↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/45

第35話:怪物の甘美な夜宴 〜膝枕の忠犬と、熱湯ポットに散る求愛者たち〜

秋の夜気は澄み渡り、迎賓離宮『黒曜宮』を包み込む原生林の木々は、月光を浴びて青白い銀の波のように静かに揺らめいていた。

二階の最奥、ヴァレリアの私室へと繋がるプライベートサロンは、外界の喧騒や戦火の気配を完全に遮断した、この世で最も豪奢にして甘美な静寂に満ちていた。


部屋の中央、白大理石の暖炉の中では、樹脂を豊富に含んだ最高級の香木がパチパチと心地よい爆ぜ音を立て、琥珀色の柔らかな炎を揺らしている。

先刻、女軍師ヒルデガルトが持参したガルディニア帝都の日刊新聞――実家アルトハイム公爵家の完全なる取り潰しと、実父ハインリヒの貴族院での発狂自白、そして次女クロティルデの廃人化を告げる号外(第34話)は、すでに暖炉の底で一握りの黒い灰へと変わり果てていた。

十年間、自らの血肉を売り払い、地下牢の冷たい石畳の上に縛り付け続けた強欲なる血族への、完全にして冷酷な報復の完了。


暖炉の前に置かれた、濃紺のベルベットを張った巨大な長椅子。

そこに、ヴァレリア・フォン・アルトハイムは優雅に身を横たえていた。


身に纏うのは、夜の帳を透かしたような漆黒の極薄シルクに、繊細な銀糸のレースを幾重にもあしらったナイトガウン。

胸元と肩口が惜しげもなく露わになったその装いは、彼女の白磁の肌の滑らかさと、触れれば熱を奪われそうなほどに完璧な肢体の曲線を、暖炉の火影の下で妖艶に浮かび上がらせていた。

艶やかに流れる黒髪は、背もたれから絨毯の上へとさらさらと零れ落ち、紫紺の双眸は、手にした薄いクリスタルグラスの中で揺れる柘榴色の果実水を、退屈そうに見つめている。


十年間、大地の呪詛と毒を吸い続け、深淵の底で【因果の天秤(カルマ・イーター)】に覚醒した女帝。

最高司教を灰に変え、公爵家を跡形もなく解体し、祖国の皇女を自らの猟犬として飼い慣らした(第32話)その相貌には、激しい復讐を成し遂げた者特有の疲労や高揚感など、欠片も見当たらなかった。

あるのはただ――退屈なチェスの駒をいくつか片付け終えた貴婦人のような、底知れぬ静謐と、絶対の余裕。


――だが。

その静謐を、この離宮に巣食う「怪物たち」が黙って見過ごすはずがなかった。


サァッ……と。

絨毯の上に落ちていた長椅子の影が、水面のように不自然に波打った。


音もなく、煙のようにその影から這いずり出てきたのは、銀髪碧眼の少年――暗殺ギルド『影の旅団』の頭領、キリアンであった。


昼間、公爵邸を包囲した数万の飢民の背後で、私設騎士団の軍馬の腱を切り、武器庫と兵糧庫を完璧に爆破した(第29話)恐るべき暗殺者。

だが、今の彼の姿には、敵の喉笛を掻っ切る冷酷な死神の気配など微塵も残っていなかった。

血飛沫の一つすら完璧に洗い流された白い肌、風呂上がり特有の微かな石鹸の香り、そして何より――ヴァレリアを見上げるその瞳は、まるで何日も待ち焦がれた飼い主の足元に駆け寄った、純真無垢な子犬そのものであった。


「……ヴァレリア様」


キリアンは絨毯の上に両膝をつき、長椅子に横たわるヴァレリアの太もものすぐ脇へ、音もなくすり寄った。

少年は、自分の両手を祈るようにヴァレリアの膝の端へと置き、その上に、自らの柔らかい銀髪の頭をそっと乗せたのだ。

甘えるような、無防備極まる膝枕の要求。


「公爵領から逃げ出そうとしていた残党……悪徳代官や私設騎士の生き残り、全部、僕の手で片付けてきましたよ。逃げ道になりそうな裏山の間道も、川の渡し舟も、全部塞いであげました」


