女の異様な悪臭と醜悪な顔面に、思わず顔をしかめて身を引こうとした。
だが、マリアベルの狂乱は止まらなかった。
女はユースティスの膝を爪が食い込むほど強く握りしめ、その耳元へ向けて、狂気に満ちた妄執の言葉を喚き散らしたのだ。
「全部……全部、あの女のせいですわ! ヴァレリア・フォン・アルトハイム!!」
広間が凍りついた。
処刑谷の深淵へ突き落とされたはずの、元聖女の名。
「あのドブネズミめが、死に損なって隣国カイザーライヒへ逃げ延びたのです! あの女が、カイザーライヒの軍勢と結託して、我が国に呪いを撒き散らしているのですわ! 大聖堂が爆発したのも、瘴気が漏れ出たのも、私の顔に傷がついたのも……すべて、あの魔女が隣国の皇帝を使って仕掛けてきた、卑劣極まりない侵略工作に違いありませんことよ!!」
マリアベルは唾を撒き散らし、天を指差して狂い叫んだ。
「あいつらを滅ぼさなければ、私たちの命がありません! カイザーライヒを焦土に変え、あの魔女の首を切り落として晒し首にしなければ、我がガルディニアの平穏は戻りませんわ! 殿下、軍をお出しください! 今すぐ十万の全軍を出動させ、カイザーライヒを叩き潰してくださりませぇぇぇっ!!」
責任のすべてを、己の無能ではなく、追放したヴァレリアへと擦り付ける。
自作自演の毒殺詐術(第17話)が暴かれ、神殿が崩壊した現実から目を背け、ただ自らの保身と憎悪のためだけに戦争を叫ぶ偽聖女の断末魔。
ユースティスの包帯の奥の目が、激しく明滅した。
(カイザーライヒの陰謀……ヴァレリアの呪い……!)
その言葉は、劣等感と恐怖に苛まれる皇太子の歪んだプライドにとって、あまりにも都合の良い「敵」の姿であった。
そこへ――。
「――マリアベル様の仰る通りでございます、お兄様」
静寂を切り裂いて、澄み渡る鈴の音のように美しく、気品に満ちた声音が響き渡った。
諸侯たちが左右に道を開ける中、玉座への階段の前へと静かに歩み出てきたのは――第二皇女セシリアであった。
身に纏うのは、乱れ一つない純白のドレス。
胸元には、ヴァレリアから授けられた【神気の護符】を衣服の下に隠し(第33話)、その白磁の美貌には、神殿の聖母すら足元に及ばぬほどの、清廉で慈悲深い笑みが湛えられていた。
泥まみれのユースティスや、爛れ顔のマリアベルとは対照的な、完璧なる王族の威厳。
「セ、セシリア……!」
ユースティスが縋るような目を向けた。
セシリアは優雅に淑女の礼を執ると、兄の目を真っ直ぐに見つめ、甘く、冷徹極まる毒の言葉を重ねた。
「私も、先刻の国境偵察において、確たる証拠を掴んでまいりました。カイザーライヒ軍は、我が国の混乱を自らの好機と捉えながらも……我がガルディニアが誇る十万の精鋭軍の威容を恐れ、国境要塞の奥底でガタガタと震え上がっております」
セシリアは階段を一歩登り、諸侯たちを見回しながら、朗々たる声で演説を打った。
「我が帝国十万の大軍が、一斉に竜骨山脈を越えて進撃すれば、怯えきったカイザーライヒ軍など一撃の下に粉砕できます。隣国の皇帝コンラートを捕縛し、我が国の元凶たる魔女ヴァレリアの身柄を奪還し、諸外国へ我が帝国の不滅の武威を見せつける……! それこそが、国内の暴動を一瞬にして鎮圧し、失われた国威を完全に取り戻す、唯一無二の神算鬼謀にございます!」
セシリアはユースティスに向けて、狂信的なまでの敬愛の眼差しを捧げた。
「お兄様。父皇帝陛下が倒れられた今、この大陸の覇権を握るべき真の英雄は、貴方様をおいて他にはおられません。……今こそ、お兄様の偉大なる武名を大陸全土に轟かせる時ですわ!」
「お、おお……! おおおおっ!!」
ユースティスの脳内で、理性の最後の一線が完全に吹き飛んだ。
マリアベルのヒステリックな怨嗟。
そして、最も信頼する聡明な妹セシリアによる、完璧なる賛美と誘導。
臆病者ほど、追い詰められた時に自らの力を過信し、無謀な破滅へと突進する――ヴァレリアが予見した通りの心理の罠(第32話)が、皇太子の脳髄を完全に支配したのだ。
「殿下、お待ちください!」
軍務卿が血相を変えて階段へ駆け寄ろうとした。
「無謀です! 兵糧は尽き、東部には魔獣が迫り、兵の士気は最悪です! この状況で軍を外へ向けるなど、全軍を自殺させるに等しい狂気の沙汰ですぞ!!」
「黙れぇぇぇぇぇッ!!!!」
ズバァァァンッ!!
