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第32話:毒杯の契約 〜顎をすくう冷たき扇子と、血で刻まれし猟犬の誓い〜

大謁見の間の広大な空間に、鉛のように重く、息を吸い込むことすら躊躇われるほどの沈黙が立ち込めていた。

天井の夜光石が放つ青白い燐光が、大理石の床に這いつくばる第二皇女セシリアの華奢な背中を冷たく照らし出している。

額を床に擦り付けたまま、彼女の身体は小刻みに、だが激しく痙攣していた。


――『救済など、この世で最も無価値な施しよ』。

――『私がいつ、慈悲深い聖女などと名乗ったかしら?』。


玉座から容赦なく投げ下ろされた氷の宣告が、セシリアの鼓膜の奥で、鋭利な刃となって何度も反響していた。

頭を殴られたような衝撃。

自らの甘さを、思い上がりを、これほどまでに残酷な形で暴かれたことはなかった。

命がけで竜骨山脈を越え、祖国の軍事機密を携えてここまで辿り着いた。自分は泥を啜る覚悟をしたつもりだった。身分を捨て、誇りを捨て、ただ無辜の民の命を救うために頭を下げたのだと――心のどこかで、自らのその行いを「悲劇の美談」として正当化していたのだ。


だが、ヴァレリア・フォン・アルトハイムという絶対の女帝の前には、そんな薄っぺらい感傷など、路傍の汚泥にも劣る自己満足に過ぎなかった。

処刑場の崖の上で、彼女に石を投げつけ、罵声を浴びせ、処刑を歓呼で迎えた帝都の民衆たち。十年間、彼女が骨を軋ませて支え続けていた平穏を当たり前のものとして貪り、偽聖女が現れた途端に彼女を踏み躙った愚者たち。

彼らが今、疫病に倒れ、毒水に苦しみ、自業自得の地獄絵図の中で飢えに狂っている。

なぜ、かつて裏切られ、生贄として奈落へ落とされた復讐者が、そんな豚どもに慈悲のパンを与えてやらねばならないのか。


理不尽の極み。

だが、これ以上ないほどに論理的で、美しい因果の清算。


「う……っ、ぐ……っ」


セシリアの唇から、血の混ざった呻きが漏れた。

悔し涙ではない。

自らが求めた「救世主」など初めからこの世のどこにも存在せず、目の前にいるのは、ただ自らを裏切った世界を玩具として弄ぶ、至高の悪魔そのものであるという戦慄すべき現実。


その時であった。


カツン、カツン、と。

五段の石段の上から、あまりにも澄み渡った、硬質な足音が響き始めた。


セシリアの視界の端、大理石の床に落ちる影が、ゆっくりと動く。

黒革のヒールが石段を一歩、また一歩と優雅に降りてくる音。

夜を編み上げた深い群青のドレスの裾が、衣擦れの微かな音を立てて絨毯を滑っていく。

ヴァレリアが、玉座から立ち上がり、自らの足で降りてきたのだ。


石段の下に控えていた魔王ヴォルフラムが、主の足元を遮らぬよう恭しく身を屈めて道を開け、皇帝コンラートが腕を組んだまま、獰猛な興味を湛えた琥珀色の双眸でその歩みを見守っている。