キリアンは頬をヴァレリアの薄いシルクのガウンにすり寄せ、蕩けるような甘い吐息を漏らした。

その声音は、幼い子供が今日あった楽しい出来事を母親に報告するかのように、あまりにも無邪気で、だからこそ狂気に満ちていた。


「あの強欲な豚たち、命乞いしながら泣き叫んでいました。『金をやるから見逃してくれ』って。……だからね、ヴァレリア様を十年間裏切り続けた罪の重さと同じ分だけ、小指から一本ずつ、骨を削ぎ落としてあげたんです。最後はみんな、ヴァレリア様の名前を叫びながら死んでいきましたよ」


キリアンは顔を少し上げ、潤んだ碧眼で、物欲しそうにヴァレリアを見つめた。


「……僕、いい子でしたか? お役に立てましたか? ……ねえ、頭を撫でてください、ヴァレリア様。貴女のその冷たくて綺麗な手で、僕を褒めてください……」


喉を鳴らすような甘え声。

世界中の裏社会がその名を聞いただけで震え上がる凶悪な暗殺者が、ただ一人の女性の指先の温もりを乞うて、床の上で悶えている。


ヴァレリアは、手元のグラスを軽く揺らしたまま、視線をわずかに下げた。

そして、空いた左手の白磁の指先を、少年の柔らかな銀髪の上へと、そっと落とした。


さらり、と。

指先が髪を梳き、耳の後ろを優しく撫でる。


「……ええ、よくやってくれたわ、キリアン。お前は本当に、私の言いつけを忠実に守る、利口で可愛い猟犬ね」


「あぁ……っ、ん……!」


ヴァレリアの冷涼な指先が触れた瞬間、キリアンの喉から、快楽に撃ち抜かれたような熱い吐息が零れ落ちた。

少年は瞳をトロンと蕩けさせ、ヴァレリアの膝の上にすっぽりと顔を埋め、まるで極上の麻薬を与えられたかのように、全身を歓喜の震えで満たした。


――だが。

その甘美な主従の光景を、許すはずのない「人外」が、すぐ背後に控えていた。


――チチチチチ……ッ!!


サロンの室温が、一瞬にして数十度も跳ね上がった。

大気中の酸素が焼き焦げる、ジリジリとした異臭。

長椅子の背後――暖炉の火影を完全に呑み込むほどの、巨大な漆黒の影が立ち上がったのだ。


「……調子に乗るなよ、路地裏の羽虫風情が」


空間を震わせる、地を這うような重低音。

そこに立っていたのは、原初の魔王ヴォルフラムであった。


黒銀の長髪を怒りに逆立たせ、金色の双眸を縦スリットの獣の瞳へと変貌させた魔王は、漆黒の燕尾服の胸元を激しい息で波打たせていた。

彼の背中から伸びた黒炎の影は、まるで無数の触手のように広がり、キリアンの細い首元を今すぐにでも引き裂かんばかりに蠢いている。


「我が神の柔らかな御膝の上に、その汚らわしい頭を乗せるなど……万死に値する不敬! 貴様のその薄汚い首を根元からねじ切り、深淵の蛆虫の餌に変えてやろうか!!」


キリアンはヴァレリアの膝に頭を乗せたまま、碧眼だけをスッと冷酷に細め、背後の魔王を一瞥した。

少年はダガーの柄に指をかけ、嘲笑うように唇の端を吊り上げる。


「うるさいな、トカゲの化石。……ヴァレリア様が僕を撫でてくださっているんだよ。邪魔をするなら、その金色の目玉を両方とも抉り出して、ヴァレリア様の新しいイヤリングに加工してあげる」


「貴様ァッ……!!」


ヴォルフラムの全身から、数千度の黒炎がボッと噴き上がった。

だが、魔王はキリアンを焼き殺すよりも早く、長椅子の背もたれ越しに身を乗り出し、ヴァレリアの艶やかな肩口を包み込むように、自らの巨大な影の外套を広げたのだ。

人外特有の圧倒的な質量と熱量が、ヴァレリアの背後から覆い被さる。


「我が主……我が唯一の至高の神よ」


ヴォルフラムの声音は、先ほどまでの激昂から一転し、狂おしいまでの熱情と懇願に濡れていた。

彼は黒銀の髪をヴァレリアの首筋へと寄せ、自らの金色の双眸を、すがるように彼女の横顔へと向けた。


「このような下等な人間の子供の相手など、もうおやめください。……今夜は、我が背に乗って、深淵の夜風を浴びに参りましょう。竜の姿となり、星の海の果てまで貴女をお連れいたします。あの腐りきったガルディニアの地など、我が黒炎で一息に焼き払い、貴女のためだけの新しい世界を創り出してご覧に入れます……! 我が背に……どうか、我の胸の中にお越しください……!」


