第34話:公爵の狂乱法廷 〜暴かれた五千万枚の横領と、自爆せし血族の断末魔〜
ガルディニア帝都ルテティアの西高台にそびえる『帝国最高貴族院』の大議場は、建国以来、帝国の富と血統の頂点に君臨する大貴族たちが天下の法を定めてきた、権威の神殿であった。
天頂を支えるのは、金箔を施された十二本の白亜の大理石柱。すり鉢状に広がる円形劇場型の議場には、帝国全土から集まった百名を越える選り抜きの諸侯たちが、緋色や濃紺の豪奢なベルベットの式服を纏い、威儀を正して着席している。
だが、普段であれば厳粛な静寂と優雅な論戦が交わされるはずのその大空間は今、異様な重苦しさと、外から吹き込んでくる有毒な黒瘴気の微かな臭気によって、濁りきった水底のように澱んでいた。
大聖堂は炎上して灰燼に帰し(第19話)、最高司教ベネディクトは自らの放った呪詛に焼かれて公衆の面前で消滅(第21話)。帝都の地下水路からはドブ色の有毒ガスが絶え間なく噴き上がり、市民たちの暴動と略奪の足音が、防壁越しに昼夜を問わず地鳴りのように響いている。
帝国の崩壊を告げる不可逆の破滅の足音に、諸侯たちの顔には隠しきれない焦燥と陰鬱な影が落ちていた。
――その大議場の中央。
すり鉢の底に位置する、被告や証人が立つための大理石の演壇へ向けて、一人の男がよろめきながら這い出てきた。
「あ……あぁ……っ、諸侯の皆様! 我が声を聞いていただきたい! このアルトハイム公爵ハインリヒの訴えをぉぉっ!!」
悲鳴のような掠れた叫び声が、議場に木霊した。
そのあまりに無残で、あまりに醜悪な姿に、議席に座る貴族たちの間から、息を呑む音と失笑のざわめきが波のように広がった。
アルトハイム公爵ハインリヒ。
数日前まで、帝国第一の穀倉地帯を統べ、長女を聖女として神殿へ差し出した見返りに天文学的な利権を貪り、貴族院の首魁として傲然とふんぞり返っていた男。
だが、今その演壇に立っているのは、帝都の路地裏を這い回る物乞いですら見向きもしないような、哀れな敗残兵の亡霊であった。
身に纏うのは、煤と泥に汚れ果て、裾がボロボロに引き裂かれた毛皮の外套。
領地を覆った飢民たちの暴動(第29話)から命からがら逃げ出す際、裏門のドブ川を這いずり回った名残の汚水が乾燥し、体中から饐えた悪臭を放っている。
折れた肋骨を庇うように猫背に身を屈め、脂汗でテカテカと光る贅肉のたるんだ顔面には、擦り傷と泥が幾重にもこびりついていた。
何より――彼の手首や指先には、かつてあれほど自慢げに誇示していた大粒の宝石や家宝の宝剣の姿は、一つとして存在しなかった。
自室の金庫室に閉じこもっていたところを、暴徒と化した数万の領民に扉を破られ、文字通り身ぐるみ剥がされ、財宝を奪われ、着の身着のままで帝都へと逃げ帰ってきたのだ。
「公爵邸が……我が先祖代々の館が、暴徒どもの手によって焼き払われました!」
ハインリヒは演壇の手すりに血の滲む指先でしがみつき、唾を撒き散らしながら絶叫した。
「我が愛娘クロティルデは、暴徒の呪いによって両腕を炭化させられ、魔力回路を焼き切られて廃人と化しました! 私設騎士団は武器を奪われて敗走し、我が領地の富のすべてが略奪されたのです! これは帝国に対する明らかな反逆! 国家反乱罪でございます!!」
ハインリヒは血走った目を剥き出しにし、議長席へとすがりつくように両手を広げた。
「直ちに国家予算より金貨一千万枚の緊急復興支援金を支出し、公爵家の領地救済を行っていただきたい! さらに、近衛兵団および宮廷魔導軍団の全戦力を出動させ、我が領地を不法占拠している愚民どもを一人残らず殲滅し、首を刎ねることを要求いたします!!」
演壇の上で地団駄を踏み、自らの被害を喚き散らすハインリヒ。
かつての威厳を取り戻そうと、声の限りに怒号を張り上げる。
――しかし。
議場から返ってきたのは、賛同の声でも、同情の言葉でもなかった。
シーン……と。
百名を超える大貴族たちの間を通り抜けたのは、冬の吹雪よりも冷たく、凍てつくような完全なる沈黙であった。
「……何をしているのだ、諸侯の皆様!?」
ハインリヒが怪訝そうに眉をひそめ、首を回した。
「なぜ何も言わん!? アルトハイム公爵家の危機は、帝国の穀倉地帯の危機なのだぞ! 私を救うことは、帝国の食糧供給を救うことと同義であると、分からぬはずがあるまい!!」
「――見苦しいぞ、ハインリヒ」
議場の最上段、一段高く設けられた黒檀の議長席から、冷徹極まる老人の声が下された。
貴族院議長、モルテール伯爵。
白髪を厳格に撫で付けた老貴族は、眼鏡の奥の氷のような眼差しで、演壇の上の汚物を見下ろしていた。
「諸侯の救済を叫ぶ前に……貴殿には、まず釈明していただかねばならぬ案件が山積しておる」
「しゃ、釈明だと……? 何をだ!? 被害者であるこの私が、なぜ釈明など――」
バサァァァァンッ!!
