第33話:深淵に堕ちた白百合 〜偽りの従順と、道化を煽る毒の囁き〜
夜明け前の鉛色の空を切り裂き、四頭立ての黒塗り馬車が、竜骨山脈の麓からガルディニア帝都ルテティアへと続く軍用街道を猛然と疾走していた。
車輪が跳ね上げる泥水が、幌の側面を汚していく。かつては豪商たちの隊商や豪華な貴族の馬車が行き交っていたこの幹線道路も、いまや沿道の宿場町はことごとく打ち捨てられ、避難民の残骸のような荷車や、飢えに倒れた者たちの骨が放置されたまま、死者の荒野と化していた。
その馬車の豪奢な内部、厚いビロードの長椅子の中央に、セシリア・フォン・ガルディニアは静かに腰掛けていた。
先刻まで身に纏っていた、泥と垢にまみれた粗末な麻布の外套(第30話)は、すでに脱ぎ捨てられていた。
現在、彼女の身を包んでいるのは、ガルディニア皇女としての身分に相応しい、純白のシルクに銀糸の刺繍を散りばめた清楚なドレス。胸元には、控えめながらも気品あるサファイアのブローチが留められ、白銀の豊かな髪は、乱れ一つなく優雅に梳き揃えられている。
外見だけを見れば、敵国の検問所を命がけで突破し、泥水を啜りながら逃避行を繰り広げてきた者とは誰も信じないであろう。
かつて宮廷で「温室の白百合」「心優しき儚げな皇女」と称えられていた、無垢なる第二皇女そのものの姿。
――だが。
その白磁の相貌に浮かんでいた表情は、以前のセシリアとは根底から別異のものへと変貌を遂げていた。
「…………」
セシリアは、窓の外を流れる荒れ果てた風景を、菫色の双眸で見つめていた。
その瞳の奥底に宿っていたのは、かつて祖国の滅びを憂えて流していた哀切の涙ではない。
冬の氷壁のように冷徹で、寸分の狂いもなく標的の喉笛を狙う猛禽の如き、研ぎ澄まされた知謀の光。
彼女の右手は、ドレスの胸元の奥深く――肌身離さず忍ばせてある『ある物』を、愛おしむようにそっと撫でていた。
手のひらに伝わる、かすかな、だが触れるだけで魂が震えるような甘美な温もり。
それは、第32話において自らの血をもって忠誠の誓詞を捧げた際、ヴァレリアから直々に授けられた古代魔導具――【神気の護符】であった。
深淵の紫紺を閉じ込めた涙型の宝珠。
その内部には、ヴァレリアが【悪意の神聖精製】によって生み出した、超高純度の神聖魔力が凝縮されている。
いかなる暗殺呪詛や精神干渉をも寄せ付けない絶対の防護障壁であり、同時に――何千里離れていようとも、ヴァレリアの魂核と常に共鳴し、思考と座標をリアルタイムで伝達し合う、絶対の隷属と接続の証。
(……ああ、ヴァレリア様)
セシリアの胸の奥底が、熱い歓喜で満たされる。
首筋に刻まれた不可逆の血盟の感触。
自分の魂は、もはやあの腐りきったガルディニア帝国のものではない。
世界をチェス盤として弄ぶ絶対の女帝――ヴァレリア・フォン・アルトハイムの、忠実なる「猟犬」としての新しい生命。
祖国を救うためではない。民を哀れんでのことでもない。
すべては――敬愛する主の御前に、最高の破滅劇という名の花束を献上するためだけに。
サッ、と。
閉ざされた馬車内の空間が、わずかに揺らめいた。
馬車の天井の隅、および床の影の中から、音もなく二つの黒い輪郭が立ち上がった。
黒装束を隙間なく纏い、顔の半分を覆った二名の影。
暗殺ギルド『影の旅団』の頭領キリアンが、ヴァレリアの命を受け、セシリアの直属の護衛兼連絡役として配備した、ギルド屈指の特級暗殺者たちである。
「……報告を」
セシリアは視線すら動かさず、低く、透き通るような声音で命じた。
「はっ」
影の一人が、音を立てずに膝をつき、口を開く。