世界を滅ぼす魔王が、ただ一人の人間の女性に抱きしめられたい一心で、熱病に冒されたように甘い毒の言葉を耳元に囁き続ける。

キリアンの冷たい執着と、ヴォルフラムの灼熱の狂愛。

二つの真逆の質量がヴァレリアの身体を挟み込み、サロンの大理石の床にピシピシと亀裂が走り始めた――その時であった。


ガギィィィィンッッ!!


硬質な金属の衝突音が、サロンの空気を真っ二つに切り裂いた。


「ぎゃっ!?」

ヴォルフラムが短く呻き、背後へと身を引いた。

ヴァレリアの肩を抱こうとしていた魔王の影の触手が、一振りの重厚な鞘によって、力任せに叩き払われたのだ。


「――我が帝国の至宝に、気安く触れるなと言ったはずだぞ。古代のトカゲが」


傲然たる覇王の足音と共に、サロンの入り口から大股で歩み寄ってきた男がいた。

カイザーライヒ帝国皇帝――コンラート。


黒髪短髪、歴戦の傷跡を刻んだ彫刻のような美貌に、冷徹な不敵の笑みを湛えた男。

彼は古代魔剣の鞘を肩に担ぎ、空いた左手には――氷で冷やされた銀のバケツと、その中に収められた深紅のボトルをぶら下げていた。

カイザーライヒ皇室の地下深奥、皇帝専用の秘蔵庫から持ち出された、樹齢数百年の神聖樹の果実から醸造された伝説の果実酒『緋天の雫』。


コンラートは長椅子のすぐ前に立ち塞がると、床に座り込むキリアンを邪魔そうに軍靴の先で小突き、背後のヴォルフラムを鋭い眼光で威圧した。


「夜風を浴びて星の海に行くだと? 笑わせるな、人外の寝言が。……そんな寒々しい暗闇に連れ出さずとも、この帝国にある富と栄華のすべてが、すでにヴァレリアのものだ」


コンラートは銀のバケツからボトルを引き抜くと、優雅に栓を抜き、テーブルの上に置かれていた空のグラスへと、ルビーのように透き通る果実酒を並々と注いだ。

立ち上るのは、甘美なベリーとスパイス、そして微かな魔導の香気。


男は長椅子の肘掛けに堂々と片手を突き、ヴァレリアの顔を真正面から覗き込んだ。

その距離、わずか数十センチ。

歴戦の覇王が放つ濃密な男の気配が、ヴァレリアの肌をチリリと刺激する。


「ヴァレリア。君のために、大陸最高の料理人と、宮廷専属の第一級弦楽四重奏団を黒曜宮へ呼び寄せた。今夜は俺の隣で、この至高の酒を味わいながら、夜明けまで語り合おう。……ガルディニアをどう解体するか、その先の新しい世界をどう統べるか、君の描く盤面のすべてを、俺に聞かせてほしい」