ユースティスは腰の儀礼用サーベルを一気に引き抜いた。
白刃が空を切り裂き、その切っ先が、諫言した老将軍の鼻先数ミリへと突きつけられる。
包帯の隙間から覗くユースティスの両目は、完全に血走り、狂気の炎が爛々と燃え盛っていた。
「我が威光を疑う者は、誰であろうと反逆罪としてこの場で斬首にする! 私はガルディニアの主権者だ! 神に選ばれし皇帝ユースティスであるぞ!!」
ユースティスは玉座の前に仁王立ちになり、抜刀した剣を天へと高く掲げた。
そして、玉座の間のステンドグラスをビリビリと震わせるほどの、狂乱の咆哮を轟かせたのである。
「――全軍に通達せよ!!」
広間に集まる百名の貴族たちが、息を呑んで硬直する。
「我が帝国を脅かす大罪人、魔女ヴァレリアの即時身柄引き渡し、並びに賠償金として金貨一億枚をカイザーライヒへ要求する! 要求が拒絶され次第、十万の帝国全軍を進発させ、カイザーライヒを焦土とすべし!!」
ユースティスは涎を撒き散らしながら、鬼のような形相で絶叫した。
「全軍出撃だ! 隣国の豚どもを踏み潰せ! 我が帝国軍の前に平伏せよぉぉぉぉぉっ!!」
「「「…………っ!!」」」
もはや、制止する言葉を持つ者は誰もいなかった。
諸侯たちは青ざめ、ただ呆然と、破滅の階段を自ら転がり落ちていく道化の姿を見つめるしかなかった。
隣では、マリアベルが顔面の火傷を歪めながら、勝ち誇った狂気の笑みを浮かべて手を叩いている。
そして――。
玉座への階段の途中で跪くセシリアは、深く頭を垂れながら、自らの唇の端を、冷酷無比な三日月形へと吊り上げていた。
(……ええ。よく決断なさいました、愚鈍なる兄上)
セシリアのドレスの胸元で、【神気の護符】が淡く紫紺の光を瞬かせた。
遠く離れたカイザーライヒの離宮『黒曜宮』で、ワイングラスを傾けながらこの茶番劇を見届けているはずの主――ヴァレリアへ向けて、確実なる破滅の狼煙が上がったことを告げる合図。
ゴオオオオオオオン……ッ!!
ゴオオオオオオオン……ッ!!
宮殿の時計塔から、重々しく、不吉な鐘の音が鳴り響き始めた。
帝都ルテティアの全土へ、そして崩壊寸前の帝国全土へと響き渡る、国家総動員の開戦を告げる鐘。
だが、その鈍い金属音は、戦勝のファンファーレなどでは断じてなかった。
千年の歴史を誇ったガルディニア帝国という国家が、自ら掘った底知れぬ巨大な墓穴へ向けて、全速力で飛び込んでいく――断末魔の弔鐘の音であった。