議長の手によって、卓上に積まれていた分厚い書類の束が、演壇の足元目掛けて無慈悲に投げ落とされた。
何十枚、何百枚もの羊皮紙が、ハインリヒの泥まみれの靴先へと散らばる。
「な……これは……!?」
ハインリヒの息が、喉の奥で詰まった。
紙面に並んでいたのは、鮮明なインクで複写された、ガルディニア大聖堂の最高機密刻印。
そして――彼が過去十年にわたり、最高司教ベネディクトと交わしてきた、裏金と買収の全取引記録。
「大聖堂の出奔者マティアス元司教が帝都中にばら撒いた『神殿の裏帳簿』(第14話、第17話)の原本写しだ」
モルテール議長の冷涼な声が、議場の石壁に反響する。
「さらに、カイザーライヒ帝国が主導する国際金融封鎖に伴い、諸外国の大銀行から我が貴族院へ突きつけられた債権目録……。そこには、貴殿が十年間、大聖堂から毎年受け取っていた金貨五十万枚の『聖女供出裏補助金』の全額、並びに、東部沃野の免税特権を悪用して貴殿が懐へネコババしていた、天文学的な脱税の証拠が克明に記されていた」
「ひっ……!?」
ハインリヒの贅肉が、目に見えてブルブルと震え始めた。
「貴殿は、長女ヴァレリア嬢を生贄として地下牢へ売り飛ばした見返りに、神殿と帝室の補助金を私腹へと注ぎ込み、東部沃野の作物を担保にして諸外国の商人から巨額の借財を重ねていた。……そして今、その作物は地下の呪詛によって全滅した(第28話)」
議長は立ち上がり、手にした告発状を高く掲げた。
「神殿の債権破綻、穀物の先物取引の債務不履行、そして十年分の脱税追徴金……。アルトハイム公爵家が帝国および諸外国の債権者に対して生じさせた直接の国家損失は――実に、金貨五千万枚に達する!!」
「ご、ごせ……五千万枚……っ!?」
ハインリヒの視界が、真っ暗に明滅した。
一国の国家予算の数倍に匹敵する、途方もない天文学的数字。
その瞬間、議場を取り囲んでいた諸侯たちの怒りが、一気に沸騰した。
『泥棒めが! 俺たちが神殿に投資していた債権の金を、全部貴様が懐に入れていたのか!』
『我が商会が公爵領の麦に支払った前払い金、金貨三百万枚を今すぐ返せ!!』
『娘を売り飛ばして私腹を肥やしていた豚野郎め! 恥を知れ!!』
『反逆者はお前だ! 首を吊れ、ハインリヒ!!』
怒号。罵声。嘲笑。
議席に座る貴族たちもまた、神殿の金融破綻によって莫大な資産を焦げ付かせた債権者たちであった。
かつてハインリヒの前に揉み手をして群がっていた貴族たちが、今や飢えた狼のように歯を剥き出しにし、一斉に彼へと罵声を浴びせかける。
「違う……違う、私は騙されたのだ! すべてベネディクトが、あの最高司教が仕組んだことで――」
ハインリヒは必死に手を振って弁明しようとした。
だが、その声は木槌の重い連打にかき消された。
ガガンッ! ガガンッ!!