コンラートは身を屈め、ヴァレリアの手の甲を自らの唇へと引き寄せようとした。

帝国の主権を半分譲り渡すことすら厭わぬ(第22話)、覇王としての全身全霊の口説き文句。


「どいつもこいつも……我が主に気安く触るなと、何度言えば理解するのだ、人間どもがァッ!!」

ヴォルフラムが吠え、黒炎が牙を剥く。


「皇帝だからって調子に乗らないでよ。……今すぐその腕を切り落として、ワインの漬物にしようか?」

キリアンが膝枕から顔を上げ、冷たい碧眼でダガーの切っ先をコンラートの太ももへと突きつける。


「ほう、やってみるか? 我が帝国軍の全戦力をもって、貴様らを一人残らずすり潰してやってもいいのだぞ」

コンラートが魔剣の柄に手をかけ、獰猛に口角を吊り上げる。


――至近距離で炸裂する、世界最高峰の三つの殺気。

魔王の黒炎、暗殺者の毒刃、そして皇帝の絶対覇気。

サロンの窓ガラスがビリビリと激しく振動し、調度品が悲鳴を上げ、いつ大爆発が起きてもおかしくない一触即発の修羅場。


――だが。

その三人の狂乱のさらに斜め後方、サロンの最も暗い片隅において。

常軌を逸した「もう一つの異様な狂気」が、静かに、だが確実に空間を侵食していた。


「……ああ、神よ。……我が唯一の、至高の女神ヴァレリア様……」


ヒソヒソ、と。

呪詛のように、あるいは熱病の譫言のように紡ぎ出される、湿り気のある祈りの声。


部屋の隅、月の光が差し込む大理石の壁の前。

そこに、漆黒の聖職服を着崩した青年――元神殿筆頭司教マティアスが、床に両膝をついて跪いていた。


マティアスの正面の壁には、彼自身が帝都の一流画師を脅迫して描かせたという、巨大な絵画が掲げられていた。

等身大のヴァレリアが、深淵の玉座に座り、冷酷な微笑みを浮かべる姿を描いた『生ける女神の顕現図』。

マティアスはその絵画の足元に、神殿から略奪してきた無数の純白の蝋燭を灯し、自らの額を床に擦り付けながら、恍惚とした表情で両手を組み、祈祷を捧げていたのだ。


「貴女の御足が踏み躙る大地こそが、我が聖域……。貴女が吐き捨てる冷たい嘲笑こそが、我が魂を浄化する真なる福音……。ああ、なんと神々しく、なんと残酷で、美しい御姿か……」


マティアスは懐から、自らの血で音符を書き殴った羊皮紙の束――【新世界創世讃美歌】の第十二楽章を取り出すと、震える唇でそれに口づけを落とした。

そして、争い合う三人の男たちの方を、憐れむような冷ややかな目でチラリと一瞥した。


「哀れな獣どもめ……。神を肉欲で汚そうなどという浅ましい俗情に塗れおって。……ヴァレリア様は、崇め奉り、己の全財産と全存在を捧げて跪くべき絶対神。神に侍る資格があるのは、この私の純粋なる背徳の信仰だけだというのに……」


「「「貴様が一番気色悪いんだよ、この狂信者がァァッ!!!!」」」


ドォォォォォォンッ!!


ヴォルフラム、コンラート、キリアンの三人の怒声が、完璧に一致して炸裂した。

黒炎の弾丸、魔導の斬撃、そして投擲ダガーが、同時にマティアスの足元の床目掛けて撃ち込まれ、大理石が砕け散る。

だが、マティアスは微塵も動じることなく、聖画を自らの身体で庇いながら、陶酔した笑みを浮かべて経典を掲げ直した。


魔王、皇帝、暗殺者、そして元司教。

四つの尖りきった矢印が交錯し、サロン全体が神話級の大戦争の前哨戦へと突入せんとした――まさにその刹那であった。


カツ……カツ……カツ……。


サロンの開け放たれた大扉の向こうから、正確無比なリズムを刻む、冷徹極まる足音が近づいてきた。


その足音が耳に届いた瞬間。

ビクゥゥッ!!と、四人の怪物の背筋が、示し合わせたかのように同時に跳ね上がった。


現れたのは――筆頭侍女長グレーテであった。


濃紺の侍女服に乱れ一つなく、エプロンの紐を完璧に結び、陶器の仮面のように一切の感情を削ぎ落とした美貌。

だが――その手には、湯気をもうもうと噴き上げる、純銀製の巨大なティーポットが握られていた。

それも、今まさに直火で沸騰させたばかりの、触れれば骨まで火傷を負うであろう百度の熱湯が、並々と注ぎ込まれたポット。


グレーテはサロンの中央――長椅子の周囲で絡み合う男たちの足元まで、音もなく歩み寄った。

そして。


ドガァンッッ!!