大気を震わせるほどの超高密度の神聖魔力が、ヴァレリアの歩みに呼応して波打ち、謁見の間の空気を一瞬にして氷点下まで凍てつかせていく。


やがて――足音が、セシリアの頭のすぐ前でピタリと止まった。


甘く、どこか冷涼な百合の花のような香気が、鼻腔をくすぐる。

セシリアは息を詰まらせ、床に額を擦り付けたまま、自らの項に落ちる冷たい影の質量を感じていた。

殺されるのか。

無礼な哀願を繰り返した罪として、背後の魔王の黒炎に焼かれ、塵一つ残さず消滅させられるのか――。


だが、訪れたのは死の衝撃ではなかった。


スッ……。


セシリアの顎の下に、滑らかな黒骨の先端が滑り込んできた。

ヴァレリアが手にした、漆黒の扇子。

その扇子の先端が、セシリアの震える顎の骨を、わずかな力ですくい上げたのである。


「……あ」


抗うことなどできなかった。

クイッ、と持ち上げられたセシリアの顔が、上へと向けられる。

涙と泥で汚れ、乱れた白銀の髪の隙間から覗くセシリアの菫色の瞳が――至近距離で、ヴァレリアの紫紺の双眸と正面から激突した。


息を呑むほどの、美しさ。

至近距離で見るヴァレリアの貌は、人間の領域を遥かに超越していた。

毛穴一つない白磁の肌は、内側から透き通るような神気を放ち、切れ長の瞳には、地獄の底から這い上がってきた者だけが宿す、星屑のように冷たく、美しい狂気が沈殿している。

その整った紅い唇が、セシリアを見下ろしながら、ゾッとするほど妖艶な弧を描いた。


「救済など、この世で最も無価値な施しよ。……お分かりかしら、セシリア?」


扇子の先端が、セシリアの喉仏をなぞるように滑り落ち、鎖骨の窪みへと冷たく突き立てられる。

わずか一ミリでも動けば、その柔らかな喉笛を突き破られそうな緊張感。


「私は救世主ではなく、復讐者です。あの愚かな国が、自らが蒔いた悪意と強欲の種によって骨の髄まで腐り果て、愚者たちが自らの血と肉を啜り合って自滅していく……。その阿鼻叫喚の地獄絵図を、最高級のワイン片手に、最前列の特等席で観賞すること。それだけが、今の私の唯一の望みですの」


ヴァレリアの聲音には、一片の迷いも、揺らぎも存在しなかった。

かつて地下牢で語り合っていた時の「気高き聖女」の面影を重ね合わせようとしていたセシリアの淡い幻想を、木っ端微塵に粉砕する、絶対のピカレスクの言葉。


「ならば……」

セシリアの唇から、掠れた吐息が零れた。

「ならば、なぜ……私を即座に殺さないのですか……? 仇敵たるガルディニアの皇族……ユースティス兄上の妹である私を、なぜ……」


「ふふ……」


ヴァレリアの喉から、鈴を転がすような笑い声が漏れた。

彼女は扇子の切っ先を離すと、パチンと心地よい音を立てて扇子を閉じ、セシリアの濡れた頬をその平たい面でペチペチと軽く叩いた。

まるで、出来の悪いペットを躾けるかのような、冷徹な親愛の仕草。


「慈善活動をする気はありませんけれど。――投資(・・)なら、考えてあげてもよろしくてよ?」


「……投資、ですと……?」


「ええ」

ヴァレリアは身を翻し、ドレスの裾を優雅に翻した。

彼女はセシリアの周囲を、ゆっくりと円を描くように歩きながら、その冷酷な条件を淡々と紡ぎ始めた。


「貴女が持参した手土産――ガルディニア全軍の要塞配置図と、地下水脈図。……ええ、悪くない情報ですわ。ですが、そんな紙切れ数枚で、貴女の命と、あの国の民の命が買い取れるなどと思わないことね」


ヴァレリアの足音が、セシリアの背後で止まる。

冷たい囁きが、皇女の耳元へと滑り込んできた。


「生き残りたいのでしょう、セシリア? あの泥舟のような祖国と共に、無様に溺れ死にたくはないのでしょう?」


「……っ!」

セシリアの背筋が、ピシリと跳ね上がった。


「ならば、相応の対価を支払いなさい。――貴女の魂を、私のチェス盤の上へ差し出すのよ」


ヴァレリアは細い指先を一本立て、セシリアの目の前で、不可視の運命の糸を紡ぎ出すように宙をなぞった。


「第一の条件。貴女は今すぐ、その粗末な泥の外套を脱ぎ捨て、あの地獄のようなガルディニア宮殿へと戻りなさい」


「宮殿へ……戻る……!?」

セシリアが信じられない思いで目を見開いた。命がけで脱出してきたあの伏魔殿へ、自ら引き返せと言うのか。


「ええ。そして、あの愚鈍極まりない異母兄――ユースティスの足元に侍る従順な妹を、完璧に演じなさい」


ヴァレリアの唇が、毒を含んだ三日月形に吊り上がる。


「大聖堂を失い、公爵領を失い、東部国境に魔獣が迫る中、あの男は今、激しい恐怖と劣等感に狂いかけていますわ。……怯えた臆病者ほど、過激で無謀な選択に縋り付くもの。貴女のその怜悧な知恵を、兄を救うためではなく――あの男の背中を、崖っぷちから突き落とすために使いなさい」