「静粛に!!」
モルテール議長の厳しい一喝が、議場の怒号を制圧した。
議長は冷酷な眼差しで、演壇の上のハインリヒを見据え、羊皮紙の判決文を広げた。
「アルトハイム公爵ハインリヒ。貴殿の犯した横領、脱税、国家反逆の罪状は動かぬ事実。貴族院の全会一致をもって、以下の処分を即刻言い渡す」
息を呑む静寂。
「――アルトハイム公爵位の即時剥奪。並びに、公爵家が保有する全領地、全鉱山、全不動産、および動産の完全なる国家没収!!」
「な……」
「さらに、五千万枚の負債を補填するため、一族の全私財を差し押さえとし、貴殿並びに一族全員の貴族籍を永久に抹消する!!」
「な……な、何だとぉぉぉっ!?」
ハインリヒの喉から、人間の発するものとは思えない絶叫が迸った。
爵位剥奪。全財産没収。お家取り潰し。
千年間、帝国の頂点に君臨してきた名門アルトハイム家の歴史が、今、この瞬間に完全に終わりを告げたのだ。
「待て! 待ってくれ! 没収など正気か!? 全財産を奪われたら、私は……我が家はどうやって生きていけばいいのだ!!」
「知ったことか」
最前列の伯爵が冷ややかに吐き捨てた。
「泥水を啜って路地裏で野垂れ死ぬがいい。……かつて貴様が、自らの長女に強いたようにな!」
ドォォォォンッ!!
その言葉が、ハインリヒの脳髄に直撃した瞬間――。
カチリ。
世界のどこにも存在しないはずの、重厚な金属音が、ハインリヒの頭蓋骨の内側で鳴り響いた。
深淵の底で覚醒した、あの絶対の天秤の軋み音。
――原初固有能力【因果の天秤】。
――第二原則【因果の絶対反跳】、血脈連座精神汚染コード、臨界突破。
(あ…………?)
ハインリヒの視界が、真っ赤に染まった。
逃げ場を失い、全財産を奪われ、社会的に完全に抹殺されたことによる極限の絶望。
その心の隙間へと、十年間、彼がヴァレリアに対して向け続けてきた「加害の意志」「嘲笑」「搾取の悪意」の総質量が――五倍の質量となって、脳の神経細胞へと一気に逆流したのだ。
ズキィィィィィィンッッ!!
頭蓋骨の内側で、沸騰した油を流し込まれたかのような凄まじい激痛。
脳血管がプツプツと音を立てて切れ、理性という名の防壁が、内側から完全に粉微塵に叩き割られていく。
「ぎ……ぎぎっ、あ、あばばばばばっ!?」
ハインリヒは自らの頭を両手で抱え込み、演壇の大理石の上に膝から崩れ落ちた。
口の端から、ドロリとした濁った涎が滝のように流れ落ち、白目が血走って毛細血管が真っ赤に破裂する。
止められない。
自らの口が、舌が、喉が――己が犯してきた大罪のすべてを、世界へ向けて絶叫せずにはいられないという、絶対の因果の強制告白。
「ひ、ハインリヒ殿……? どうしたのだ!?」
異様な様子に、周囲の貴族たちがざわめき、後ずさる。
その静まり返った議場の中央で、ハインリヒはガバッと顔を上げた。
その表情には、もはや人間の知性など欠片も残っていなかった。
涎を撒き散らし、顔面を歪め、狂気の笑みを浮かべながら、男は議場を取り囲む百名の諸侯へ向けて、喉が裂けんばかりの絶叫を叩きつけたのだ。
「違うぅぅぅっ!! 私は悪くない! 私は一欠片も悪くないぞぉぉぉっ!!」
耳を劈く金切り声。
「全部あの女のせいだ! 全部あのドブネズミ……ヴァレリアのせいなのだぁぁっ!!」
議場が凍りついた。
かつて処刑されたはずの、追放された聖女の名。
「あいつが……あいつが生贄の分際で、勝手に死に損なって逃げ延びたからだ! 十年間、地下牢で黙って呪詛を吸い続けていればよかったのだ! 毎日毎日、冷たい石畳の上で殴りつけ、飢えさせ、血を抜いて魔導炉へ捧げさせていたのは、すべてこの国のためだ! すべて我がアルトハイム公爵家のためなのだぁぁっ!!」
「な……何だと……!?」
諸侯たちの顔が、驚愕と嫌悪に歪む。
だが、ハインリヒの狂乱の自白は止まらなかった。
男は自らの胸ぐらを引き裂き、泥まみれの皮膚を爪で掻きむしりながら、十年間隠蔽し続けてきた虐待の全貌を、嬉々として絶叫し続けた。
「あいつの母の形見を奪ったのも私だ! 泣いてすがるあいつの手首から腕輪を引き剥がし、地下牢へ蹴り落としてやったのだ! 親が! 親が自分の娘の肉を売って何が悪い!! 娘の血を吸い上げて金貨に変えて何が悪いのだぁぁっ!! あいつは我が家の所有物だ! 私の道具だ! 私の金なのだぁぁぁぁっ!!」
涎と泡を吹き散らし、目を剥いて踊り狂うハインリヒ。
公衆の面前。
帝国最高貴族院の大議場という、国家の最高権威の場において。
自らの娘を生贄として売り飛ばし、十年間にわたり虐待し、その血肉で私腹を肥やしていた全貌を――父親自らが、狂乱の笑顔で叫び尽くしたのだ。
「…………」
議場を支配したのは、もはや怒りすら通り越した、完全なる戦慄と嫌悪であった。
誰もが、演壇の上でのたうち回るその怪物を、汚らわしい害虫を見るような冷酷な視線で見つめていた。
言い逃れなど、一片も存在しない。
これ以上ないほどに明白な、魂の腐敗の露呈。
「衛兵ッ!!」
モルテール議長の、怒りに震える怒号が響き渡った。
「衛兵を呼べ! その薄汚い狂人を、今すぐ神聖なる演壇から引きずり降ろせ!!」
「ははっ!!」
議場の扉が蹴破られ、屈強な近衛兵たちが十数名、演壇へと雪崩れ込んだ。
兵士たちはハインリヒの贅肉のついた腕を背中にねじ上げ、顔面を容赦なく大理石の冷たい床へと叩きつけた。
グシャッ!!