「「「「ひっ……!?」」」」


男たちの足先から、わずか数ミリの絨毯の上目掛けて、沸騰するティーポットの底面を容赦なく叩きつけたのだ。

ジュウウウッ!と絨毯が微かに焦げ、熱湯の飛沫が数滴跳ね飛んで、コンラートの軍靴とヴォルフラムの爪、キリアンの指先をチリチリと炙る。


グレーテは、氷点下の絶対零度の眼差しを男たちへと向け、抑揚のない平坦な声音で、事務的に宣告した。


「――夜の十時を回りました」


男たちが凍りつく。


「我が主は、今日一日、愚鈍な実家の始末と新聞の確認によって、大変にお疲れでございます。これより、安らかな就寝のお時間に入られます」


グレーテはエプロンから銀の懐中時計を取り出してパチンと鳴らし、男たちを一人ずつ、ゴミ箱の中身を見るような視線で射抜いた。


「騒音を撒き散らす害獣、火災の危険がある発熱体、職権濫用の夜這い未遂者、そして部屋の隅で異臭を放つ宗教的汚物。……我が主の睡眠を妨げる羽虫どもは、どなたであれ、今すぐこの熱湯を浴びせて解体いたしますが。――全員、這い出ていただけますか?」


シーン……。


サロンに、完全なる沈黙が降りた。

世界を滅ぼす魔王も、大陸の覇王も、裏社会の頂点も、神殿の最高司教すらも、一言の反論すら口から出せなかった。

ヴァレリアの専属侍女長であり、彼女の身の回りのすべてを司るグレーテの機嫌を損ねれば、二度とヴァレリアのサロンへ入室する許可すら得られなくなることを、四人は痛いほど理解していたからだ。


「……ちっ」

キリアンが舌打ちし、ヴァレリアの膝から名残惜しそうに身を離して影の中へと沈んでいく。


「……ふん。我が主、明日の夜こそは、貴女を星の海へお連れいたしますぞ」

ヴォルフラムは捨て台詞を吐きながら、不満そうに黒炎を消して窓の外の虚空へと消え去った。


「……ヴァレリア。酒は置いていく。明日の朝、君の美しい目覚めを楽しみにしているぞ」

コンラートは咳払いを一つし、皇帝としての威厳を取り繕いながら、足早にサロンを退出していった。


「我が女神よ……夢の中で、貴女に祈りを捧げ続けます……」

マティアスは聖画を大切そうに抱え込み、グレーテの構える熱湯ポットに怯えながら、カサカサと蜘蛛のように回廊へと這い出ていった。


バタンッ!!

重厚な大扉が、グレーテの手によって容赦なく閉ざされ、内側から厳重に鍵が掛けられた。


嵐が去った後のような、心地よい静寂が、再びサロンを満たした。


「…………」


グレーテは何事もなかったかのようにポットをワゴンに戻すと、長椅子の脇へと歩み寄り、深々と頭を下げた。


「お見苦しいところをお見せいたしました、我が主。……害虫の駆除、完了いたしました」


「ふふ……ご苦労様、グレーテ」


長椅子の上で、ヴァレリアは小さく喉を鳴らして笑った。

彼女は差し出された安眠用のカモミールティーのカップを受け取り、上品に一口、喉を潤した。

男たちのあまりにも過剰で、重苦しすぎる矢印の応酬。

だが、その騒がしい茶番劇すら、地下牢で十年間味わった孤独と激痛に比べれば、程よい退屈しのぎの余興に過ぎなかった。


ヴァレリアは長椅子から立ち上がると、寝室へと続く扉の前で足を止めた。

窓の外――南東の夜空。

遠く離れた祖国ガルディニアの宮殿の方角を見据え、その紫紺の双眸を、冷酷に細める。


セシリアが宮殿へ戻り、愚鈍な兄ユースティスの耳元に甘美な毒を注ぎ込んだ(第33話)。

公爵家は崩壊し、神殿は消滅し、東部防壁は破られた。

追いつめられた道化たちが、自ら破滅の進軍へと飛び込んでくる時は――もう、目前に迫っていた。


「……さて」


ヴァレリアは艶やかな唇を綻ばせ、夜の闇へと囁いた。


「明日からは、いよいよ最後の仕上げね」


絶対の女帝の冷涼な言葉と共に、黒曜宮の甘美な夜は、静かに更けていったのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。