「兄上を……突き落とす……」


「そうよ。兄の虚栄心を煽り立てなさい。『我が国にはまだ十万の精鋭軍がある』『カイザーライヒは混乱を恐れて動けない』『今こそ打って出るべきだ』と、甘い毒の言葉を耳元で囁き続けるのです。あの男を完全に狂乱させ、カイザーライヒへの無謀極まりない全面戦争へと突入させる……それが、貴女の最初の役目よ」


鳥肌が立つほどの、悪魔の調教。

実の兄を、自らの言葉で操り人形にし、国家の全軍を道連れにして破滅の突撃を敢行させる内通工作。


「そして、第二の条件」

ヴァレリアの冷涼な声が、謁見の間の大気をさらに切り裂く。


「軍が壊滅し、帝国が完全に内側から崩壊したその時――貴女自身の手で、千年以上続いたガルディニアの皇統に、永遠の終止符を打ち破棄しなさい。城門を内側から開け放ち、カイザーライヒ軍を無血で帝都へ迎え入れ……そして」


ヴァレリアはセシリアの正面へと回り込み、再びその紫紺の双眸で、皇女の瞳の奥を射抜いた。


「――カイザーライヒの『属州総督』として、我が足元に永遠の臣従を誓い、私の靴底に口づけをしなさい」


「…………っ!!」


セシリアの息が、完全に止まった。

過酷。あまりにも過酷で、あまりにも残酷な条件。

皇族としての血統を自ら断ち切り、祖国を解体し、敵国の属州として差し出し、生涯をヴァレリアの奴隷――手駒として生きろと言っているのだ。


「兄を地獄へ突き落とし、泥を啜ってでも、祖国の屍の上に立って生き残る覚悟がおあり? ……セシリア」


ヴァレリアの問いかけは、静かであった。

だが、その静けさの中に、絶対の選択が迫られていた。

断れば、ここで即座に魔王の炎に焼かれて死ぬ。

受け入れれば、自らの手を祖国の血で汚し、修羅の道を歩むことになる。


セシリアは、大理石の床を見つめた。

震える自分の手。

泥に汚れた麻布。

脳裏に去来するのは、幼き日に地下牢の鉄格子越しに見た、あの少女の瞳。

『自分の頭で考え、自分の足で立ちなさい。誰かの言いなりになるのではなく、貴女自身の誇りのために生きるのよ、セシリア』


――誇り。

皇族としての血統にしがみつき、滅びゆく愚者たちと共に共倒れになることが、果たして誇りだろうか?

否。

無能な兄の暴走に巻き込まれ、無残に泥を啜って死ぬことなど、何の誇りでもない。

真の誇りとは――どれほど泥に塗れようと、どれほど世界から悪魔と罵られようと、自らの意志で運命を選択し、最後まで生き残ることではないのか。


そして何より。

セシリアの胸の奥底で、ドクン、と熱い血潮が跳ね上がった。


(……美しい)


見上げるヴァレリアの姿。

理不尽のすべてを呑み干し、絶対の支配者として君臨するその冷酷無比なる美貌。

恐怖の底で、セシリアの魂は――戦慄すると同時に、どうしようもないほどの恍惚と熱狂に撃ち抜かれていたのだ。

この女性のチェス盤の上で動く駒になれるのなら。

この絶対の女帝の足元で、敵を切り裂く鋭利な牙になれるのなら――皇族の座など、最初から何の未練もなかった。


「…………ふ」


セシリアの唇から、震える笑みが漏れた。

彼女の菫色の瞳から、迷いも、涙も、一片の弱さも完全に消え去った。

そこに宿ったのは、かつて地下牢のヴァレリアが見せたものと同じ――氷のように冷たく、狂気に研ぎ澄まされた、絶対の覚醒の光。


「……愚問でございます、ヴァレリア様」


セシリアはゆっくりと背筋を伸ばし、顔を上げた。

その瞳で、ヴァレリアの紫紺の双眸を真っ直ぐに見据え返す。


「兄を地獄へ叩き落とすことなど、今の私にとっては至上の歓喜に過ぎません。あの無能な男が、自らの浅ましさに首を絞められて死んでいく様を、この手で演出できるというのなら……これ以上の喜びがどこにありましょうか」