「帝都ルテティアの情勢、さらに悪化しております。大聖堂の焼け跡から漏れ出る黒瘴気により、貴族街の三割が汚染区域に指定。さらに東部公爵領の作物の全滅(第28話)を受け、帝都の食糧価格は昨日の十倍に跳ね上がりました。下層市民による略奪が頻発し、近衛兵団の半数が治安維持に駆り出されております」
「……兄上――ユースティス殿下の動向は?」
「宮殿の執務室に閉じこもり、連日、侍医や将校たちを怒鳴り散らしております。大階段での転落事故(第12話)による鼻骨の歪みと痛みが引かず、精神錯乱に近い状態。また、アルトハイム公爵邸が数万の飢民によって包囲された報(第29話)を受け、『公爵すら我が金を狙っている』と被害妄想を激化させております」
「マリアベルは?」
「自室に引きこもったきり、姿を見せておりません。顔面の火傷の悪化により、狂乱して鏡を割り続けているとのこと。……ユースティス殿下との接触も、ここ二日間途絶えております」
「……ふふ」
セシリアの薄い唇から、微かな、だが冷酷極まりない嗤笑が漏れ落ちた。
完璧。
これ以上ないほどに、道化の舞台は整っていた。
孤立無援。味方を失い、恐怖に苛まれ、自らの虚栄心だけを頼りに震えている無能な皇太子。
その耳元に、今まさに自分が「唯一の救い」としての毒を注ぎ込むのだ。
「ご苦労様でした。影に戻りなさい。……宮殿に入れば、私の合図があるまで絶対に姿を現してはなりませんよ」
「御意、皇女殿下。……すべては、ヴァレリア様の御心のままに」
暗殺者二名は音もなく空気の揺らぎと同化し、再び床と天井の影の中へと完全に溶け込んだ。
セシリアは鏡を取り出し、自らの表情を検分した。
冷酷な笑みをスッと引っ込め、眉をわずかに八の字に寄せ、不安に怯え、だが兄を心から慕う健気な妹の仮面を――寸分の狂いもなく、完璧に張り直した。
***
馬車は、黒瘴気の立ち込める帝都の城門を潜り抜けた。
街道沿いに群がる痩せ細った市民たちの怨嗟の視線、瓦礫の散らばる大通り、そして異臭を放つ噴水を通り過ぎ、宮殿の厳重な防壁の内側へと滑り込む。
馬車を降りたセシリアは、出迎えた近衛兵たちに「兄上はどちらですか?」と震える声で尋ねた。
兵士たちは、生きて戻ってきた皇女の姿に驚愕しながらも、恐る恐る宮殿の奥――皇帝執務室を指し示した。
執務室の重厚なオーク材の扉の前には、数名の高級将校たちが青ざめた顔で立ち尽くしていた。
扉の向こうからは、食器が壁に激突して砕け散る甲高い破裂音と、聞き苦しい罵声が絶え間なく響いている。
「役立たず共が! この私を愚弄するか! 飢民など全員首を刎ねろと言っているのだ!!」
「……失礼いたします」
セシリアは将校たちを制し、自らの手で静かに扉を押し開けた。
室内に充満していたのは、濃厚なアルコールの臭気と、腐りかけた果物の饐えた匂い、そして血と膿の混ざった生臭さであった。
床には引き裂かれた書類と割れた陶器の破片が散乱し、豪奢な絨毯の上を高級ワインの染みが黒々と汚している。
その部屋の奥――巨大な執務机の前に、第一皇太子ユースティスが立ち尽くしていた。
その姿は、かつて社交界で「麗しの皇太子」と持て囃されていた頃の面影など、微塵も残っていなかった。
軍服の胸元は乱雑にはだけ、金糸の肩章は引きちぎられ、手には抜刀したままのサーベルを握りしめている。
そして何より――顔面の中央に巻かれた分厚い包帯。
鼻骨を粉砕された患部は、未だにズキズキと激痛を放っているのか、包帯の隙間から黄色い膿が滲み出ていた。腫れ上がった両目の周囲にはドス黒い鬱血が広がり、血走った眼球が、狂乱の光を帯びて部屋の隅々を彷徨っている。
「誰だッ!? また私を嘲笑いに来たのか!? 近衛兵か、それとも貴族院のスパイか!!」
ユースティスは狂ったようにサーベルを振り回し、入ってきた人影を威嚇した。