「ぐほっ……!? 離せ! 無礼者、私はアルトハイム公爵だぞ! 皇帝の親族だぞぉぉっ!」
「黙れ、大罪人めが!」
近衛兵の硬質な軍靴が、ハインリヒの口元を無慈悲に踏み砕いた。
前歯がへし折れ、鮮血と涎が床に飛び散る。
兵士たちは抵抗するハインリヒの首に太い鉄の枷を嵌め、手足に重い鎖を巻き付けると、まるで屠殺場へ運ばれる豚のように、泥まみれの身体を床に引きずりながら回廊へと連行していった。
「離せぇぇっ! ヴァレリアァッ! お前が悪いのだ、お前が私を裏切ったのだぁぁぁっ!!」
遠ざかる狂人の叫び声。
やがて重厚な鉄扉がバタンと閉ざされ、議場には、ただ彼が撒き散らした汚水と鮮血の染みだけが残された。
議長が震える手で木槌を振り下ろす。
ガガンッ――!!
「これをもって、アルトハイム公爵家の公式なる取り潰しを決定とする!」
千年の歴史を持つ名門貴族の、完全なる滅亡。
ヴァレリア自身は、指一本動かしていない。
ただ、敵が自らの心に蓄積させた悪意が反跳し、公衆の面前で己の罪を絶叫させ、自滅へと叩き落としただけの、完璧なる因果応報の結末であった。
***
――数日後。
カイザーライヒ帝国、迎賓離宮『黒曜宮』。
午後の穏やかな陽光が差し込むプライベートサロンで、ヴァレリアは筆頭侍女長グレーテが淹れたばかりの最高級アールグレイを、優雅に口に運んでいた。
向かいの席では、女軍師ヒルデガルトが眼鏡の位置を直しながら、ガルディニア帝国から届いたばかりの最新の日刊新聞を、テーブルの上に広げていた。
紙面の一面には、これでもかと巨大な活字で、衝撃的な見出しが躍っていた。
『アルトハイム公爵家、完全取り潰し! 前当主ハインリヒ、貴族院にて発狂自白の末に拘束! 五千万枚横領の全貌暴かれる!』
「……帝都は大騒ぎのようですわね、ヴァレリア閣下」
ヒルデガルトが冷涼な笑みを浮かべて告げた。
「前公爵は発狂したまま地下牢へと収監され、全財産は差し押さえ。両腕を炭化させられた次女クロティルデも、貴族籍を剥奪されて貧民窟へと放り出されたとのことです。アルトハイムの血統は、完全にこの世から抹殺されました」
「そう」
ヴァレリアは新聞の見出しに、わずか一瞥だけ視線を走らせた。
哀れみも、感傷も、一片の未練すらない。
ただ、読み終えたチラシを眺めるような、退屈を極めた眼差し。
彼女は白磁の指先で新聞の端をつまみ上げると、長椅子の傍らでパチパチと心地よい音を立てて燃える大理石の暖炉へと、無造作に放り込んだ。
ボッ……。
火の粉が舞い上がり、新聞紙は一瞬にして紅蓮の炎に包まれ、黒い灰となって暖炉の奥へと吸い込まれていく。
十年間、自分を虐げ、血肉を売り払ってきた実家の完全な終焉。
「実家の豚たちの処分は、これで終わりね」
ヴァレリアはカップをソーサーに戻し、窓の外――南東の空を見据えて、妖艶に目を細めた。
「さて……舞台はいよいよ、最後の仕上げに入りますわ」
背後で、魔王ヴォルフラムが獰猛に喉を鳴らし、暗殺者キリアンが恍惚と息を呑む。
絶対の女帝の冷酷な視線の先には――残された最大の道化、第一皇太子ユースティスの待つガルディニア宮殿が、滅びの黄昏に染まりながら横たわっていた。