セシリアの口から紡ぎ出されたのは、もはや哀れな皇女の命乞いではなかった。

祖国を内側から食い破るための、冷酷なる共犯者の言葉。


「救世主など、最初から求めてはおりませんでした。私が求めていたのは……この腐りきった世界を跡形もなく焼き払い、新たな理を打ち立ててくださる、真なる覇王の御姿。……ヴァレリア様。喜んで、貴女様の忠実なる猟犬となりましょう」


「……あら」


ヴァレリアの片眉が、わずかに跳ね上がった。

予想以上の、劇的な転向。

ただの怯えた小娘かと思えば、その魂の奥底には、自分と同じ「毒」を受け止め、それを力へと反転させるだけの器量が眠っていたのだ。


「いい返事ね、セシリア」


ヴァレリアが軽く指を鳴らすと、柱の影から女軍師ヒルデガルトが歩み出てきた。

ヒルデガルトの手には、羊皮紙で作られた一巻の書状――カイザーライヒ帝室の最高位魔導契約書『不可逆の血盟誓詞』が握られていた。


「契約書です、殿下」

ヒルデガルトが眼鏡を押し上げ、冷徹に告げる。

「これに署名した瞬間、貴女の魂核はヴァレリア閣下の魔力回路と直結します。もし閣下に仇なす心、あるいは裏切りの意志を抱けば、因果の天秤が作動し、貴女の心臓は一瞬で内側から破裂いたします」


「望むところです」


セシリアは躊躇うことなく手を伸ばした。

彼女はペンを受け取らなかった。

自らの右手の親指の爪を、口元へ運び――ガリッ、と音を立てて強く噛み切ったのだ。


ポタリ、と滴り落ちる鮮血。

セシリアは血に濡れた親指を、羊皮紙の署名欄へと力強く押し付けた。

ジュウウウッ、と紫紺の燐光が走り、皇女の血が契約書の魔導陣へと瞬時に吸い込まれていく。

契約成立。

魂の奥底に、見えない絶対の首輪が嵌め込まれた瞬間であった。


誓詞をヒルデガルトへ手渡すと、セシリアは再び両膝をつき、ヴァレリアの足元へと進み出た。

そして――何のためらいもなく。

大理石の上に広がる、ヴァレリアの漆黒と群青のドレスの裾を、自らの両手で恭しく抱き上げた。


チュッ、と。


静寂の中に、熱烈で、狂信的な誓いの口づけの音が落ちた。


「我が命、我が魂の最後の一滴まで……貴女様に捧げます。我が唯一の女帝、ヴァレリア様」


額をドレスの裾に擦り付け、恍惚とした笑みを浮かべるセシリア。

かつて祖国ガルディニアの誇り高き白百合と呼ばれた皇女は、今、自ら泥の深淵へと身を投げ、世界で最も危険な猟犬へと生まれ変わったのだ。


石段の上で、皇帝コンラートが豪胆に喉を鳴らして笑い、魔王ヴォルフラムが「また目障りな飼い犬が増えたな」と忌々しそうに舌打ちをする。

だが、ヴァレリアは男たちの反応など意にも介さず、足元で平伏する新たな手駒を見下ろし、満足げに目を細めた。


「よく誓いましたね、セシリア。……その首輪、決して外れることはありませんことよ」


ヴァレリアの唇が、極上の冷酷さを湛えて綻ぶ。

敵の懐深くに放たれる、最も美しく、最も致命的な毒針。

ガルディニア帝国という名の巨木を、内側から完全に食い尽くすための最後の布石が、ここに完璧に打ち込まれたのであった。

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