だが――そこに立っていたのが、純白のドレスを纏った妹であることに気づいた瞬間、男の動きがピタリと止まった。
「……セ、セシリア……? お前、一体どこへ行っていたのだ!? 宮殿から姿を消したと聞いていたが……!」
「お兄様……っ!」
セシリアの瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
彼女は破片を踏むことも厭わず、ドレスの裾を揺らしながら駆け寄ると、机の前で両膝をつき、ユースティスの軍服の裾にすがりついたのだ。
完璧な、迫真の演技。
「お兄様! 無事でおいででしたのね……! ああ、神よ、感謝いたします……!」
「な、何だ、どうしたというのだセシリア!? 泣くでない、鬱陶しい!」
ユースティスは苛立ちながらも、自分にすがりついて涙を流す妹の姿に、毒気を抜かれたように剣を降ろした。
周囲の将校も、マリアベルすらも自分から距離を置く中、自分を心配して泣き縋る身内の存在が、男の肥大化した孤独と恐怖を微かに宥めたのだ。
「お兄様……私、恐ろしくて、恐ろしくて……! 帝都が暴動に包まれ、大聖堂が燃え、お兄様が怪我をされたと伺い……いても立ってもいられず、敵国カイザーライヒの国境まで、密かに偵察に出ておりましたの!」
「何だと……!? お前が、カイザーライヒの国境へ!?」
ユースティスの血走った目が、驚愕に見開かれた。
「はい……! 商人たちの護衛を装い、竜骨山脈の検問所のすぐ側まで潜入いたしました。隣国の軍勢が、今まさに我が国へ攻め込んでくるのではないかと、この目でお確かめするために……!」
「そ、それで!? 敵の動向はどうなのだ!? やはり、我が帝国の混乱に乗じて、大軍を進発させようとしているのか!?」
ユースティスは机に身を乗り出し、セシリアの肩を鷲掴みにした。
その指先は、恐怖でガタガタと激しく震えていた。
軍事大国カイザーライヒの皇帝コンラートが軍を動かせば、内紛で疲弊したガルディニア軍など一瞬で踏み潰される――その恐怖こそが、ユースティスを最も怯えさせていた悪夢であったからだ。
セシリアは顔を上げ、涙に濡れた菫色の瞳で、兄の目を真っ直ぐに見つめ返した。
そして――用意していた、最も甘美で、最も致死性の高い毒の言葉を、滑らかに紡ぎ出したのである。
「……いいえ、お兄様。まったくの正反対でございました」
「……何?」
「カイザーライヒ軍は……一兵たりとも、国境から動いてはおりません」
セシリアは確信に満ちた聲音で、囁くように告げた。
「それどころか、国境要塞の城門は固く閉ざされ、防衛結界の出力を最大にして、怯えたように籠城の構えをとっておりましたわ」
「籠城……? あの大国カイザーライヒが、籠城だと……!?」
「ええ」
セシリアは頷き、哀れみの色を浮かべて語りかけた。
「我が国で起きている大聖堂の崩壊や、地下の瘴気の噴出……カイザーライヒの上層部は、それを『ガルディニア帝国が放った未知の古代兵器の暴走、あるいは危険な霊的疫病の蔓延』と誤認し、自国へ感染が広がることを死ぬほど恐れているのですわ。皇帝コンラートすら、我が国の底知れぬ混乱を前にして、軍を動かす気力すら失っております!」
「な……」
ユースティスの喉が、息を呑んで鳴った。
「さらに、お兄様。帝都で起きている民衆の暴動ですが……」
セシリアは声を潜め、ユースティスの耳元へと顔を寄せた。
「あれは、民衆が自発的に起こしたものではございません。大聖堂を追われた悪徳神官の残党や、アルトハイム公爵のような不忠の臣が、己の横領を隠蔽するために愚民どもを金で扇動しているだけに過ぎないのです!」
「神殿の残党と……アルトハイム公爵が、愚民を扇動しているだと!?」
「はい! 彼らは、お兄様が玉座に就かれることを恐れているのです! お兄様のような英明なる主権者が全権を掌握すれば、己の不正が暴かれると悟り、必死で煙を巻こうとしているのですわ!」
セシリアの言葉は、ユースティスの脳髄が「最も欲していた解答」そのものであった。
自分の失政ではない。
マリアベルの無能のせいでもない。
すべては神殿の残党と公爵の陰謀であり、外敵たるカイザーライヒすら自分を恐れて震え上がっている――。
「そ、そうか……! そうだったのか!!」
ユースティスの濁っていた瞳に、一瞬にして、狂乱の歓喜と傲慢の光が蘇った。
包帯の下の醜く歪んだ顔面が、下卑た笑みによって引き攣る。
「やはりそうか! カイザーライヒの皇帝ごときが、我が帝国の十万の精鋭を前にして、軽々しく動けるはずがなかったのだ! 我が軍の威容を恐れ、国境の穴倉に震えて引きこもっていたのだな!!」
「ええ、その通りでございます、お兄様!」
セシリアは立ち上がり、胸の前で両手を組んで、狂信的な崇拝の眼差しを兄へと向けた。
「父皇帝陛下が病に倒れられた今、この大陸を導く真の覇王は、お兄様ただ一人。……今こそ、お兄様がガルディニア軍十万の全権を掌握し、皇帝としての絶対の威厳を天下に示すべき時ですわ!」
「全軍の掌握……!」
ユースティスは唾を飲み込み、胸を張った。
「愚民どもの暴動など、近衛兵の軍靴で踏み潰せば一日で鎮圧できます。そして、国境で震えるカイザーライヒに対し、我が帝国軍の圧倒的な武力を見せつけて屈服させるのです! そうすれば……お兄様の名は、初代皇帝をも超える偉大なる征服王として、歴史に永遠に刻まれますわ!」
「おお……! おおおおっ!!」
ユースティスは天を仰ぎ、喉を震わせて歓喜の雄叫びを上げた。
劣等感と恐怖に押し潰されかけていた矮小な自尊心が、セシリアの注ぎ込んだ甘美な毒によって、破裂寸前まで肥大化していく。
男はサーベルを鞘に収めると、セシリアの両肩を激しく揺さぶった。
「よくぞ知らせてくれた、セシリア! 我が愛しき妹よ! 宮廷の者どもが揃いも揃って私を裏切る中、真に我が偉大さを理解していたのは、お前だけであったか!!」
「もったいなきお言葉でございます、お兄様……」
セシリアは恥じらうように首を傾げ、可憐に微笑んだ。
「よし、すぐに軍務卿を呼べ! 貴族院の諸侯を招集しろ!」
ユースティスは狂乱のまま、大股で執務室の扉へと向かって歩み出した。
「病床の父上に代わり、この私が全軍の最高司令官に就任する! 帝都を平定し、カイザーライヒへ我が帝国の威光を叩きつけてやるのだぁぁっ!!」
バタンッ!!
扉が荒々しく開け放たれ、ユースティスは取り巻きの将校たちを引き連れて、意気揚々と回廊の向こうへと去っていった。
自ら掘った底知れぬ墓穴へ向けて、全力で突進していく哀れなピエロの後ろ姿。
「…………」
静まり返った執務室の中に、セシリアは一人、取り残された。
廊下から遠ざかる兄の足音を聞き届けながら――セシリアの顔から、先ほどまでの従順で儚げな妹の笑みが、フッと消え去った。
残されたのは、氷のように冷たく、昏く研ぎ澄まされた、完全なる上位捕食者の瞳。
「……ふふ」
セシリアはドレスの胸元にそっと手を差し入れ、衣服の下に隠された【神気の護符】を、指先で強く握りしめた。
宝珠を通じて伝わってくる、遠く離れた黒曜宮の特等席に座るヴァレリアの、満足げな気配。
「踊りなさい、惨めな道化の兄上」
セシリアは冷ややかに呟き、兄が投げ捨てていった血染めの羊皮紙を、ハイヒールの爪先で無造作に踏みにじった。
「貴方が踊れば踊るほど、我が主の復讐劇は最高に美しく輝くのですから」
白百合の仮面を被った毒蛇の冷笑が、薄暗い執務室の空気に、どこまでも甘く、静かに溶け込んでいった。




